Another View of Japan

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機密のポーランド文書(その2)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

Media Sensation
ドイツ政府は押収したポーランド文書は大変な重要性を持つと考えた。3月29日の金曜日ドイツ国の宣伝省は、文書を公表する理由を日刊紙に内密に伝えた。

 

――初版を皮切りに土曜日に出版されるであろうそれらの驚くべき文書は、第一級の政治的センセーションを引き起こすであろう、なぜなら現在の戦争の勃発に対するアメリカの責任の程度をそれらが事実上証明している。アメリカの責任は、言うまでもなく、論評において強調してはならない。文書は、それ自体に語らせるため残されなければならず、それらは十分明確に語る。

宣伝省は、ドイツ国ドイツ国民にとってこの上なく重要な、これらの文書の出版のために十分なスペースを確保するよう具体的に要請している。

これらの文書を出版する目的は、アメリカの孤立主義者を強化し、特にルーズベルトが再び選挙に立候補しているという事実に鑑み、彼を擁護できない立場に置くことにあると、我々はあなたに内密に伝える。しかしながら我々がルーズベルトの責任を指摘する必要は全くない。彼のアメリカ国内の敵がそれを引き受けるであろう。――

 

ドイツ外務省は1940年3月29日金曜日に文書を公開した。ベルリンではアメリカを含む世界中のジャーナリストに、元のポーランド文書とドイツ語翻訳の複写コピーが与えられた。ジャーナリストは元の文書そのものに加えて、ポーランド外務省の膨大な他の文書を調査することを許可された。

 

文章の公開は国際的にメディアのセンセーションを引き起こすものだった。アメリカの新聞はこの記事に、第一面に大きな見出しを与え、文書からの長い抜粋を発表した。だがその影響は、ドイツ政府が期待していたよりもはるかに少なかった。

 

主要なアメリカ政府の官僚達はすかさず真正ではないと文書を激しく非難した。コーデル・ハル国務長官は述べた。「私も国務省の私の同僚達も、それら申し立てられたような非公式会談をこれまでに聞いたことがない、のみならず我々はそれらを全く信用しないと、最大に強調して私は言うことができよう。申し立てられた声明書は、何らかの形であれどのような時であれアメリカ政府の考えや政策に対応したことはない」。この文書によって特に告発されたパリ駐在の米国大使、ウィリアム・ブリットは発表した。「私が作成したとされる声明書を私が誰かに作ったことは無い」。そしてワルシャワへの機密報告書が最も暴露していたワシントンのポーランド大使、Count Jerzy Potockiは宣言した。「私は私の報告書に起因する疑惑を否定する。ブリット大使とアメリカの戦争への参加について話をしたことは一度もない」。

 

最上級の官僚達によるこれらの断定的な公然の否定は、文書の予想された影響をほぼ完全に打ち消す効果があった。これは、このような公式の否定について強く疑いを抱くことを異なる世代のアメリカ人に教えたベトナム戦争ウォーターゲートの経験の、数十年前であったことを思い出さねばならない。1940年には、大多数のアメリカ国民は、政治指導者達が彼らに真実を伝えると信頼していた。

 

結局、ドイツ政府によって世界に公開された文書が実際に本物で真正であれば、それは、ドイツ政府が真実を語っている間、アメリカ民主主義の偉大な指導者は自分の国民に嘘をつき、自国の法律を破った人物であったことを意味する。それを認めることは、どのような国家にも、特に信じやすいアメリカの大衆にも、大いに期待されることになるだろう。

 

キャピトル・ヒル(注:アメリカ合衆国議会議事堂がある地域)からのコメントは概ね公式の政府見解を繰り返した。外交委員会の民主党議長であるキー・ピットマン上院議員はこの文書を「アメリカ国内で意見の衝突を引き起こすように意図されたまったくの虚偽」と呼んだ。フロリダ州民主党員、クロード・ペッパー上院議員は「ドイツのプロパガンダであり、決して我々の政策に影響を及ぼすべきではない」と宣言した。公式の否定に感動しなかった者はごく少数だった。ニューヨークの下院議員で下院外交委員会の一流の共和党員、ハミルトン・フィッシュは、議会の調査を要求しラジオ演説において宣言した。「これらの告発が事実であれば、それは反逆行為を構成するだろう。もしルーズベルトが我々を戦争に巻き込むために外国政府と密約ないし約束を結んだのであれば、彼は弾劾されるべきである」。

 

アメリカの新聞は文書の公開を報じる際、高級官僚の否定を強調した。ニューヨーク・タイムズの見出し「我々が欧州の戦争を助長し必要ならば連合国に加わると約束したと告発するナチス文書にアメリカは虚偽の烙印を押す」。ボルティモア・サンの見出し「アメリカに戦争の責任を負わせるナチス文書はワシントンで激しく攻撃された」。

 

ポーランド文書の本は「第一集」と書かれていたけれども、続巻は今までに出版されなかった。ドイツ政府は時々、ポーランド文書局から追加の文書を公表したものだった。フランス外務省および他のヨーロッパの文書局からドイツ人が押収した他の多数の文書を加えて、これらは1943年に『ルーズベルトの戦争への道:米国大統領の戦争政策に関する機密文書』のタイトルで書籍形式で出版された。

 

重要な未解決の問題は・・元のポーランド文書は今日どこにあるのか?もしそれらが戦争の大火災で焼失していなければ、それらはおそらく1945年にアメリカ、あるいはソ連のいずれかの手に落ちたのであろう。最近のアメリカ政府の機密記録資料における政策を考慮すると、それらがアメリカによって取得されていた場合、今なお秘密に置かれている可能性は極めて低い。それらが焼失していなければ、モスクワか、ポツダム東ドイツ国立中央公文書局のどちらかに現在あるというのが私の推測だ。

 

これらの機密報告書がトップレベルのポーランド大使達によって書かれたことに留意することはとりわけ重要だ、つまり、ドイツにまったく友好的ではなかったけれども、それでもなおアメリカで政策を立てた人々よりもはるかに欧州政治の現実を理解していた人々によって書かれた。

 

たとえば、民主主義と人権、そしてアメリカへの愛情表現についてのレトリックの陰に隠れて、ドイツに対する戦争を扇動したユダヤ人は実際には彼ら自身の純然たる派閥の利益を冷酷に推進すること以外に何もしていなかったと、ポーランド大使達は気が付いた。何世紀にもわたってユダヤ人と密接に暮らしてきた経験はポーランド人に、最も多い民族よりもはるかに、この人々の特殊な性格を意識させた。

 

ポーランド人は1938年のミュンヘン会談をルーズベルトや彼の同僚とは非常に異なった見方をした。大統領は、チェコスロバキアの350万のドイツ人に自決権を与え、重大な欧州危機を解決したミュンヘン合意を、ドイツの脅迫に対する恥ずべき屈辱的な降伏文書として激しく非難した。ドイツの力を警戒していたけれども、理由の一つとして、住民の希望に反してチェコスロバキアの一部であった小さなポーランド領域が和解の結果ポーランドと統一されたため、ポーランド政府はミュンヘン合意を支持した。

 

ポーランド使節達はアメリカ外交政策の策定者に軽蔑に近い感情を抱いた。ルーズベルト大統領はアメリカ世論を形成する方法を知った政治の達人とみなされたが、欧州の内情はほとんど知らなかった。ワシントンのポーランド大使がワルシャワへの報告書で強調したように、ルーズベルトは大統領としての彼の国内政策の失敗から注意をそらすためにアメリカを戦争に押し込んだ。

 

1933年から1939年までのドイツとポーランドの関係の複雑さ、そして1939年9月1日の夜明けにドイツがポーランドに攻撃した理由に立ち入ることは、この論文の範囲を超えている。しかしながらポーランドは、ドイツのダンツィヒの自決権、そしていわゆるポーランド回廊のドイツ系少数民族について、交渉することすら拒否していたことには留意されるべきである。ポーランド人のテロ活動の増加とポーランド統治下の150万のドイツ系住民に対する強奪にヒトラーが反応した時、彼は武力に訴えざるを得ないと感じた。私の見解では、もし軍事行動が正当化されるならば、それは1939年のポーランドに対するドイツの戦役であった。

 

ポーランドの強情な交渉拒否はイギリスからの軍事の裏書という運命的な白地小切手保証によって可能になった・・最終的に不幸なポーランド人にとっては全く無益と示した約束。勝利を得たドイツの作戦の電撃的な速さを思えば、今日、ポーランド政府がドイツとの戦争を恐れなかったと理解するのは困難である。ポーランドの指導者たちはドイツの力は幻想に過ぎないと愚かに信じていた。彼らは、数週間以内に彼らの軍隊がベルリンを占領し、拡大したポーランド国にさらにドイツの領土を加えるだろうと思い込んだ。ドイツとポーランドの全く局所的な対立が、ドイツに対するイギリスとフランスの宣戦布告によって欧州全体の大火災に変形したにすぎないことに、留意することも重要である。

 

戦後ニュルンベルクで開催された国際軍事裁判所で、連合国が任命した裁判官は、ドイツ弁護のための証拠としてポーランド文書を認めることを拒否した。これらの証拠書類が認められていれば、ニュルンベルクの事業[葬儀業]は、勝者による見せしめ裁判ほどではなく、いっそう偽りなく公正な国際司法裁判所であったかもしれない。

 

 

機密のポーランド文書(その1)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe: The Secret Polish Documents

Mark Weber

 

フランクリン・デラノ・ルーズベルトの生誕100周年を記念して、1982年に主要な式典が開催された。ワシントンとリンカーンを例外として、アメリカの歴史上ほかならぬ大統領として彼は栄誉を与えられ賞賛された。保守的なロナルド・レーガン大統領でさえ賞賛する一団に加わった。1983年の初頭、新聞やテレビ放送はルーズベルトの就任50周年記念に多数の賞賛と賛辞を送った。

 

それにもかかわらず、マスメディアや政治家によって描かれたルーズベルトの輝くイメージを否認する新たな証拠が、年を追う毎にますます明るみになっている。

 

1941年12月の日本の真珠湾攻撃に先立ってアメリカを第二次大戦に干渉させるための、欺瞞と真っ赤な嘘のルーズベルトのキャンペーンについては既に数多く書かれてきた。アメリカの中立と国際法に反したルーズベルトの英国とソ連への援助、アメリカに対するドイツの宣戦布告を引き起こそうとする大西洋での彼のドイツに対する戦争行為、憲法に違反したイギリス諜報機関によるアメリカ市民に対する莫大な「不正工作」キャンペーンへの彼の許可、そして真珠湾に対する攻撃を引き起こした彼の日本に対する挑発と最後通牒・・これはすべて広く文書化されており、よく知られている。

 

第二次世界大戦そのものの発生についてのルーズベルトの莫大な責任の話についてはあまり知られていない。このエッセイは、1939年9月の戦闘行為(訳注:ポーランド侵攻を指していると思われる)が発生するより前の、ヨーロッパで戦争を引き起こすためのルーズベルトの秘密のキャンペーンに焦点を当てている。とりわけ英国・フランス・ポーランドに圧力をかけてドイツに対して戦争させようとする、1938年と1939年の彼の努力について論じる。

 

フランクリン・ルーズベルトは、既にヨーロッパを巻き込んでいた戦争に、法を犯してアメリカを巻き込んだだけではなかった。彼はこれまでで最も破壊的な戦争の発生について、歴史の前に重大な責任を負う。

 

ワルシャワが1939年9月に占領されたときにドイツの手に渡った、あまり知られていないポーランド機密文書のコレクションに、本論文は大きく依存している。それらの文書は第二次世界大戦を引き起こすためのルーズベルトの重要な役割を明確に立証する。それらは戦争へと押し進めた大統領の背後にある力をも明らかにする。

 

少数の歴史家がこれらの文書から文や段落までもを引用してきたが、重要性は十分に評価されてこなかった。思うに、これには3つの理由がある。第一に、それらの信憑性は何年もの間、明白に証明されなかった。第二に、文書の完全なコレクションは英語で利用できなかった。そして第三に、これまでに英語で利用可能だったそれらの文書の翻訳は、不十分で容認できないほどに粗悪である。

 

1939年9月の終わりにドイツがワルシャワを占領したとき、彼らはポーランド外務省から大量の文書を押収した。ミュンヘンのKarl Otto Braun博士は1983年4月8日の手紙で、彼の個人的な知人のFreiherr von Kuensbergが率いた親衛隊部隊によって押収された文書を私に知らせてきた。奇襲攻撃によって部隊はワルシャワの中心部を正規ドイツ軍よりも先に占領した。官僚が不利な書類を燃やしつつあるちょうどそのとき、部下がポーランド外務省の支配権を握ったとVon KuensbergはBraunに語った。Braun博士は1938年から1945年の間、ドイツ外務省の役人だった。

 

ドイツ外務省はかつてドイツ国ワルシャワ大使だったハンズ・アドルフ・ボン・モルトケを、コレクションを調査しおそらく出版に適するであろう文書を整理するための、特殊な公文書委員会の長に選んだ。1940年3月の末、それらのうち16が「戦前の歴史に関するポーランド文書」というタイトルの本として出版された。外務省版には「ドイツ白書 No.3」の副題が付けられた。この本はすぐにベルリンと他のいくつかのヨーロッパの首都で、様々な外国語版で出版された。アメリカ版はHowell, Soskin and Companyからドイツ白書としてニューヨークで出版された。歴史家のC・ハートレイ・グラッタンはひときわ慎重で控えめな序文を寄稿した。

 

アメリカ白書版の文書の翻訳は許し難いほどに粗悪だった。文の一部または全体が欠けており、一部は全く誤って翻訳されていた。H・キース・トンプソンは1983年3月22日の会話と1983年5月13日の手紙で、なぜこれがそうなったのかを私に説明した。不十分な最初の英語訳の原稿はベルリンで準備され、アメリカに送られた。それは有名な親ドイツのアメリカ人宣伝係で、ニューヨークでのドイツ図書情報の文学顧問、ジョージ・シルヴェスター・ヴィエレックに渡された。トンプソンはヴィエレックと親密な知人で、主要な助手かつリライターを務めた。ヴィエレックは慌ただしくベルリンからの翻訳を読みやすい文書に下書きし直したが、それをポーランド語の原文(いずれにしても彼は読むことができなかった)または、公式のドイツ語版ですら比較する機会が無かった。読みやすさのため文体の変更をなす際に、元の文書の意味はそれによって不注意に歪められた。

 

この問題は1956年、ニューヨークのホテル・ベルクレアのヴィエレックの部屋で、トンプソンが主催するローレンス・デニスのための少人数の夕食でも議論された。ヴィエレックは、出版物の宣伝効果に責任があるドイツ政府の高給の文学コンサルタントであった、通常は事務員が行った翻訳作業に携わることはできなかった、と説明した。わかりにくい文書の最も慎重な翻訳でさえも元の意味を歪めがちであり、文学的な編集は確実にそうなる、とヴィエレックは言った。トンプソンはその見解に同意した。

 

このエッセイの英語テキストを作成する際には、ドイツ語の公式翻訳やその他の翻訳を慎重に検討し、そしてそれらを元のポーランド文書の複写と比較した。

 

 

蒋介石へのインタビュー(その2・完結)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

Foreign relations of the United States : 1949 V8. | HathiTrust Digital Library p.412~

 

 

Press Interview by Generalissimo Chiang Kai-shek

質問・・「中国はこの新たな抵抗戦争に、どのようにすれば勝つことができますか? どのような支援が必要ですか?中央政府は外国の支援なしに生き残ることはできますか?あなたは第三次世界大戦を予想しますか?」

回答・・「アメリカにとって最初の段階は、共産主義との戦いにおいて中国政府に道徳的な支援を与える政策を再開することであると、私は思います。中国における共産主義に対するこの戦いは現在の共産主義の脅威からの、中国の自由のための闘いであるのみならず、自由世界の平和と安全保障のための戦いであり、それは疑いなくアメリカが世界の他の地域で追求している、まさにその原則です。」

「中国への現在の共産主義の脅威は、先の世界大戦の遺産です。その戦争で共に戦い血を流したアメリカは、元同盟国であった中国で起こっていることに無関心ではいられないと私は思います。」

「そしてまた、共産主義との戦いにおける世界のリーダーシップを引き受けていることからも、アメリカは中国を援助の対象から除外しないでしょう。さもなければ、共産主義に対する民主主義諸国の戦いの将来はまさしく暗いものとなり、人類への惨禍は取り返しがつかなくなるでしょう。」

 

質問・・「共産主義者との交渉による平和の可能性は今でもわずかなのでしょうか?」

回答・・「25年の間、共産主義者に対応してきた私達の経験から、共産主義者と和解することは何者にも不可能であると学びました。この質問については国民党や政府のメンバーの間に意見の相違はありません。」

共産主義との戦いのため、国民党の団結の強化へと私はさらに最大限に努力します。」

 

質問・・「この中国のための闘いにおいて、あなた自身の現在の、あるいは将来の役割をどのように解釈していますか?もしあるなら、どのような情勢の下であなたは国家の積極的な指導者に復帰するのでしょうか?」

回答・・「孫文博士の死に際して、彼の革命的指導者の地位を私が承継して以来、私は自分の人生を中国国民の自由と独立のために捧げてきました。その役割において、私はこの重要な委託を引き続き実行します。」

「世界共産主義が中国を征服すると脅し、そして独立と歴史的な文明を破壊しようとしているので、すべての軍がそれと戦うために再結集する際にできる限りの努力をすることが私の義務だと考えます。」

「私が何らかの公職を持っているかどうかにかかわらず、私は革命的な指導者を放り出すことはできません。すなわち、国家の独立と国民の自由が達成されない限り、私は闘争を続ける責任を逃れることはできません。」

 

総統への質問は2重の翻訳を経由した。数日前にはこれらは英語から中国語に翻訳されていた。彼は先週6月22日、台北に来た時に・軍事やその他の会議の連続で彼が忙しくなかった時に、それらを熟読した。

週末にかけて総統の回答は英語で書き直され、タイプされたコピーは月曜日、彼と訪問者が5時過ぎまで歓談した時に配布された。どんぶりに一杯のアーモンドの香りがする冷えた豆腐。

谷間の首都・台北からおよそ10マイルの草山にある台湾地方政府の山腹のゲストハウスに、蒋総統は2人の特派員(2人ともアメリカ人)を受け入れた。彼は訪問者に、厳粛によろしくとトルーマン大統領に伝えるよう頼み、そして特派員の一人は東京から来ていたので、彼の祝辞をマッカーサー将軍にも伝えるように頼んだ。

蒋総統は草山の彼の小さな家から記者会見へと、約4分の1マイルの上り坂を自動車に乗った。だが明るく心地よい午後だったので、会見が終わったとき、彼はボディーガードの一団の先頭になって家まで歩いた。

彼は日よけ帽をかぶり、それ無しで済ますことができる重い杖を持っていた。総統はとても活発で、運動のためしばしば散策に行くからである。彼は孫文が広めた国民党党員のための半ば軍隊の服装である、襟の高い単調なオリーブ色の「中山装」を着ていたが、彼はいかなる種類の記章も身に着けなかった。

 

 

蒋介石へのインタビュー(その1)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

Foreign relations of the United States : 1949 V8. | HathiTrust Digital Library p.412~

 

 

Press Interview by Generalissimo Chiang Kai-shek

蒋介石総統は、彼の持続する中国国民への「革命的な指導力」を宣言するため、共産主義に対抗する支援をアメリカに訴えるため、そしてソビエト連邦を世界支配を決意した条約違反者として非難するため、月曜日に長い沈黙を破った。昨年1月21日に中国の大統領職を辞任したが、国民党への指導力を維持し強化してきた62歳の総統は、今にも起こりそうな活動的な指導者の地位に復帰する前兆になるかもしれない合同インタビューにおいて2人の特派員を受け入れた。最高の健康と精神状態のように見えた蒋総統は、特派員と礼儀正しく簡潔に談笑し、事前に提出された質問につき準備されていた書面による回答を公表するため、彼の声明のほぼすべてを遠慮した。総統の回答には、ソビエト連邦中国共産党との関係についての公表のため、これまでで最も強硬な彼の言葉が含まれていた。

単純な「イエス」で彼は次の質問に答えた。

中国共産党が今、阻止されなければ共産主義運動がアジア全体に広がるだろうと思いますか?共産主義運動の広がりは、ソ連による全世界の支配という運動の中の、極東全域を支配する計画の一部であると思いますか?」

 

中国共産党ソ連の目的と利益にどれくらいの役割を果たしているのか。中国・アジア・世界全体で、それらはどのようになると考えるのか、とも総統は尋ねられた。

「私はこの質問に関心があるすべての人に、1928年12月12日に共産主義インターナショナル第6回世界大会で採択された”植民地と半植民地における革命運動の理論”という文書を読むことをお勧めします。」
「これは全アジアにおける共産主義革命運動の青写真であり、現在着実に実行されています。レーニンはヨーロッパを征服する道はアジアにあると述べました。国際共産主義の開祖であり教師であるこの方針は、現在、忠実な信者によって遂行されています。」

 

別の質問・・
「あなたの意見では、中国の共産主義が世界革命のための国際共産主義運動の主流に反応せず、分離主義や民族主義の線に沿って発展する可能性はあると思いますか?毛沢東は傀儡なのか、それとも自由な行為者なのでしょうか?彼はもう一人のチトーになりえますか?」
回答・・「中国共産党の指導者の宣言、および党の沿革からは、中国共産党が国際共産主義の中心であるコミンフォルム共産党情報局)と決別する可能性を示すものは何もありません・・ユーゴスラビアのチトー元帥が実行したと聞くような。」
「中国の共産党には、チトー元帥に対抗し、数多の機会にコミンフォルムを全面的に支持した記録があります。党全体の決議によってコミンフォルムからのユーゴスラビアの追放が承認されました。」

「最新の証拠は、組織部の主席であり、中国共産党内で第2位の地位を占めるとしばしば考えられている、劉少奇の出版物に掲載されています。これらの記事はチトーを”資本主義陣営に参加した裏切り者”と非難しました。」

「さらにこれらの記事の中で劉少奇は、あらゆる国のプロレタリアートに”アメリカ帝国主義者達の計画に敗北を課すため”ソ連および東欧と結束し共同戦線を張ることを呼びかけました。」
中国共産党がモスクワと関係を絶つかもしれないとの示唆は、混乱を目的とする狡猾な宣伝です。何年も前、共産党は、中国の共産主義者は真の共産主義者ではなく、単なる”農業改革者”であると言っていました。彼ら自身の紛れもない利益に向けて、多くの人々を混乱させ誤解を招くことに彼らは成功しました。」

「中国の共産主義がチトーの転向を採用するかもしれないというこの話は、故意に誤解を招くように意図された宣伝の策略の1つであり、かつての混乱に向けた努力と同様に、虚偽で根拠がないと証明されるでしょう。」

共産党が中国を支配することを許されたとすればその外部の世界との関係は、現在、鉄のカーテンの背後にある他の国々との関係と同じになるでしょう。わずかでも異なる可能性はありません。」

 

質問・・「最近、中国における出来事の動向について海外でも大きな懸念が払われてきましたが、それとともに、中国そして恐らくアジア全域における共産主義の征服は自然の経過を辿らなければならず、中国での状況は既に修復しようがないとの運命論的な確信が多くの人々の間に広まってきています。アメリカが支援をするには既に遅すぎるのでしょうか?手遅れなのでしょうか?」
回答・・「現在、共産主義支配下にある地域と人口は、1938年に起こった抵抗戦争の1年後の日本の占領面積と人口よりも少ない。その戦争は、あなたが知っているように、勝利が勝ち取られるまで激しさを増しつつ7年以上続きました。」
「現在の状況が修復できないという誤った印象は、敗北主義を広める際の共産主義の宣伝によって創られたものです。」

「暴虐と外国の支配に対抗するものとして、人間の自由と国家の独立のためのあらゆる闘いは成功しなければならないと私は確信しています。中国の状況を救うための努力は・・自国の努力であれ友好国の努力であれ・・遅すぎるということはありえないと思っています。」

「しかしながら中国での反共産主義の戦いにおいて、タイムリーな援助が提供されなければ、将来、民主主義諸国が支払う対価は理解を超えたものになるでしょう。中国で共産主義が阻止できなかったとき、それはアジア全体に広がることでしょう。」

「それが起こるのであれば、別の世界大戦は避けられないでしょう。したがって、その観点と、平和を愛するすべての人々に向けた民主主義国の責任の観点から、私は中国での共産主義の阻止における更なる時間の喪失は、断固として危険であると指摘しなければなりません。」

 

質問・・「共産主義者達は彼らが軍事支配している地域で中国民衆の支持を勝ち取ることができましたか?あなたは共産主義が征服した地域で、今なお国民政府が民衆の支持を集めていると思いますか?もし共産党が民衆の支持を得ていない場合、政府の挫折の主な原因は何でしょうか?」

回答・・「共産党保有する地域では恐怖政治が人々を服従させています。民衆の支持の代わりに人々の共産党への憎しみが増えています。共産主義者自身が農民の蜂起が起こったことを公然と認めており、彼らの支配下にあるすべての地域で繰り返されました。」

共産主義支配下にある人々は皆、国民政府の権力が早期に復旧することを望んでいます。そのような群れなす移行に伴う困難や危険にもかかわらず、多くの教師、学生、農民、その他の職業の人々が共産主義地域から政府地域へと避難したことは記録に残っています。少数の政治的な日和見主義者を除いて、誰も共産主義政権の下で暮らすつもりはありません。」

「政府の挫折の原因に関しては、軍事の他に2点あります。第一に、ヤルタ合意に基づいた1945年の中ソ友好同盟条約のもとでの、ソビエト連邦による義務の不履行です。ご存知のとおり、中国はその条約に署名することで大きな犠牲を払いました。」

「我々側のこの犠牲にもかかわらず、ソビエト連邦は条約の義務を守っていません。これは満州の中国への復帰を妨げただけでなく、中国の共産主義者がそこで軍事力を大いに強化することを可能にしました。」

「第二の原因は経済です。侵略に対抗する8年の戦争の受難と苦難を国民が支えた後、国は破壊を伴う共産主義者の暴動によってさらなる貧困に陥っています。」

「その結果、教師、公務員、兵士などのすべての中国人は、最低限の生活の下で暮らすことを長年余儀なくされてきました。このような経済状況の悪化から多くの政治的苦難が生じています。」

 

 

HOW WE WON THE WAR(その5・完結)

 

「ライフ」1948年9月6日号、100~103ページからの翻訳です。機械翻訳を利用した個人的なものであり、よって誤訳の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

LIFE - Google ブックス

 

HOW WE WON THE WAR AND LOST THE PEACE

 

 

さらに、もしソビエト連邦がアメリカに戦争を起こしたなら、そしてもし中国が共産主義に支配されたなら、日本は直ちに防衛できない最前線になるであろう・・もう一つのバターン(半島の戦い)。日本が陥落したのちソビエト政府は、アメリカに対する最終的な攻撃のために、中国と日本の人的資源と産業力を動員することができるであろう。

 

半世紀の間そうであったように、中国の独立と保全は、なお我々の太平洋側の安全保障の鍵である。だがトルーマン大統領はマーシャル国務長官の影響の下、この極めて重要なアメリカの利益を守るために必要な措置を講じることを依然として拒否しており、スターリンが中国を支配しても彼は何をするべきか分からないだろうという、途方もない幻想で自分自身を慰めている!

 

1947年3月12日、アメリカ政府が6年間スターリンをなだめようとした後にトルーマン大統領は、彼とルーズベルト大統領が間違っていたことを勇敢に認めた。彼はトルコとギリシャ共産主義の侵略に抵抗できるように援助を呼びかけ、次のように述べた。「わが国の外交政策と国家安全保障問題がからんでいる事態です。・・直接的または間接的な侵略行為によって自由な諸国民に押し付けられた全体主義体制が・・アメリカの安全保障を損なう。・・少数派の武装勢力や外部圧力による隷属化の試みに抵抗する自由な諸国の国民を支援することが、米国の政策でなければならない。・・我々が乗り出すのは困難な道筋です。ほかの道がもっと苦しくなかったら、この道を勧めたりはしません」。ほかの道とは、スターリンギリシャとトルコの占領を許し、次いで依然独立している西欧の国々をひとつずつ支配させることであった。

 

Aid for security
かくしてアメリカ政府は6年遅れて、ソビエト連邦はアメリカの安全を脅かす略奪的な全体主義専制政治であるという事実に基づいてヨーロッパにおける外交政策を形成した。

 

ヴァンデンバー上院議員の指揮の下、議会は大統領を支持し、ギリシャとトルコへの援助が議決された。しかし、西欧諸国もまた、共産主義者による占領の危険に晒されていたことは明らかだった。我々の財政的支援がなければイギリス人は食べることができなかった。そしてフランスとイタリアは共に、彼らの領土内においてスターリンの第五列に脅かされていた。1947年5月、西欧諸国に「融資」について話すことによって、我々は我々自身の他に誰も騙そうとしていないのだとマーシャル将軍は説得された。なぜならそのような「融資」は返済されないことが明らかであった。そして我々が西欧に資金を与えなければ、スターリンは彼の権力を急速に大西洋まで広げることが明らかであった。1947年6月5日、マーシャル将軍はハーバードで演説し、もし彼らが自らを救う努力をするのであればヨーロッパの人々を支援する用意ができていると明らかにした。イギリスの外務次官アーネスト・ベヴィンはマーシャル将軍の提案に飛びつき、次第に計画は拡張され、ついには経済協力局として知られるようになった・・それに基づいて議会は欧州への援助に40億ドルを割当てた。

 

ヨーロッパがあっさりとスターリンの手に落ちないようにするため、そうした援助が必要であった。だがアメリカの資金だけで共産主義による西欧支配を防ぐことは誰も期待していなかった。ヨーロッパの残りの独立国家が民主主義連合として軍事的、経済的、政治的に結束できなければソビエトの襲撃に1つずつ陥落するであろうことは、1941年以降、火を見るより明らかだった。そして西欧の民主主義諸国に、彼らの古い憎しみや敵対関係を忘れて自己防衛のために団結するよう説得するため、アメリカがあらゆる能力を使わなければならないこともまた明らかだった。さらには欧州連合を創設するだけでなく、揺籃期の間それを保護するためにもアメリカの行動が必要だった。

 

去年の春、欧州への数十億の支出は、欧州がスターリンの手中へと急速に崩壊することを防ぐための緊急措置として正当化された。欧州連合への支援を除いて、欧州への数十億の支出は年を追うごとに意味をなさなくなるだろう。しかし我が政府の政治的な叡智があまりにも不足していたので、欧州連合の考えを具体化するために使われるべきであった資金を、その考えを承認することなく我々は与えた。今日はどこが我々を見限るのだろうか?

 

Uneasy armistice
現在の「平和」は、ソビエト政府がその存続を望んでいる限りで続くにすぎない、不安定な停戦である。第一次世界大戦前の10年のように「平和は事件に振り回される」。そして遅かれ早かれ、事件が起きるだろう・・今年か来年か、または5年後。

 

トルーマン大統領であっても、「平和への機会は申し分がない」という彼自身の声明を信じるほど、無知なはずがない。選挙の年だった1940年のようで、そしてトルーマンのなだめて和らげる宣言は1940年のルーズベルトの声明の弟にすぎない・・「私はこれまでも述べてきたように、そしてこれから何度でも繰り返すが、あなた方の子供たちは外国の地での戦争に送り込まれることは決してない」。

 

もしトルーマンが、大統領に選出されたいと望んでいて、ベルリンをもうひとつのミュンヘンに変えようと考えているのであれば、ネヴィル・チェンバレンの運命を思い出すが良い・・彼は帰国して「我らの時代の平和」を確保したと屈服を告知し、そして1年もしないうちに、宣戦布告を求めなければならなかった。今夜、彼は気付くがよい・・ベルリンの我々の地域だけでなく西欧のすべての人々が、共産主義者に敢えて対抗するかどうかを自問しなければならないことを・・なぜならアメリカ国民によってではなく、アメリカ大統領によって、彼は最終的に放棄されるかもしれないからである。さらにまた、ベルリンの状況は、世界中のアメリカ国民の重要な利益が無能な指導者達によって危機に晒されている様子のほんの一例にすぎないことを、彼は認識してみるがよい。そしてもし彼が、スターリンはアジアと欧州を取るべきだがアメリカは独立国家として永くとどまるだろうと想像して自分を慰めようとするほどか弱いのであれば、1億4600万人のアメリカ国民が、世界のその他の地域すべてからの攻撃に抵抗することができると信じることができるのは誇大妄想家だけであると彼は思い出してみるがよい。

 

大統領が今、この危機の時に、アメリカの未来を守ることを望むのであれば、軍事的・経済的・政治的な欧州の結合、そして欧州大陸の諸国だけでなくイギリスとアメリカも署名した西側の防衛協定を実現するようただちに行動するがよい。そして彼は、スターリンによる中国と日本の征服を防ぐために不可欠な軍需品と、戦略・戦術・作戦に関する助言をなす命令を伴った最高の軍事顧問を、中国にただちに派遣するがよい。

 

これらのことが行われなければ、欧州大陸と極東がスターリンの手に落ちるであろう。そしてアメリカ国民は、共産主義に駆り立てられた圧倒的な奴隷集団からの襲撃に直面するであろう。

 

1940年8月のようにもう一度、悲劇的な言葉を使う必要がある。「アメリカは危険に晒されている・・我々が今、断固として行動しなければ、脅威に対処するのに手遅れとなるだろう。アメリカが戦争へと向かうつもりはないということは極めて明白であるが、アメリカに向かって戦争が迫っていることも同様に明らかである」。

 

我々は今日、安全保障のためではなく生存のための闘いに直面している。

 

 

 

トルーマン1947年3月12日の演説の訳は下記サイトからお借りしました。

トルーマン主義|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN