機密のポーランド文書(その11)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

Betrayal, Failure, Delusion
ポーランド・イギリス・フランスを、ドイツと戦争させるルーズベルトの努力はあまりにも成功した。その結果は、計り知れない死と悲惨と破壊であった。ルーズベルトが意図し計画してきたように戦闘が始まったとき、ポーランドとフランスの指導者達は、アメリカ大統領は少なくとも戦争の際の支援についての保証を履行することを期待していた。だがルーズベルトは圧倒的多数のアメリカ人の平和感情の深さを当てにしたことはなかった。このように、彼の自国民を欺くことに加えて、彼が支援を約束した欧州の人々をもルーズベルトは失望させた。


ヨーロッパの戦争に関わらないとする、1939年後半のように国民の見解が一致したのは、アメリカの歴史において稀である。1939年9月に戦争行為が始まったとき、ギャラップの調査ではアメリカ人の94%は戦争に関与することに反対した。この数値は12月に96.5%に上昇してから徐々に低下し始め、1941年の秋には約80%だった。(今日において、60〜70%の水準ですら国民の見解の一致をみる問題はほとんどない)

 

ルーズベルトはもちろん、この問題における国民感情の激しさに気付いていた。平和を愛しアメリカは参戦しないとの、彼の決意についてアメリカ国民を繰り返し欺いたと同時に、欧州とアメリカを戦争に陥れるために彼の力であらゆることを行ったのは、それが理由だった。

 

対ドイツ戦争について、合衆国からイギリスへの支援を、大統領が約束したと疑った何百万のアメリカ国民の募る懸念に、ルーズベルト大統領は1940年の大統領選挙運動の主な演説で応えた。根拠の確かなこれらの疑惑は、3月に発表された押収されたポーランド文書に部分的に基づいていた。1940年10月23日の演説は、フィラデルフィアからラジオ放送で全米に放送された。ルーズベルトは可能な限り強調した言葉で、彼が「何らかの方法で外国の戦争への合衆国の参戦を形成」したことを断定的に否定した。

――私はこの国の国民とあなたに最も厳粛な保証を与える。この国をなんらかの戦争・なんらかの目的に巻き込むための、いかなる政府、世界のいかなる国家との、直接あるいは間接的な、いかなる形での秘密の合意は無く、秘密の条約は無い。――

 

もちろん、この敬虔な宣言は、ルーズベルトの厚かましく恥知らずな、アメリカ国民への数々の嘘のひとつにすぎない。

 

ルーズベルトの政策は単なる不誠実を超えていた・・犯罪だった。合衆国憲法は、唯一、議会に戦争をなし和平をなす権限を与えている。そして議会は、欧州で戦争が起こった場合にアメリカの中立性を特に保証するため、いくつかの重要な法律を可決してきた。大統領として憲法を支持する誓約にルーズベルトはたびたび違反した。もし彼の秘密の政策が明るみになっていたなら、国民からの、彼の弾劾請求は止めることができなかった可能性が高い。

 

ウォーターゲートのエピソードは、多くのアメリカ人に、彼らの大統領が犯罪行為をなしうるという事実を深く認識させた。この事件はリチャード・ニクソン大統領に辞任を余儀なくさせ、彼は依然として広く犯罪者とみなされている。彼の名前にちなんで名付けられた学校はなく、彼の名前は、普通はすべてのアメリカ大統領に贈られる敬意を受けることはないだろう。だがフランクリン・ルーズベルトの犯罪と比較すると、ニクソンの犯罪は色あせてしまう。ルーズベルトの嘘と比較すると、ニクソンの嘘はどうだったであろうか?重大な戦争を引き起こすための違法な秘密のキャンペーンと比較すると、犯罪を目的とした不法な建造物侵入を揉み消すことはどうだろうか?

 

ルーズベルトの記録を擁護する人々は、アメリカ国民の利益のため、彼は国民に嘘をついたと主張する・・彼は高尚な原則のために法律を破ったと。彼の虚偽は、原因が崇高であったゆえ許容されると考えられている一方で、ジョンソン、ニクソン大統領の同様の欺瞞は、二例とも、そのように考えられていない。これはもちろん偽善的な二重の基準だ。そしてその主張は民主制度を上手く表現していない。その主張は、自らの最高の利益を理解するには民衆はあまりにも愚かであるのだ、という内容を暗に含む。さらには、その主張は、最良の政府の形態はある種の博愛的な自由民主独裁政権である、と示唆している。

 

ルーズベルトヒトラーに対する憎しみは深く、激しく、熱烈だった・・ほとんど個人的な。彼らの個人的な性格だけでなく、国家指導者としての記録についても、二人の間の多数の対比に根ざした永続的な嫉妬と羨望が、少なからずこの原因であった。

 

表面的にはルーズベルトヒトラーの公的生活は驚くほど似ていた。両者は1933年の初めにそれぞれの国の指導者の地位に就いた。二人とも破滅的な世界経済不況の中、大量の失業者という大変な難題に直面した。歴史の中で最も破壊的な戦争の間、どちらも巨大な軍事同盟における強力な指導者になった。欧州での第二次世界大戦が終わる直前、1945年の4月、お互い数週間以内に、政権を握ったまま、両者は死んだ。だがこの二人の人生における非常に大きな差異は、いっそう注目に値する。

 

ルーズベルトはアメリカで最も裕福な家庭のひとつに生まれた。彼は物質的な悩みから完全に解放された人生だった。彼はワシントンのオフィスから海軍次官として第一次世界大戦に参加した。一方、ヒトラーは地方の質素な家庭に生まれた。若い頃、彼は貧しい肉体労働者として働いた。彼は西の激戦地の地獄の中、前線の兵士として第一次世界大戦に従事した。彼は何度も負傷し勇敢さを受勲された。

 

ルーズベルトの魅力的な物腰・なだめすかすレトリックにもかかわらず、彼はアメリカが直面している大きな課題を克服できなかった。彼の4年の任期の後でさえ、失業した、栄養不良の、貧しい何百万人が、類い稀な繁栄のための、あらゆる資源に恵まれた広大な土地に収容されたままであった。ニューディール政策は労働者と資本家の間の激しいストライキと血まみれの衝突に悩まされた。暴動や武力衝突の中で繰り返し起こった、深刻な、うずまく国内の人種問題を解決する方策を、ルーズベルトは何ら採らなかった。ドイツではそのストーリーは非常に異なっていた。数年以内に、内戦の危機にある経済的に破滅した国土から欧州の大国へとドイツを一変させるという、急進的な計画を背景にヒトラーは国民を結集した。歴史的に並行することなく、ドイツは社会的、文化的、経済的な再生を経験した。ルーズベルトヒトラーの個性の対比は、同時に、二国間の全く異なる社会政治システムやイデオロギーの対比であった。

 

とはいうものの、ルーズベルトを単なる冷笑的な政治家であり、強力な外国人の利益のための傀儡であると描写するのは不正確であろう。確かに彼は、自分自身を邪悪な人間と考えなかった。イギリスとフランスを対独戦争へと圧迫する中で、彼は正しく高貴なことをしていたと本気で信じていた。彼の前のウィルソンやそれ以降の前任者達のように、ルーズベルトは彼自身を比類なく適任であると感じ、そして平等主義、普遍的な民主主義という彼の将来像に従って、世界を作り直す運命によって呼びかけた。彼は、多くのアメリカの指導者たちがそうであったように、世界は、アメリカに続いて再構築されることによって、世界それ自体から救われると確信した。

 

ウィルソンやルーズベルトのような大統領は、共に平和に生活するため、互いに異なる集団的な同一性を相互に尊重せねばならない、さまざまな国や人種、文化の複合体としてではなく、むしろ、地球を道徳的な国と邪悪な国とに分割する、独善的な宣教師の見方に照らして世界を眺める。そのような物事の仕組みにおいては、アメリカは神意による正義の力の不変の指導者だ。幸いなことに、この見解は、合衆国の中で権力を行使する人々の経済的、政治的利益に、期せずして対応することがあるにすぎない。