Another View of Japan

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機密のポーランド文書(その12・完結)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

President Roosevelt's War
1941年4月、ノースダコタ州のジェラルド・ナイ上院議員は、いつか第二次世界大戦ルーズベルトの戦争として記憶されるだろうと予言した。「この戦争に我々がいつか関わることがあれば、将来の歴史家によって”大統領の戦争”というただ一つの題名でそれが呼ばれることであろう、なぜなら彼のシカゴでの隔離声明[1937年10月5日]以来、あらゆる面において戦争に向かっているからだ」。

 

偉大なアメリカの歴史家であるハリー・エルマー・バーンズは、ルーズベルトの干渉がなかったならば、戦争はおそらく1939年に予防されたかもしれないと信じた。「実に、ルーズベルト氏の、イギリス・フランス・ポーランドへの圧力が、そして1939年9月以前のそれらの国、とりわけイギリスに対する彼の約束が、そして彼の手先の工作員ウィリアム・C・ブリットの無責任で奇怪な行為が無かったなら、おそらく1939年には世界大戦が・・あるいは、おそらくその後何年にもわたって・・起こらなかったであろうことの、まさしく決定的な証拠がある」。

Revisionism: A Key to Peace にバーンズは書いた。

 

――欧州での戦争の勃発に対して、直接的にも間接的にも、ルーズベルト大統領には主要な責任がある。彼が1936年のキャンペーンにおいて熱心な孤立主義の演説をした数か月前・ドイツがラインラントを再占領した1936年3月に、早くも彼はヒトラーに立ち向かうようフランスに圧力をかけ始めた。フランスとイギリスへの圧力は、まさに1939年9月に戦争が始まるまで続いた。1937年10月の隔離演説の後、その音量と勢いが増した。ミュンヘン会談と戦争勃発との間の危機が近づいた時には、ルーズベルトは、ドイツのいかなる要求にも強硬に立ち向かうようポーランド人に圧力をかけ、ポーランド人を断固として支援するようイギリスとフランスに力説した。

もしも、ルーズベルトの激励や、戦争が起こった場合には彼が合衆国の世論を思い通りに処理できれば合衆国はすかさずイギリスの側で参加するだろうとの彼の保証がなかったならば、1939年9月にイギリスが戦争を始めただろうということには重大な疑念がある。

ルーズベルトは戦争が勃発した1939年の前においてでさえ、すべての中立性の外観を放棄し、反干渉主義のアメリカ世論を前にして、欧州の紛争にこの国を関与させるため、できる限り安全かつ可能な方法で迅速に行動した。――

 

フランクリン・ルーズベルトの歴史上の立ち位置について最も知覚の鋭い評決の一つは、スウェーデンの偉大な探検家であり作家であるスヴェン・ヘディンの筆から来たものだ。戦争中に彼は書いた。

 

――新たな世界大戦が起こった経路についての疑問は、1919年の平和条約によって造られた基盤のため、第一次世界大戦後のドイツと同盟国への抑圧のため、またはイギリスとフランスの古くからの政策の延長のため、という原因だけでは解明されない。決定的な圧力は大西洋の反対側からきた。

ルーズベルトは民主主義を語り、それをとめどなく破壊する。彼は、アメリカの生活様式保全や平和の名の下に彼に忠告する者を、非民主的でアメリカ風でないと中傷する。彼は民主主義を、模範というよりむしろ、風刺画に作り変えた。彼は言論の自由について語り、彼の意見を支持しない者を沈黙させる。

彼は信教の自由について語り、ボルシェビキの政策と提携する。

彼は貧困からの解放について語るが、1000万の自国民に、仕事、パン、収容所を提供することができない。彼は戦争の恐怖からの解放について語る一方で戦争のために働き・・枢軸国が彼らと協力していたかもしれない時に、それに対抗して彼の国を煽り立てることで、自国民のためのみならず世界のために働き、そして彼はそれによって数百万を死に追いやった。

この戦争はルーズベルト大統領の戦争として歴史に残るであろう。――


表向き巧みに編成した平和の偉大な人物としてのルーズベルトへの称賛は、1939年に欧州を戦争に陥れたという彼の重大な役割を永遠に隠すことはできない。

 

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ここに記載された出来事が起こってから今や40年以上経っている。多くの人にとって、それらは忘れたほうがよい過去の、関係の無い部分だ。しかし、フランクリン・ルーズベルトがいかにして欧州の戦争をたくらんだのかの話は極めて関係している・・ 特に今日のアメリカ人にとって。この原子力の時代よりもその過去の教訓が重要であったことはかつてない。少なくとも理解のある少数者が、なぜ・どのように戦争がつくられるのかを理解しない限り、我々は、我々の時代の戦争屋達を抑えるのに無力のままであろう。

 

 

*原文にはこの他、脚注・参考文献・さらに読むための文献が記載されています。

 

 

機密のポーランド文書(その11)

 

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President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

Betrayal, Failure, Delusion
ポーランド・イギリス・フランスを、ドイツと戦争させるルーズベルトの努力はあまりにも成功した。その結果は、計り知れない死と悲惨と破壊であった。ルーズベルトが意図し計画してきたように戦闘が始まったとき、ポーランドとフランスの指導者達は、アメリカ大統領は少なくとも戦争の際の支援についての保証を履行することを期待していた。だがルーズベルトは圧倒的多数のアメリカ人の平和感情の深さを当てにしたことはなかった。このように、彼の自国民を欺くことに加えて、彼が支援を約束した欧州の人々をもルーズベルトは失望させた。


ヨーロッパの戦争に関わらないとする、1939年後半のように国民の見解が一致したのは、アメリカの歴史において稀である。1939年9月に戦争行為が始まったとき、ギャラップの調査ではアメリカ人の94%は戦争に関与することに反対した。この数値は12月に96.5%に上昇してから徐々に低下し始め、1941年の秋には約80%だった。(今日において、60〜70%の水準ですら国民の見解の一致をみる問題はほとんどない)

 

ルーズベルトはもちろん、この問題における国民感情の激しさに気付いていた。平和を愛しアメリカは参戦しないとの、彼の決意についてアメリカ国民を繰り返し欺いたと同時に、欧州とアメリカを戦争に陥れるために彼の力であらゆることを行ったのは、それが理由だった。

 

対ドイツ戦争について、合衆国からイギリスへの支援を、大統領が約束したと疑った何百万のアメリカ国民の募る懸念に、ルーズベルト大統領は1940年の大統領選挙運動の主な演説で応えた。根拠の確かなこれらの疑惑は、3月に発表された押収されたポーランド文書に部分的に基づいていた。1940年10月23日の演説は、フィラデルフィアからラジオ放送で全米に放送された。ルーズベルトは可能な限り強調した言葉で、彼が「何らかの方法で外国の戦争への合衆国の参戦を形成」したことを断定的に否定した。

――私はこの国の国民とあなたに最も厳粛な保証を与える。この国をなんらかの戦争・なんらかの目的に巻き込むための、いかなる政府、世界のいかなる国家との、直接あるいは間接的な、いかなる形での秘密の合意は無く、秘密の条約は無い。――

 

もちろん、この敬虔な宣言は、ルーズベルトの厚かましく恥知らずな、アメリカ国民への数々の嘘のひとつにすぎない。

 

ルーズベルトの政策は単なる不誠実を超えていた・・犯罪だった。合衆国憲法は、唯一、議会に戦争をなし和平をなす権限を与えている。そして議会は、欧州で戦争が起こった場合にアメリカの中立性を特に保証するため、いくつかの重要な法律を可決してきた。大統領として憲法を支持する誓約にルーズベルトはたびたび違反した。もし彼の秘密の政策が明るみになっていたなら、国民からの、彼の弾劾請求は止めることができなかった可能性が高い。

 

ウォーターゲートのエピソードは、多くのアメリカ人に、彼らの大統領が犯罪行為をなしうるという事実を深く認識させた。この事件はリチャード・ニクソン大統領に辞任を余儀なくさせ、彼は依然として広く犯罪者とみなされている。彼の名前にちなんで名付けられた学校はなく、彼の名前は、普通はすべてのアメリカ大統領に贈られる敬意を受けることはないだろう。だがフランクリン・ルーズベルトの犯罪と比較すると、ニクソンの犯罪は色あせてしまう。ルーズベルトの嘘と比較すると、ニクソンの嘘はどうだったであろうか?重大な戦争を引き起こすための違法な秘密のキャンペーンと比較すると、犯罪を目的とした不法な建造物侵入を揉み消すことはどうだろうか?

 

ルーズベルトの記録を擁護する人々は、アメリカ国民の利益のため、彼は国民に嘘をついたと主張する・・彼は高尚な原則のために法律を破ったと。彼の虚偽は、原因が崇高であったゆえ許容されると考えられている一方で、ジョンソン、ニクソン大統領の同様の欺瞞は、二例とも、そのように考えられていない。これはもちろん偽善的な二重の基準だ。そしてその主張は民主制度を上手く表現していない。その主張は、自らの最高の利益を理解するには民衆はあまりにも愚かであるのだ、という内容を暗に含む。さらには、その主張は、最良の政府の形態はある種の博愛的な自由民主独裁政権である、と示唆している。

 

ルーズベルトヒトラーに対する憎しみは深く、激しく、熱烈だった・・ほとんど個人的な。彼らの個人的な性格だけでなく、国家指導者としての記録についても、二人の間の多数の対比に根ざした永続的な嫉妬と羨望が、少なからずこの原因であった。

 

表面的にはルーズベルトヒトラーの公的生活は驚くほど似ていた。両者は1933年の初めにそれぞれの国の指導者の地位に就いた。二人とも破滅的な世界経済不況の中、大量の失業者という大変な難題に直面した。歴史の中で最も破壊的な戦争の間、どちらも巨大な軍事同盟における強力な指導者になった。欧州での第二次世界大戦が終わる直前、1945年の4月、お互い数週間以内に、政権を握ったまま、両者は死んだ。だがこの二人の人生における非常に大きな差異は、いっそう注目に値する。

 

ルーズベルトはアメリカで最も裕福な家庭のひとつに生まれた。彼は物質的な悩みから完全に解放された人生だった。彼はワシントンのオフィスから海軍次官として第一次世界大戦に参加した。一方、ヒトラーは地方の質素な家庭に生まれた。若い頃、彼は貧しい肉体労働者として働いた。彼は西の激戦地の地獄の中、前線の兵士として第一次世界大戦に従事した。彼は何度も負傷し勇敢さを受勲された。

 

ルーズベルトの魅力的な物腰・なだめすかすレトリックにもかかわらず、彼はアメリカが直面している大きな課題を克服できなかった。彼の4年の任期の後でさえ、失業した、栄養不良の、貧しい何百万人が、類い稀な繁栄のための、あらゆる資源に恵まれた広大な土地に収容されたままであった。ニューディール政策は労働者と資本家の間の激しいストライキと血まみれの衝突に悩まされた。暴動や武力衝突の中で繰り返し起こった、深刻な、うずまく国内の人種問題を解決する方策を、ルーズベルトは何ら採らなかった。ドイツではそのストーリーは非常に異なっていた。数年以内に、内戦の危機にある経済的に破滅した国土から欧州の大国へとドイツを一変させるという、急進的な計画を背景にヒトラーは国民を結集した。歴史的に並行することなく、ドイツは社会的、文化的、経済的な再生を経験した。ルーズベルトヒトラーの個性の対比は、同時に、二国間の全く異なる社会政治システムやイデオロギーの対比であった。

 

とはいうものの、ルーズベルトを単なる冷笑的な政治家であり、強力な外国人の利益のための傀儡であると描写するのは不正確であろう。確かに彼は、自分自身を邪悪な人間と考えなかった。イギリスとフランスを対独戦争へと圧迫する中で、彼は正しく高貴なことをしていたと本気で信じていた。彼の前のウィルソンやそれ以降の前任者達のように、ルーズベルトは彼自身を比類なく適任であると感じ、そして平等主義、普遍的な民主主義という彼の将来像に従って、世界を作り直す運命によって呼びかけた。彼は、多くのアメリカの指導者たちがそうであったように、世界は、アメリカに続いて再構築されることによって、世界それ自体から救われると確信した。

 

ウィルソンやルーズベルトのような大統領は、共に平和に生活するため、互いに異なる集団的な同一性を相互に尊重せねばならない、さまざまな国や人種、文化の複合体としてではなく、むしろ、地球を道徳的な国と邪悪な国とに分割する、独善的な宣教師の見方に照らして世界を眺める。そのような物事の仕組みにおいては、アメリカは神意による正義の力の不変の指導者だ。幸いなことに、この見解は、合衆国の中で権力を行使する人々の経済的、政治的利益に、期せずして対応することがあるにすぎない。

 

 

機密のポーランド文書(その10)

 

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President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

Powers Behind The President
ルーズベルト大統領は、強力な味方からの助けがなければ、ヨーロッパで戦争を扇動することはほとんどできなかった。彼の背後には、利己的な国際金融と、ドイツの破壊を決意したユダヤ勢力が立っていた。真珠湾攻撃に先立ち、欧州戦争へのアメリカの関与のための公衆の支持を呼び集めた主な組織は、巧みに名付けられた”同盟諸国を支援して米国を防衛する委員会” [Committee to Defend America by Aiding the Allies] だった。ルーズベルト大統領自身が設立を開始し、主要な政府職員は委員会の指導者と頻繁に相談した。

 

カンザス州の小さな町の初老の新聞発行者、ウィリアム・アレン・ホワイトが、当面はトップであったけれども、実際は、アメリカの巨大軍需産業への抜け目ない投資と、追い詰められたイギリスへの貸し付けからの、途方もない利益に固執した、強大な金融勢力によって委員会は組織された。1940年末、ウェストバージニア州上院議員、ラッシュ・D・ホルトは委員会の詳細な検査を行い、それは、理想主義的な響きのスローガンの背後にある支持母体の勢力を暴露した。

 

――委員会は、銀行、保険会社、金融投資会社、および工業会社との強力な関係を持つ。これらは、大学の学長や教授、同様に新聞・ラジオやその他の報道手段に、次々と影響を与える。グループによって使用された強力な影響の1つは、”400”と社会の趨勢だ。そのあらすじは公益についての背信行為というさもしい描写だ。

強力なJ.P.モルガン勢力は、大英帝国における持ち株を伴って、組織化の計画を助け、最初の費用を寄付した。――

 

委員会で活動する重要人物の一部がホルトによって明らかにされた。

Frederic R. Coudert:第一次世界大戦中の合衆国における英国政府の有給の戦争宣伝者。ロバート・S・アレン:ピアソンとアレンの、多数の新聞に同時配給されていたコラムの人物。ヘンリー・R・ルース:タイム、ライフ、フォーチューン誌の影響力のある発行者。フィオレロ・ラガーディア:性格が激しいユダヤ人ハーフのニューヨーク市長。ハーバート・リーマン:軍需産業における重要な金融上の持ち株を持ったニューヨーク州ユダヤ人知事。フランク・アルツシュール:軍需品・軍用品企業に手広く持ち株を持つ、ユダヤ投資銀行ラザードの役員。

 

もし委員会が合衆国を参戦させることに成功した場合、「アメリカの少年達は、暴利屋、政治家、愛国のために血を流すであろう。もし戦争が起これば、ホワイトの委員会の後援者の手は血塗られるだろう・・不必要な戦争で殺されたアメリカ人の血」とホルトは警告した。

 

1941年3月、委員会の財政的後援者の大部分のリストが公表された。それは、アメリカを欧州戦争に持ち込むことを熱望している力の素性を明らかにした。強力な国際銀行の事業者達が申し分なく示された。J.P.モルガン、ジョン・W・モルガン、トーマス・W・ラモント、その他の偉大なモルガン金融会社が記録された。ニューヨーク金融界からの他の重要な名前には、ポール・メロン夫妻、フェリックス・M・ウォーバーグ、ジェームズ・F・ウォーバーグ、J. Malcolm Forbes。シカゴの百貨店のオーナーで出版業者(訳注:シカゴ・サン紙を含む)のマーシャル・フィールドは寄付者、同様だったウィリアム・アヴェレル・ハリマン、後にモスクワでルーズベルトの大使を務めた鉄道と投資の億万長者。

 

もちろん、ユダヤ人の名前は長いリストのかなりの部分を占めていた。ハリウッド映画のツァー[ロシア皇帝]、サミュエル・ゴールドウィン・スタジオのサミュエル・ゴールドウィンがいた。加えて国際婦人服労働組合の会長、デイヴィッド・ドゥビンスキー。巨大なコロムビア放送のトップによって設立されたWilliam S. Paley財団は、委員会に貢献した。ニューヨーク州知事、ハーバート・リーマンの妻の名前もリストに載っていた。

 

組織化されたユダヤ人集団との親密な関係についての理解がなければ、ルーズベルトの政策はほとんど理に適わない。ユダヤ人歴史家としてルーシー・ダビドビッチは特筆した。「ルーズベルト自身が彼の前後に、その他の会長[社長]よりもユダヤ人を、彼の直接のサークル[団体]に連れてきた。フェリックス・フランクファーター、バーナード・M・バルーク、ヘンリー・モーゲンソウは、彼の親密な顧問だった。ベンジャミン・V・コーエン、サミュエル・ローゼンマン、デイビット・ナイルズは彼の友人であり、信頼できる補佐官だった」。これはおそらく、ルーズベルトの1/8がユダヤ人の家系と伝えられていることに照らすと、さほど驚くべきではない。


リンドバーグの日記、1941年5月1日の記入で、アメリカ人パイロットのヒーローであり平和の指導者である彼は、アメリカ合衆国を戦争へと追い込んでいた提携団体を暴いた。

 

――参戦の圧力は高く、しかも日一日と高まりつつある。民衆は参戦に反対だが、行政府はそれに反して「勝手気ままに振る舞い」、参戦への姿勢を固めた気配が感じられる。この国におけるユダヤ勢力の大半は参戦を支持しており、しかも彼らはわが国の新聞やラジオの大部分と、映画の大半を支配下に置いているのだ。また例の”知識人”とか”イギリスびいき”とか、また自由自在に活動するイギリスの工作員、国際的な金融勢力、その他大勢が控えているのである。――

 

ジョセフ・ケネディユダヤ人勢力についてのリンドバーグの懸念に同調した。戦争が勃発する前、「我々の報道を支配するユダヤ人」と、彼が平和と繁栄の脅威と考えた概して世界ユダヤ人集団に対する懸念を、彼は私的に表明した。戦闘行為の開始直後、ケネディは「報道やワシントンの中の増大しつつあるユダヤ人の影響力が戦争の継続を要求している」と嘆いた。

 

 

リンドバーグの訳は、リンドバーグ第二次大戦日記 (上) 角川ソフィア文庫 p.350 より

 

 

機密のポーランド文書(その9)

 

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President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

Hamilton Fish Warns The Nation
欧州で武力紛争が勃発する数ヶ月前、ルーズベルト大統領の戦争への扇動キャンペーンに対する、最も精力的で預言的なアメリカ人の警告の声はおそらく、ニューヨーク出身の主要な共和党下院議員、ハミルトン・フィッシュのものだった。一連の力強いラジオ演説でフィッシュは、ルーズベルトの欺くような戦争政策に対抗してかなりの世論を集めた。それらの演説からのごく一部の抜粋をここに。

 

1939年1月6日、フィッシュは全国のラジオの視聴者に語った。
―― [二日前に与えられた]煽動的で挑発的な大統領の議会と世界へのメッセージは、不必要にアメリカ国民に不安を与え、そしてニュー・ディールの高官から発せられる宣伝の連続とともに、戦争ヒステリーを、アメリカと世界の平和にとっての危険を、作り出した。そのような演説のただひとつの論理的帰結は、アメリカの兵士達が海外で戦うもうひとつの戦争である。

ルーズベルト大統領が言及したすべての全体主義国家は・・我々と戦争をしたり南アメリカに侵略するなどと、夢にも考えていない。

私は、我々国民の人生・自由・幸福に影響を与える、そのような問題について遠回しに言葉を選ぶことはない。アメリカ人の血と金で我々を世界から隔離したいと望んでいる、戦争で荒稼ぎする者、共産主義者、ヒステリックな国際主義者に支援された、ニューディール主戦論者に待ったをかける時が来た。

彼[ルーズベルト]は、我々国民自身の未解決の国内問題を、しばしの間我々に考えることをやめさせる目くらましとして、狂ったような憎しみと戦争精神病を煽り立てることを明らかに望んでいる。彼は妖怪を思い浮かべて、彼自身の想像の中だけに存在する、外国の侵略の恐れを世論の中に作り出す。――

 

3月5日、フィッシュはコロンビア・ラジオネットワークによって国民に語りかけた。

――フランスとイギリスの人々は平和を望んでいるが、我々の主戦論者は、ミュンヘン条約を無視して武力による裁定に訴えるよう、絶えず彼らを煽り立てている。我々が外国への干渉を自制してさえいれば、欧州の古い国は調停と和平プロセスによって彼らの仲たがいを収拾するであろう、だが我々は彼らにそうさせようとしない。――

 

フィッシュは4月5日、全国放送会社(NBC)の聴衆にこれらの言葉で演説した。

――民主主義のために世界の安全を作るため、欧州でのもう一つの大量殺人のため、アメリカの若者が再び準備されつつある。もしヒトラーナチス政権が、ヴェルサイユ条約によってドイツから取り除かれた、そして人口の90%がドイツ人の地域、クライペダやダンツィヒを取り戻すなら、なぜ脅威や公然の非難を発し、我々国民を戦争に駆り立てる必要があるのだろうか?私は半ダースのクライペダやダンツィヒのため、1人たりともアメリカ兵の命を犠牲にしないだろう。ヴェルサイユ条約は貪欲と憎悪に基づいており、その不公平と不公正が存在する限り、解放戦争があるに決まっているので、我々はベルサイユ条約を否認した。

むしろヴェルサイユ条約の特定の条項が廃止されれば、世界の平和のための改善である。

アルザス=ロレーヌとチロル州を除いて、住民が明らかにドイツ人である地域がドイツに返還されたなら、西欧では戦争が起こらないと私は信じる。ナチス共産主義者の間には戦争があるかもしれないが、もしそれがあっても、それは我々の戦争ではないし、イギリスやフランス、民主主義、いずれの戦争でもない。

ニューディールの代弁者は戦争ヒステリーをまったくの狂乱へと扇動してきた。既に重度の戦争不安に苦しんでいる我々国民の心を戦争へと準備するため、ニューディールの宣伝組織は超過勤務している。

ルーズベルト大統領はアメリカで一番の主戦論者であり、国内に充満した恐怖・・我々国民と株式市場に重度の戦争不安をもたらした・・の主たる原因である。

私は、1,200万人の失業者とニューディール政策の失敗と崩壊を包み隠すために・・そして景況感を破壊した・・戦争宣伝とヒステリーを扇動する政権を非難する。

外部からの敵よりも、内部からの敵を、我々はいっそう恐れなければならないと私は思う。すべての共産主義者は、ソビエトロシアの利益のために、ドイツと日本との戦いに行くように我々を駆り立てることで一致団結している。

イギリスは、大英帝国とその植民地を維持することによって、すべてのアメリカ人がイギリスの任務を果たすことを未だに期待している。戦争で荒稼ぎする者、軍需品メーカー、国際銀行はすべて、新たな世界大戦への我々の参戦を主張している。――

 

4月21日、フィッシュはラジオの全国放送で再び国民に語りかけた。

――我々を武力紛争へと押しやっている宣伝と戦争ヒステリーを公然と暴くことは、外国の紛糾・ひどい混乱・欧州とアジアの戦争の狂気を、締め出したいと望む全てのアメリカ人の義務である。

我々がアメリカですべきことは、我々自身の問題よりもむしろ世界の問題を解決することにより多くの関心があるように見える、ワシントンの国際主義者や介入主義者によって、外国での戦争を我々が強いられる前に、戦争を推し進める運動を停止することだ。――

 

5月26日の彼のラジオ演説で、フィッシュは述べた。

――彼[ルーズベルト]は、議会が、宣戦を布告し、合衆国の外交政策を策定する、唯一の権限を持っていることを覚えておかなければならない。大統領にはそのような憲法上の権限はない。彼は、議会が決定した政策を実行するための公的機関に過ぎない。

誰が戦闘員になるのかすら知ることなしに、アメリカの国際主義者や介入主義者によって、我々は次の世界大戦に参加しなければならないと毎日のように告げられている。――


1939年7月8日、フィッシュは全国放送会社(NBC)のラジオネットワークで宣言した。

――もし我々が戦争に行かなければならないのであれば、軍需品メーカー・戦争で荒稼ぎする者・共産主義者を守るため、ニューディールの失敗を隠蔽するため、若しくは三選されるための口実を準備するため、ではなく、アメリカの防衛においてなされなければならない。

ダンツィヒ、パワー・ポリティクス、海外植民地、または、欧州か世界のどこかの帝国主義戦争を巡って、戦争に行くことを我々は提案しないと万国が知ることは結構なことだ。――

 

 

機密のポーランド文書(その8)

 

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President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

1939年4月9日付けのワシントンへの機密電報で、ブリットはパリからLukasiewicz大使との別の会話を報告した。アメリカの法律はポーランドへの直接的な財政援助を禁止しているけれども、条項を迂回することは可能かもしれない、と彼はポーランド使節に伝えた。ルーズベルト政権はイギリスを経由して間接的にポーランドに戦闘機を供給できるかもしれない。「ポーランド大使は、ポーランドがアメリカから財政支援や飛行機を手に入れることはできないだろうかと、私に尋ねた。ジョンソン法がアメリカからポーランドへの貸付を許さないだろうと思う、と私は答えたけれども、イギリスがアメリカで現金で購入してポーランドに引き渡すことは可能かもしれない、と付け加えた」。

 

1939年4月25日、戦争勃発の数か月前、ブリットはアメリカの新聞コラムニスト、カール・ボン・ウィーガンド(International News Service の欧州支局長)をパリのアメリカ大使館に呼び、彼に告げた。「欧州の戦争が決定されたところだ。ポーランドはイギリス・フランスの支援の保証を持ち、ドイツからのいかなる要求にも屈しないだろう。イギリスとフランスが参戦してから間もなく、アメリカは戦争になるだろう」。

 

1939年5月28日のハイド・パーク(注・ロンドンの公園)での長い秘密会談で、ルーズベルトは、チェコスロバキアの元大統領、エドヴァルド・ベネシュ博士に、アメリカは予想される欧州戦争においてイギリスとフランスの側で積極的に介入するだろうことを保証した。

 

1939年6月、ルーズベルトはイギリスに、戦争が起こった場合にドイツ海軍に西大西洋の海域を与えないため、合衆国はその海域に巡視を確立すべきだ、と秘密裏に提案した。この提案についての英国外務省の記録は「提案は曖昧で漠然としており、ある程度の異議を免れなかったけれども、巡視は我々の利益のために運営されなければならないとして我々は非公式に合意した」と付記した。

 

戦後何年も経過してから、1939年にフランスの外務大臣であったジョルジュ・ボネは、彼の国を戦争に駆り立てる中での、ルーズベルト使節としてのブリットの役割を追認した。1971年3月26日付のハミルトン・フィッシュへの手紙で、ボネは書いた。「一つ確実に言えるのは、1939年にブリットは、フランスを戦争に参戦させるため、できることは全てやったということだ」。イギリスを戦争に駆り立てる中でのルーズベルトユダヤ人の重要な役割に関する重要な確証は、初代・合衆国国防長官のジェームズ・V・フォレスタルの日記によってもたらされる。1945年12月27日の記載で彼は書いた。

 

――今日、ジョセフ・ケネディ[元大使]とゴルフをプレーした。私は1938年からの、ルーズベルトとの、そしてネヴィル・チェンバレン[英国首相]との、彼の会話について彼に尋ねた。1938年のチェンバレンの立場は、イギリスには争う価値がないし、ヒトラーと敢えて戦争することはできない、というものだったと彼は言った。ケネディの見解:1939年の夏、もしブリットが、ポーランドに関してドイツ人は屈服させられねばならない、とルーズベルトに力説し続けなければ、それ以降のイギリスとの紛争なしに、ヒトラーはロシアと戦ったであろう。もしワシントンからの絶え間ない刺激がなかったならば、フランスもイギリスもポーランドを戦争の原因にしなかったであろう。ブリットはルーズベルトにドイツ人は戦わないだろうと言い続けた。ケネディは彼らは戦うだろう、そして彼らはヨーロッパを蹂躙するだろうと伝え続けた。チェンバレンは、アメリカと世界のユダヤ人が、イギリスに戦争を余儀なくさせたと述べた、と彼は言う。1939年の夏、彼とルーズベルトの電話会談で、大統領はチェンバレンの尻にアイロンを当てるように彼に言い続けた。――

 

Potocki大使がワシントンでの職を離れてワルシャワに帰国したとき、彼は戦争の危険性が増しつつあることについて、ポーランド外務省の事務次官、Jan Szembek伯爵と話をした。Szembekは、彼の日記の1939年7月6日の記入で、ポーランドの落ち着いた雰囲気を見たPotockiの驚きを記録した。欧米を支配していた戦争精神病に比べると、ポーランドは保養所のように見えた。

 

大使はSzembekに語った。「欧米には、公然と戦争へとせきたてる様々な集団がある。ユダヤ人、巨大な資本家、武器販売業者。彼らは火を点けることができる場所、ダンツィヒ、そして戦う準備ができている国、ポーランド、を見つけたので、今日、彼らは皆、巨大な事業の準備ができている。彼らは我々の背後で商売をしたい。彼らは我々の国の破壊に無関心だ。それどころか、あらゆるものが後で再建されなければならないであろうから、彼らはそれからも利益を得ることができる」。

 

1939年8月24日、交戦が始まるちょうど一週間前、チェンバレンに最も近い顧問、Horace Wilson卿が、英国首相からルーズベルト大統領への差し迫った懇願を携え、ケネディ大使を尋ねた。イギリスが3月、戦争が起こった場合にポーランドに明確に義務を負ったことを後悔し、チェンバレンは今や平和の最後の希望としてルーズベルトに絶望を伝えた。彼は、今さら針路を変えてドイツとの交渉を開くため、アメリカ大統領に 「ポーランド人に圧力をかけ」て欲しかった。ケネディ国務省に電話で、イギリスは「このようなこと、与えられた彼らの義務を、なすことができないと感じた、だが我々ができるだろう、と」。欧州の平和を救うかもしれないこの異常な機会を提示され、ルーズベルトチェンバレンの絶望的な嘆願を即座に拒否した。そのとき首相はすべての希望を失ったと、ケネディは報告した。チェンバレンケネディに言った。「何もかも虚しい、恐ろしいことだ。結局、我々はポーランド人を救うことはできない。我々は、ヨーロッパ全土の破壊を意味する復讐戦争をしかけることができるにすぎない」。

 

ルーズベルトは、アメリカ国民と世界に、平和の人[a man of peace]というイメージを打ち出すことを好んだ。かなりの程度、それは今日でも彼のイメージだ。しかしルーズベルトは、平和のために行動する真の機会が提示されたとき、冷笑的に拒否した。

 

1938年には、チェコとドイツの紛争を調停することを検討する、9月8日と12日のBonnet仏外務大臣からの要請に、回答することさえ彼は拒否した。戦争が起こって1年後、憂鬱なケネディ大使は、平和のため大胆に行動するようルーズベルトに嘆願した。9月11日、ケネディはロンドンから電報を送った。「この状況は、大統領が世界の救助者になることができる地点を具体化するかもしれないように私には思われる。イギリス政府それ自体は、確かにヒトラーとのいかなる合意も受け入れることはできないが、大統領自身が苦心して計画を作り出せば効果があるかもしれない。現在この機会が生まれることは無いかもしれない、しかし私のこれまでの人生で相当に経験に富んだ同僚としての大統領は、世界を救いうる立場に自ら立つことができるということは、完全に想像できると私は信じる・・」。

 

だがルーズベルトは、欧州の平和を救うこの機会を即座に拒否した。彼は、親密な政治的仲間に、ケネディの嘆願を「私が今まで受け取った中で最も愚かなメッセージ」と呼んだ。彼はヘンリー・モーゲンソウに、ロンドン大使は頭痛の種にほかならないと不平を言った。「ジョー(注:ケネディ)は、宥和政策の支持者であり続けたし、いつまでもそうあり続けるだろう・・。もし明日、ドイツとイタリアが和平を提案したなら、ジョーは、王と彼の友人の女王に働きかけ始め、そこから下へと皆に受け入れさせるだろう」。

 

欧州の平和を回復する、または少なくとも勃発した紛争を制限するための、ケネディの強情な努力に腹を立てて、1939年9月11日、”個人的”かつ”極秘の”電報で、アメリカの和平努力はまったく問題外である、とルーズベルトは彼の大使に指示した。ルーズベルト政権は「合衆国大統領によって開始される、いかなる和平行動のための機会も場合も無いと理解する。アメリカ国民は、力と侵略の体制を、固定あるいは残存することを可能にする、いかなる和平行動をもこの政府が開始することを、支持しないであろう」と宣言した。