Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

英仏露の支援協定(その3)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.248~)

ウィリアム・ブリットから国務長官

PARIS, May 5, 1939–10 p.m.
[Received May 5–9:45 p.m.]

大統領、国務長官へ。
ケネディ大使の承認を得て、私はロンドンのロバート・ヴァンシタートに今晩電話をかけた。ソビエトの今後の政策について彼は強い懸念を抱いていた。リトビノフの解任が、欧州問題における積極的利害からの離脱や、孤立政策を採用する前兆となることを恐れていた。そのようなソビエト政策の転換は東欧とバルカンにおけるヒトラーへの抵抗を確実に崩壊させ、その結果は全ヨーロッパや全世界にとって極めて重大である。

私はヴァンシタートに、ヒトラーチェコスロバキアに侵攻して以来、イギリス政府が相対してソビエトを悩ませてきた時間稼ぎのほとんど無礼な政策によって、スターリンによるリトビノフの解任が引き起こされたと感じただろうかと尋ねた。彼はイギリスの政策がスターリンの態度の一因になったかもしれないことを懸念したけれども、どのような代替案をソビエト政府に提示することができるかわからなかった、と述べた。

イギリスはなぜ、ソビエト政府が受け入れる意向を示したフランスの提案を受け入れることを拒否したのかと尋ねた。フランスの提案は何も知らないとヴァンシタートは答えた。私は驚き、彼はフランスの提案はまだ英国政府に何も届いていないと述べた。

彼の親しい友人、レジェとダラディエが、イギリスのソビエトへの提案は決して受け入れられないであろうと感じていたことを、私は確かに知っていたと答えた。彼らはそれを無分別であり、フランスとイギリスとの協力政策からソビエトを意図的に遠ざけると考えていたし、フランス政府はその見解を英国政府に表明し、建設的な反対提案をしたと私は確信していた。(以下省略)

 

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.251-252)

ウィリアム・ブリットから国務長官

PARIS, May 8, 1939–8 p.m.
[Received May 8–5:07 p.m.]
ソビエトの駐ベルリン大使がフランスの駐ベルリン大使に、リトビノフの解任はソビエト外交政策に何らの変化をもたらさないであろうことを正式に伝えた、とボネは本日午後に語った。イギリス政府はソビエトの政策に変化はないだろうと公式に知らされていた。先週木曜日にソビエトの駐パリ大使は同じ言明をなした。

ソビエト連邦になんらかの保証を与えることを嫌がったので、フランスのソビエトへの提案を受け入れることにイギリス政府は今なお反対していたと、エリック・フィップス卿が今夜知らせてきたとボネは語った。それにもかかわらず、イギリスの駐モスクワ大使は、本日モロトフにイギリスの最新の提案を提示しており、もしロシアが最初にポーランドルーマニアへの支援を約束すればイギリス政府は英ソ間の直接の保証を検討するであろう、と述べるように指示を受けている。

その後ボネは、彼に言わせれば、ロシアの約束に全く信用を抱いておらず、ドイツからの攻撃が起こった場合に、ポーランドルーマニア・トルコに支援することをソビエトが約束すべきとしても、その支援は(即座ではなく)やがて来たるものになるだろうと疑った。したがって現在のフランスの政策はダラディエとレジェのものであり、彼自身のものではないことを再び明確にする。

将来のロシア政策の問題について、私がモスクワ大使だった時に最も信頼できると判断していた情報源から、楽観的な解釈を本日受け取った。この解釈は次のとおり。スターリンはこれまでになく反ユダヤ主義だ。昨年の粛清以来、共産党政治局の支配的メンバーは、ジダーノフ、アンドレーエフ、モロトフであって、彼らは極めて反ユダヤ的である。彼らはかねてからソビエト連邦の対外関係をユダヤ人の手から奪いたいと望んでいた。リトビノフがイギリスとの合意に至らなかったことは、リトビノフと彼に親密なユダヤ人協力者とを取り除く素晴らしい機会を提供した。ソビエト外交政策は変わることがないだろうし、これまで協議が行われてきたリトビノフよりもモロトフと合意に至ることは容易であると判明するかもしれない。

 

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.254-255)

ウィリアム・ブリットから国務長官

PARIS, May 16, 1939–8 p.m.
[Received May 16—6:43 p.m.]

イギリスの提案を拒否するソビエト政府の文書テキストを、今晩ダラディエは私に渡した。
ソビエト政府は、ソビエトへの互恵的な保証を何ら提案しなかったため、イギリスの提案は議論の基礎にもならなかったとの立場を取った。

ソビエト政府は、互恵的な保証が欠けており、ポーランドルーマニアについての英仏の義務が限定されているので、ドイツの侵略がバルト諸国を経由して対ソビエトに転じる可能性があると指摘した。唯一の合意の基礎としてソビエト政府は提案した。ソビエト・イギリス・フランスの完全な相互保証。フィンランドエストニアラトビアポーランドルーマニアのための保証と、現実に約束した支援をなすための英・仏・ソ連間の軍事会談と合意。
ダラディエはこのロシアの文書にコメントして、フランス政府はフランスの考えを主張し、もって英・仏・ソ連間の議論の基礎が作られることを主張したいとハリファックス卿に述べるよう、フランスの駐ロンドン大使、チャールズ・コービンに昨日命じたと述べた。
ダラディエは、もはやソビエトがフランスの提案を受け入れるとは確信できないと付け加えた。ソビエトはそれを受け入れる準備ができていたし、ポーランドルーマニアの保証にバルト諸国を追加する可能性は無かった。イギリスがしたことは、ぐずぐずした冷淡な提案でロシアの言葉をより頑強にしただけであったと彼は感じた。
彼に言わせると、バルト諸国を保証することはさほど不服だと考えなかった。もしドイツがバルト諸国を侵略すれば、ポーランドはそれらへの支援を余儀なくされることが明らかだった。したがってバルト諸国についての保証は、ほとんどフランスの義務を増大させないであろう。彼はロシアの提案は受け入れられるべきであると感じる傾向があったとはいえ、フランスの元来の提案についてロシアとイギリスの受諾を得ることを好むであろう。

ダラディエは、東方におけるドイツの侵略に対する抵抗政策が採択されたので、そのような方針の政策を効果的かつ成功させるために必要な手段が不可欠であると続けて述べた。ソビエト連邦に関して、彼は私が抱いたほどには幻想を抱いていなかった。ソビエト政府は、彼の内閣を倒すためにあらゆることを行っていた。それにもかかわらず彼はロシアを組合わせることが必須であると信じていた。十分な力の組み合わせの構築だけが戦争の危険からヒトラーを思いとどまらせることができる。

ダラディエは、ポーランド国境へのドイツ軍の不穏な動きについて、今日報告を受けていると付け加えた。これが近い将来の攻撃の予兆であるかどうか彼にはわからなかった。少なくとも数週間、ドイツは脅迫によってポーランドの士気を崩壊させようとするだろうし、六月末まで平和であろうとの推測に彼は傾いていた。だが彼は全体として楽観的ではなかった。

 

 

英仏露の支援協定(その2)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.239-240)

ウィリアム・ブリットから国務長官

PARIS, April 21, 1939—2 p.m.
[Received 3:02 p.m.]

ボネとレジェは、フランス政府が昨夜、英・仏政府の共同提案に対するソビエト政府の反対提案を受け取ったことを私に知らせた。
ソビエト政府は英仏に対して、三国いずれかへの直接攻撃が起こった際には同時に戦うのみならず、欧州の他の国に対する侵略が起こった場合には三カ国すべてが同時に参戦することを保証すべきであると提案した。


ボネとレジェ両氏は、この種の提案を受け入れることは、現在の相互防衛のための交渉を、架空の「国際連盟」の原理に置くだろうと感じたと述べた。とりわけこの種の保証は説得力に欠けるであろう。彼らの見解は、例えばエストニアに対するドイツの攻撃が起こった場合にフランスの兵士を行軍させることは、そのような攻撃がまずにポーランドに関係した場合を除き、完全に不可能であろう。したがって、エストニアに対してドイツの攻撃が起こった場合におけるフランスの軍事援助の保証は、フランス国民は武器で支援しないであろうという架空の約束であると、欧州の人々は考えるであろう。


本日ソビエトの覚書を研究した後、英国政府との緊密な協力の下に、ソビエトは理解しうるであろうけれども、もし仏・英・露のいずれかがドイツとの戦争に踏み切らなければならない場合に、欧州の他国を支援する義務があるのでこの協定の相手方は即座の軍事支援を行うべきであるとは明確に述べない方式を示唆する、反対提案を準備するであろうとボネとレジェは述べた。


言い換えると、仏・露、そして英・露の間で保証がなされるであろうけれども、それらはルーマニアに言及することなくルーマニアを保護するであろう。
ボネとレジェは、ソビエトの返事が、コミットメントをなすことから脱する願望を示したとは信じていないと述べた。方式は見つけにくいかもしれないけれども、それが見つかるであろうと彼らは確信していた。

 

ついでながら、私はレジェとロバート・ヴァンシタート[英外務省の外交主席顧問]と昨夜食事をした。ヴァンシタートはソビエトとの関係の問題についてレジェと合意とを比較した後、今日ロンドンに戻った。ヴァンシタートとハリファックス伯爵[エドワード・フレデリック・リンドリー・ウッド]との関係は今はとても親密になったけれども、彼とチェンバレンとの関係は相変わらず疎遠であると私は察知した。ヴァンシタートは猛烈に即座の徴兵に賛成している。

 

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.240)

アレクサンダー・C・カーク、モスクワ総領事から国務長官

Moscow, April 22, 1939–10 a.m.
[Received April 22–5:35 a.m.]

リトビノフとの会話は満足のゆくように進行しており、英仏とのセンセーショナルな協力の姿勢を示してきたと、当地の英国大使館は述べた。議論の正確な詳細は依然として入手できないけれども、元の英国の提案に盛り込まれたソビエト宣言の一方的な原則は放棄されており、英仏が採用した立場とソビエトの提携の可能性に関連した他の手段が検討されていると述べられた。極東の問題はどちらの側からも提起されておらず、ソビエトの軍事援助の技術的問題は現在のモスクワでの英ソ間の会談の一部ではないと再度確認されている。昨日、ソビエトの駐ロンドン大使がモスクワに到着した。

 

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.242-244)

ウィリアム・ブリットから国務長官

PARIS, April 29, 1939–3 p.m.
[Received 3:45 p.m.]

ボネは、彼がソビエトに作成した最新の提案のテキストを今朝私に見せた。

この文書は3つの簡潔なパラグラフから成り立っており、第1に、ポーランドルーマニアに与えた軍事援助を理由にフランスが戦争に関与することになれば、ソビエト連邦はすべての軍事力でフランスを直ちに支援する。
第2パラグラフでは、ポーランドルーマニアに与えた支援を理由にソビエトが戦争に関与しなければならないとすれば、フランスはすべての軍事力で即座にソビエトを支援するだろうと規定した。
第3パラグラフには、想定される援助を効果的にするための方策を協定する目的で、会談が即時に行われるべきであるという合意が含まれていた・・言い換えると、フランスとソビエトの参謀間で即座に軍事会談が行われるべきであるということ。

イギリスがソビエトと同様の合意に署名するという条件で、この文書は全面的にソビエトに受け入れられるだろうと、ソビエト大使のYakov Suritzが彼に今朝伝えたとボネは語った。

私はボネになぜポーランドルーマニアについて言及したのかと尋ねた。想定されている国がポーランドルーマニアであり、他の国々ではないことを明確にしたかったので、そうしたのだと彼は語った。

ポーランドルーマニアの名前を省略するけれども同じものを包含する、代わりの文書を提案したと彼は付け加えた。この文書は、東欧やバルカン諸国へ支援を原因としてフランスが戦争に関与しなければならないとすれば、ソビエトはフランスに加勢するだろうと規定し、さらにフランスがソビエトに加勢するだろうとの必要な変更を加えた。
イギリス政府は今朝までにこのフランスの提案を受け入れることを拒否し、ソビエトポーランドルーマニアの名で片務的な宣言をしなければならないと主張し続けたと、ボネは語った。

 

私は今日、エリック・フィップス卿と昼食を取った。それは実際にイギリス政府の立場であり、昼食の前にこの件についての長い電報を受け取ったばかりであると彼は述べた。電報の冒頭、2つのセンテンスだけが解読されており、英国政府がフランスの提案を受け入れる準備ができているかどうか彼は分からなかった。

ちなみに英国大使は、ダンツィヒについてのドイツの主張や、回廊を横切る通路を拒否するため、イギリス政府はポーランドを最大限支援しなければならず、そうなるだろうと感じたと私に伝えた。現段階でイギリスがポーランドを支援しなければ、ドイツへのポーランドの抵抗は崩壊するかもしれず、さらには作られてきたドイツに対する抵抗の体系全体が崩壊するかもしれないことが明白だと彼は付け加えた。

現時点でドイツとイタリアへの抵抗を築くために採りうる最も効果的な措置は中立法の早期の変更であると、彼の政府と同様に、英国大使は感じたと二度語った。

 

ボネは、現時点でドイツに譲歩すべきではないと感じたが、ドイツへの抵抗を強めるためにあらゆる努力をなさねばならず、一週間かそこらで大統領はヒトラーへの見事な返答をなす機会を得るであろう、と付言した。

ボネ、英国大使とポーランド大使[Juliusz Lukasiewicz]は、現時点でヒトラーは敢えて戦争を仕掛けようとしなかったということを彼の演説[1939年4月28日]は示した、との見解を私に表明した。ドイツへの抵抗が増せば戦争のリスクについてのドイツの嫌気も増すであろうし、最終的にヒトラーは妥当な基準で交渉を強いられるであろうというのが彼ら全員の考えだ。

 

 

 

英仏露の支援協定(その1)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.235)

ジョセフ・ケネディ駐英大使から国務長官

LONDON, April 18, 1939–7 p.m.
[Received April 18–2:26 p.m.]

英外務省が伝達した厳重な機密情報は以下。
ソビエト政府は英・仏政府に対し、ソビエトの片務的な宣言のためのイギリスの提案と、双務的な宣言のためのフランスの提案とを組み合わせた、以下の提案を提示した。
1.英・仏・露国間で、5年から10年にわたって、欧州での侵略が起こった場合には軍事を含むあらゆる支援をそれらの国のいずれかに対して行うとの合意が提案された。
2.三ヶ国は、バルト海黒海の間やソビエトに接する東欧諸国に対する侵略の場合には、これらの国々に支援を与えるとの同じ保証を与える。
3.(1)と(2)が合意されたなら、必要となるであろう軍事援助の範囲と形態とを可能な限り最短時間で議論し解決することを約束する。
4.イギリスは、ポーランドに対する攻撃が起こった場合に与える支援は、対ドイツについてのみ適用されると説明した。ソビエト政府はイギリスの約束には曖昧さが一つあると明らかに考えており、ソビエト連邦構成共和国[ソ連邦を構成していた共和国]の一部は、ソビエトロシアによるポーランドへの侵略に対してもイギリスの保証が拡張したと考えた。
5.ポーランドルーマニア間の条約[1931年1月15日調印]は、やがてあらゆる方位からの侵略のすべての事例において有効であると宣言されるか、ソビエトロシアのみに向けて無効と宣言される。
6.共同の敵と個別に和平交渉をしないとの合意を三ヶ国はなす。

7.上記(3)の下に想定された合意と同時にこの趣旨の合意が署名される。

8.トルコ政府はバルカンと地中海地域に責任を限定したがるかもしれないので、トルコとの共同交渉の必要性を認識する。前述の提案は非常に広範囲に及んでいることがわかるだろうし、イギリスの反応の兆候はまだない。

 

 

Foreign relations of the United States.1939.V1. | Hathi Trust Digital Library (p.238)

ウィリアム・ブリット駐仏大使から国務長官

PARIs, April 19, 1939–11 p.m.
[Received April 20–9:45 a.m.]

ジョルジュ・ボネ[仏外務大臣]とアレクシ・レジェ[仏外務省事務総長]は、イギリス政府が求めたポーランドルーマニアについての公式声明を発表することをスターリンが拒否したことについて神に感謝していたと、今夜私に語った。
スターリンは代わりに、英露・仏露は、イギリスとポーランドの間で最近締結された協定と同様の、侵略が起こった場合に即時の軍事支援をなすための協定を締結すべきであると提案してきた。
ボネとレジェ両氏は、ドイツによる攻撃の場合にルーマニアを支援する準備ができていることをソビエト連邦が示すという条件で、そのような協定を直ちに締結すべきだと思うと述べた。
ボネとレジェは、ヒトラーの演説の前に、ポーランドルーマニア間に対ドイツ同盟をもたらすためにできることはすべてやってきたと言った。しかし、彼らはユゼフ・ベック[ポーランド外務大臣]がこの同盟の締結を遅らせるだろうと懸念した。


今日ユーゴスラビアの大臣と長く話し合い、彼の政府はドイツやイタリアの即時の攻撃を予期していないと彼は述べた。いかなる戦争におけるユーゴスラビアの立場も、専ら地中海の支配によって決定されるだろうと彼は付け加えた。英仏がイタリア艦隊を一掃し地中海を支配できたなら、60日以内に英仏側で参戦することを彼は保証するだろう。他方、イタリアが地中海を支配し、英仏露からの供給がユーゴスラビアに到達不能となった場合、ユーゴスラビアは中立のままでいる以外に何もできないであろう。


私は今晩レジェとユーゴスラビアの立場について話し合い、彼はこの判断に完全に同意した。しかしながら彼は、ドイツ軍の攻撃は、現時点でドイツ軍の通過に抵抗する準備ができているハンガリーを経由しないだろうとルーマニア人は感じたと付け加えた。ドイツ軍の通過に抵抗しないかもしれない感情的に不確実な状態のユーゴスラビアを経由して来るであろう。


レジェは、ポーランドへのドイツの脅威にもかかわらず、今日ドイツに最も脅かされている唯一の国はルーマニアであると確信していると述べた。ドイツはルーマニアの油田に目をつけている。もしルーマニア人が反ドイツの路線を断固として採用していたなら、ヒトラーは既にルーマニアを何らかの方法で攻撃していたであろう。カロル王[ルーマニア国王]は極めて巧みなゲームをしていた。彼はドイツ人に対してとても丁重であり続け、ルーマニアの同意を得て支援を得ることができると彼らに確信させてきた。王は彼自身と王朝の存在のために戦っていたことを完全によく知っており、そして彼はドイツ人に対してとても丁重であろうけれども、それが明確に理解されている限り彼は決してドイツの側に行くことはないであろうというのが現実だった。

 

 

 

アメリカのソビエト承認

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

Foreign relations of the United States.... | Hathi Trust Digital Library

(1頁中盤から2頁にかけての翻訳)

ヘンリー・スティムソンからウィリアム・ボーラ。1932年9月8日。

 

当時の私の結論は大まかに次の通り。
極東の状況において、アメリカは国際的な義務の保全のために世界的に重要な戦いをしていた。我々は、国際的な約束を保つ神聖と誠実を支持する中で、条約のために世界中の国際感情を発展させることで、戦争が終わってから交渉されてきた偉大な平和条約を支持しようとしてきた。我々は、力や政治的同盟に近いものを避けて、我々の活動の背後にある国際社会の世論の支持を得ようと努力する専ら穏やかな手段によって、これを行っていた。

もしそのような状況下やこの非常時に、国際義務に関するロシアの非常に悪い評判や、以前の我々のロシアの歴史の様相の強調を無視してロシアを承認したなら、全世界、特に日本は、我々の行動が政治的な便宜によって決定されてしまったと思い込み、そして日本に強い圧力をかける策略だと思い込むだろう。日本との論争でこれまでに持っていた道徳的地位をそれによって失わなければならない。日本は我々を、外交政策の通常の操縦によって反日政策を恣意的に実施しようとした、機会主義の国にすぎないとみなすだろう。この道徳的地位の喪失はとても重要となるであろうから、我々はそのリスクを負う余裕はないと私は感じた。我々自身の動機がどんなに純真であっても、世界の大部分、特に日本によってそれらが誤解されるだろうことは間違いなく、その誤解は、我々が及ぼそうと努力しようとしてきた道徳的圧力の影響の多くを破壊するであろう。

あなたが手紙で言及する日本とロシアの交渉の見込みに関して、それらの影響についての多くの噂を聞いた。一時的な理解が試みられている可能性は非常に高いが、私はそれはまさに一時的なものになるはずだと思っている。満州に関する両国間の敵対は激烈であり、他方との約束におけるそれぞれの信頼の欠如はまさに現実であるため、なんらかの実体がある、ないし永続的な、相互支援や援助の関係に入ることはありそうにない。彼らの利益はあまりにも相反している。前述は現在の多忙下で手元の情報から私が到達できる最良の結論だ。あなたがそうする時間がある時に、それらについてのあなたの批判を私に送ってくれると私は嬉しく思う。(以下省略)

 

 

 

Foreign relations of the United States.... | Hathi Trust Digital Library (p.20)

グルー駐日大使から米国務省。1933年10月23日。

 

大統領とミハイル・カリーニンとの間の覚書の交換の発表はこの地で短いコメントを喚起した。記者会見で次のように外務大臣[の発言]は引用された。

ソビエト連邦のマクシム・リトヴィノフ人民外務委員を、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領がワシントンに招待したと知った。この件がアメリカによるソビエトの承認へと発展するかどうか疑わしい。もし両国が長年に亘って良好な関係を維持すれば、資本主義と共産主義が一致できるという教訓を世界に教えるだろう。それが実現すれば、日本は共産主義を恐れる必要はないであろう。アメリカによるソビエトの承認は人類史における大きな疑問符である。アメリカとソ連の合意の見込みが極東での日本の立場への圧力を意味すると観察している者がいたとすれば、彼は極東の状況を全く知らない。」

陸軍大臣は、日本にどのように作用するのかわからない、動機は経済であったと思慮する、どのみち両国はいつか外交関係を再開しなければならないと考える、と語ったと述べられた。
このような見方は、この動きを、日本にわずかに影響を及ぼすにすぎず、何らかの形で避けることができない、と明らかに考えている日本国民一般の立場のように思われる。

今朝の報道によれば、パリとベルリンの[関係の]道程に置かれたような解釈や、その行動が日本に反する方向性を示したと日本人が信じている証拠はこれまでのところない。

 

 

アメリカでの戦時下検閲

 

A report on the Office of Censorship | Hathi Trust Digital Library より、記述のごく一部を抜粋しました。機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

(19ページ冒頭)

郵便検閲は大規模な作業で、物質的に米国検閲局の最大の仕事であった。一日に百万通を大幅に上回る手紙が郵便局の支局を通過するので、最盛期には郵便部は一万人以上の人員を雇った。彼らは、船舶・航空国際郵便の分野の警官であった。

1941年6月、大統領による一般検閲計画案の承認は、陸軍省が陸軍情報部に検閲部門を設置し、戦争の際に郵便検閲を積極的に監督する準備をなすための合図であった。5つの連邦政府機関を代表する検閲局の統制下に置かれた郵政省によって郵便検閲が行われた第一次大戦以来、その領域では新たな計画は事実上行われてこなかった。

検閲部門を率いたコーダーマン大佐は、さっそく予備役将校のための訓練学校を開設した。卒業時にこれらの者は、事務所スペースを選び出し、郵便経路と数量に関するデータを入手し、紙面上に検閲所を編成するため、さまざまな軍事地区の指令部に割り当てられた。技術的な情報を入手し、手順を報告するために、イギリスやカナダの検閲所に派遣された者もいた。

 

(20ページ中部)

陸軍省が将校の大半を検閲から呼び戻すと決定したとき、区域の郵便検閲官となり本部の管理職を満たすため、民間企業の手腕のある幹部の調査が行われた。100名近くのグループが募集され、ニューヨークの局で一ヶ月の訓練を受けた後、組織のあらゆる職に就いた。後に幹部補佐のグループがニューオーリンズで同様のコースをやり遂げた。検閲局の作業のピーク時には、ニューヨーク、マイアミニューオリンズサンアントニオエルパソ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、シカゴに郵便局区域を有し、同様に海外の局がプエルトリコのサンフアン、バルボア、パナマ運河地帯、ホノルル、ハワイにあった。

 

(25ページ上部)

遠距離通信・・海底電信、無線電報、国際電話・・の検閲は、これらのメッセージが移動するスピードのために複雑であった。手紙の不適切な情報は、敵が受信して利用できるようになるまでにいくらかの手紙の遅延に左右されたもののの、ケーブルと無線回線は時間的要素を打ち消した。検閲官には迅速な作業が要求され、合法的な通信を数秒から数分のうちに承認した。
フェン指揮官は、戦前の活動計画段階の間だけでなく戦時中も、そして日本の敗北直後に彼の助手を務めたアメリカ海軍予備役のW.M.B.フリーマン司令官によって引き継がれるまで、遠距離通信の検閲を直接担当した。

 

(27ページ上部)

訓練が完了した後、これらの将校は、戦争の発生時に現役勤務に就かせることを条件に、彼らの民間職業に戻された。このように必要なときに即座に利用できる訓練された将校の集まりが構築された。
1941年12月7日の真珠湾攻撃のときには、電信検閲は効果的な操業を開始する準備ができていた。ニューヨークとサンフランシスコの主要局はすぐに稼動し、攻撃があった後、数時間以内に遠距離通信を検閲していた。マイアミ、ロサンゼルス、ニューオーリンズ、シアトルのより小規模な局は、攻撃の後に完全な報道がなされてからほぼ1日以内に、おおむねすみやかに稼動した。1942年の初頭、アリゾナ州ツーソンとテキサス州サンアントニオの基地は軍隊によって電信検閲に移され、ネットワークの一部となった。電信検閲もまた海外の局があり、アイスランドプエルトリコパナマ運河地帯、ハワイにあった。

 

(32ページ中部)

米国に出入りするすべての国際通信を検閲するほかにも、検閲長官は、「戦争の効果的な遂行という利益において、公開されるべきではない軍事その他の情報の発表を自発的に保留する、という国内の報道機関やラジオの努力を調整する」ことをルーズベルト大統領に要求された。
これは手ごわい任務だった。1917-18年には自主的な出版の検閲が曲がりなりにも存在していたが、試み全体が多くの誤解や苦味によって特徴づけられたため、当局の責任者はそれを失敗と認めた。そのうえ、1941年の商業放送は、報道機関の一員として初めての戦争に入り込み、ニュースの瞬間的な伝達のための設備は新たな検閲の問題を作り出した。

 

(34ページ下部) 

出版・放送部門のスタッフは、規則の要請から生じた境界事例への助言や、問い合わせに回答するために、24時間体制で待機していた。ワシントンで役目に就いていた9人の新聞社員と6人のラジオ社員の他には決して居なかった。支部や地方の事務所はなかったが、権限が分散されると、とあるニュース記事のセキュリティに関して見解の相違をもたらしたであろうことは疑いない。