ヒロシマは必要だったのか?(その2)

 

Mark Weber氏 Was Hiroshima Necessary? の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Peace Overtures
1945年の4月と5月、日本は中立のスウェーデンポルトガルを経由して戦争を平和的に終結しようと三度試みた。4月7日、重光葵外務大臣は Widon Bagge スウェーデン大使と東京で面会し、「米英がどのような講和条件を考えているのか確認する」ように依頼した。しかし彼は、無条件降伏は受け入れることができず、「天皇に触れてはならない」と強調した。Bagge 大使はこのメッセージを米国に伝えたが、ステティニアス国務長官は「関心を示さないか、問題を追求するいかなるイニシアチブも取らない」ように在スウェーデンの米国大使に命じた。5月7日のポルトガル、10日のスウェーデンを通した同様の日本の和平の信号は、同じく実を結ばないと判明した。


6月中旬までに最高戦争指導会議の六人の構成員は、「できれば9月までに戦争を終結することを目指して」ソ連の指導者に近づくという任務を、東郷茂徳外相に秘密裏に命じた。6月22日、天皇は、首相や外相、主要な軍人を含む最高戦争指導会議を招集した。裕仁天皇は語った。「最後の一兵まで戦い抜くという決意は充分に聞いてきた」「この際、いままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についてもすみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望む」。


7月初めまでにアメリカは、天皇自身が和平の取り組みに一役担っていることを示し、ソ連に戦争の終結を依頼するよう指示した、東郷からモスクワの駐ソ大使・佐藤尚武へのメッセージを傍受した。戦争を終結させる上での主要な障害は、あらゆる交渉を排除する要求「無条件降伏」のアメリカの強要であると、米当局者もわかっていた。半神的な天皇を引き渡すことを除き、日本はほぼすべてを受け入れる準備ができていた。二千六百年の王朝の後継者、裕仁は、国家を象徴した「現人神」として国民から尊重された。(8月15日のラジオ放送での降伏発表まで、日本国民は彼の声を聞いたことがなかった。)アメリカ人が天皇に恥をかかせたり、戦争犯罪者として彼を処刑することを、日本人は特に恐れていた。

 

7月12日、天皇は1940〜41年に首相を務めた近衛文麿を召喚した。天皇は「遅滞なく戦争を終結させる必要がある」と説明し、ソ連を通じて米英と和平を実現したいと近衛に述べた。近衛公爵が後に回想したように、天皇は「過酷といえども、いかなる代償を払ってでも和平を実現する」ことを彼に命じた。


翌7月13日、東郷外務大臣はモスクワの佐藤尚武大使に電報を打った。「モロトフ[ソ外相]がポツダムに出発する前に彼と面会せよ・・戦争終結を実現するとの陛下の強い願いを伝えよ・・無条件降伏は平和への唯一の障害である・・」


7月17日に傍受された別の日本のメッセージは、日本の指導者達は、無条件降伏の方式は容認できない不名誉を伴うと感じており、「時代の要請」が戦争を終結させるソ連の仲介を絶対的に不可欠なものにしたと確信していることを、明らかにした。さらに外交メッセージは、日本が求めるただ一つの条件は「我が政府の形態」の保全であることを示した。唯一の「困難な点は無条件降伏という形式」であると、7月25日のメッセージは明らかにした。


東郷と佐藤との間のメッセージを要約して、日本の指導者達は「無条件降伏の用語に難色を示しているけれども」戦争に敗北したと認識し、「大西洋憲章[1941年]に基づく平和の回復に異議がない」ところまで達していると、米海軍情報局は述べた。メッセージにつき海軍次官補のルイス・ストラウスは「実際に日本の皇室の完全性の保全だけを要求した」と述べた。海軍長官ジェームズ・フォレスタルは傍受されたメッセージを「日本が戦争から離脱したいと望んでいる物的証拠」と呼んだ。歴史家アルペロビッツは特筆した(117頁)。

――これらのメッセージを傍受して、日本の意図についての現実的な疑念はもはや何もなかった。その巧妙な処置は明白で明示的であり、何より公的行為であった。内大臣天皇の側近であった木戸幸一は後に断言した。「この戦争から脱する方法を探し求める我々の決断は、原子爆弾の投下やソ連が参戦するよりも前の六月上旬になされた。それは既に我々の決意であった」――

 

それにもかかわらず、7月26日、米英首脳は容赦ない最後通牒を含んだポツダム宣言を発表した。「我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」。

 

この苛酷な二者択一の宣言を論評して、英国の歴史家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは書いた。「十分なプロパガンダを与えられたアメリカの大衆が許容できないであろうから、天皇に関する言及は一言もなかった」(A Military History of the Western World [1987], 675頁)。

 

アメリカの指導者達は日本の絶望的な状況を理解していた。天皇が酷遇されない限り、いかなる条件でも戦争を終わらせる用意が日本にはあった。もし米国の指導部が無条件降伏を主張していなかったならば・・つまり、天皇を変わらぬ地位に残す意志を彼らが明確にしていたならば・・日本はすぐに降伏していた可能性が高く、したがって何千人もの命が救われた。


実際に進展したとおり、アメリカの指導者達が威信と連続性の象徴として天皇を留め置くと決定したことは、悲しむべき皮肉である。彼らは戦後の日本における占領権の名目上の長として裕仁が有用であったことを正しく認識した。

 

Justifications
トルーマン大統領は、戦争を迅速に終わらせることによって「何百万という命を救った」と主張しつつ、原子爆弾の使用を断固として擁護した。トルーマンは自身の決定を正当化しつつ、「世界の人々は、最初の原爆が軍事基地の広島に投下されたことに注目するでしょう。それは、この最初の攻撃において、可能なかぎり民間人の殺戮を避けたいと思ったからであります」とまで宣言した。

 

これは荒唐無稽な声明であった。事実、犠牲者のほとんどは一般市民だったし、米国戦略爆撃調査団は公式報告(1946年発行)で述べる。「広島と長崎は活動と人口の集中のため標的として選ばれた」。

 

もし新兵器の莫大な破壊力を日本の指導者に印象付けるために原子爆弾が投下されたのであれば、孤立した軍事基地に使用することでそれを達成できたはずである。大都市を破壊する必要はなかった。それに、どのような正当化が広島の爆破になされようとも、第二の長崎爆撃を擁護することははるかに難しい。

 

それでも、アメリカ人の大部分は爆撃についての公式の弁明を受け入れたし、受け入れ続ける。人間以下の獣「ジャップ」という粗悪なプロパガンダ描写に慣れた1945年の大多数のアメリカ人は、ひどく嫌ったアジア人を一掃し、日本の真珠湾攻撃に対する復讐を助ける新兵器を心から歓迎した。激しい戦闘で日本人と戦っていた若いアメリカ人は「神よ、原子爆弾に感謝します」という考えだった。彼らはほとんど全員、戦争を終わらせたように見え、彼らに帰郷を与えた兵器に感謝した。

 

1943年7月のハンブルクの火災旋風での破壊、1945年2月中旬のドレスデン大虐殺、東京その他の日本の都市への焼夷弾攻撃の後、アメリカの指導者達は、レズリー・グローヴス陸軍将校が後に批評したように、「概して民間人の大量殺戮に慣れた」。ハリー・トルーマン大統領にとっては、日本の民間人数万人の殺害は、原子爆弾を使用する決定において、単に考慮すべき事柄ではなかった。