Another View of Japan

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HOW WE WON THE WAR(その1)

 

「ライフ」1948年9月6日号、86~88ページからの翻訳です。機械翻訳を利用した個人的なものであり、よって誤訳の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

LIFE - Google ブックス

 

 

HOW WE WON THE WAR AND LOST THE PEACE

ウィリアム・C・ブリット

 

ルーズベルト大統領は、スターリンと差し向かいで会うことができれば、ソ連の独裁者に彼の完璧な誠実さを納得させ、永続する平和のための心からの協力に乗り気にさせることができると信じていた・・彼がたびたびアメリカ人をその気にさせたように。大統領はスターリンとの個人的な会話を4回求め、スターリンは4回拒絶した。5回目、大統領がソ連の南の国境に近いイランの首都、テヘランに旅することを条件に彼は承諾した。大統領はひとまず行くことを拒否したが、スターリンとの対話を望む願望が打ち勝ち、はるばるテヘランまで行った。

 

1943年11月28日から12月1日にかけて続いた会議で、彼はスターリンに上手く取り入ろうとした。彼は慎重に、ソビエトの独裁者の機嫌を損ねるかもしれない発言を控えた。大統領は胃弱の発作を口実にして、スターリンチャーチルの間で行われたポーランドの将来についての重要な交渉から欠席した。ポーランド人を奴隷化から救うことができたのはアメリカとイギリスの一致した見解だけであったことは明らかであったけれども。スターリンチャーチルに、ソ連カーゾン線までのポーランド東部(全国土の三分の一)をすべて併合しなければならず、そしてポーランドはドイツ東部を併合することで補償されなければならないと主張した。チャーチルは、これらの併合には将来の戦争の種が含まれていると主張した。だがスターリンは譲らず、チャーチルは最終的に彼の要求を受け入れ・・ルーズベルトはこの合意に同意した。弁護して、大統領とチャーチルは、重要な問題は、ポーランド東部の国境ではなくて完全に自由なポーランド国家の建設であり、ソビエト政府に統制されていない完全に独立した政府の建設であると主張した。ポーランド領土のほぼ半分をスターリンに支給する犠牲を払って、彼らはこれを購入したと期待した。しかし出来事はこの代価が基準に達していなかったことを証明した。スターリンポーランド全域の支配のみならず、ポーランドの国境をオーデル川と西側のナイセ川に拡大して、ドイツ東部全域を支配したがっていた。最終的にスターリンは、完全に彼の支配下にあったソビエトの傀儡政府をワルシャワに据え付けた。そしてポーランド愛国者を鎮圧することが困難だった時、ポーランド全土に17のロシア総指令部を設置し、ポーランドが隷属して生きなければならないと認めることを拒否したポーランド人の残りを追い詰めるために十分な兵士を派遣した。


テヘラン会議の時、チトーはバルカン諸国内で主要なスターリン代理人だった。スターリンは、我々の武器と物資が、それまで受け取ってきた我々の友人で民族主義者のミハイロビッチ将軍の代わりに、チトーに送られることを望んでいた。大統領とチャーチルは合意した。そして最終的に、チトーはユーゴスラビア共産主義体制を据え付けて、私達の友人ミハイロビッチを銃殺した。

 

ルーズベルト大統領はテヘランにおいてスターリンの要求を直視することが可能だった。ヒトラーの軍隊は依然ソビエトの地にあった。そしてスターリンは、1939年8月にヒトラーと協定を結んだときに持っていた境界地帯ですら、それを取り戻すために我々のレンドリースの供給品を猛烈に必要としていた。そして我々の首席補佐官に取り付いていた幽霊は、スターリンが望んだ全てのものを与えなければ彼はヒトラーと共に独自の和平を創るであろうという、政治的な無知が作用した軍事的想像力の創作であった。戦争を始めるには1が必要だが、和平を成すには2が必要だ。ヒトラーは1941年6月に彼がした攻撃のため、スターリンは決して彼を許さないだろうと知っていた。たとえいかなる誓約を誓い友好の約束が交換されたとしても、ヒトラースターリンを刺したようにスターリンヒトラーを刺すだろう。スターリンヒトラーと協力しようと真剣に試みたとすればその結果は、ヒトラーはイギリスと我々にスターリンの申し入れを伝え、我々と独自の和平を創ろうとするだけであろう。

 

したがって大統領はテヘランにおいて安全にスターリンに対抗することができた。しかし彼にはそのような考えは毛頭なかった。彼はスターリンの機嫌を取ろうとしていた。彼自身が校正し認可した文書によると「・・大統領は善隣政策の下にスターリンの利益のためテヘランで研修会を行った」、そしてご機嫌取りの外交政策(彼は素晴らしいデザインと言う)を携えてワシントンへと戻った。


2回目かつそれを最後としてスターリンに会うために、ルーズベルトははるばるソ連へと旅を強いられた。クリミアのヤルタで、1945年2月4日、ソビエトの独裁者は疲労した大統領を歓迎した。ルーズベルトは心底疲れていた。 彼は病気だった。彼が1933年にホワイトハウスに入った時の身体的、精神的な活力はほとんど残っていなかった。彼は自身の思考を明確に述べることがしばしば困難であり、それにましてそれらを続けて表現することが困難だった。しかし彼は依然スターリンをなだめようと決意していた。

 

ヤルタ会議で彼は、ロードアイランド州デラウェア州よりも独立性が少ない、ソビエト連邦ウクライナベラルーシを"独立国家"として、スターリンが国連に潜入することに合意した。こうしてアメリカは国連でたった1つの票を持つ一方、ソ連には3つの票が与えられた。彼は、将来、スターリンにとって満足のいくようなポーランド政府を認めることに同意した・・後にトルーマン大統領が合意を履行した。

 

しかし、極東におけるスターリンの欲求に対する彼の譲歩によって、大統領はアメリカの極めて重要な利益を酷く深刻な危険に晒した。スターリンは1943年10月30日、モスクワで、「同盟国がドイツの打破に成功したのち、ソ連が日本の打破に参加するだろうことは明らかで疑問の余地はない」とコーデル・ハルに述べた。この陳述について国務長官が書いた論評は、「彼の決意についてのマーシャルの陳述は率直だった。彼はそれを強調し、それはまったく一方的で、何の見返りも求めなかった・・大統領に転送するため、スターリンが私に約束したとき、それには条件が付けられていなかった」。

 

1914年11月、スターリンのこの約束の一ヶ月後、テヘランに向かう途中、大統領はカイロでチャーチルおよび中国大統領・蒋介石総統と会議を開いた。3人は署名し、以下の宣言を発表した。「同盟国の目的は、1914年の第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国から剥奪すること、並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある」。

 

1945年2月11日のヤルタ会談において、ルーズベルト大統領はカイロで中国政府にした約束を破り、そしてひそかに、中国が居ないときに、チャーチルおよびスターリンと、満州における中国の重要な権利がソビエト帝国主義の犠牲となる協定にサインした。この秘密協定によってルーズベルトソビエト連邦に、重要な満州の港・大連の「卓越した権益」、そして大連を防衛するための重要な海軍基地・旅順口区の完全な支配権を与えたのみならず、ソ連から大連に通じ、満州を北西から南へと分ける鉄道についても「卓越した権益」を与えた。