Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

HOW WE WON THE WAR(その2)

 

「ライフ」1948年9月6日号、88~92ページからの翻訳です。機械翻訳を利用した個人的なものであり、よって誤訳の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

LIFE - Google ブックス

 

HOW WE WON THE WAR AND LOST THE PEACE

 

Deadly instrument
満州は中国に復帰するであろうというルーズベルトのカイロでの約束を考えると、この秘密協定は全く卑劣であった。秘密協定は中国のみならずアメリカにとっても潜在的な災いであった。なぜならそれは中国を支配するための、そして我々に対する戦争において人的資源と物資を最終的に動員するための、致命的な手段をスターリンに与えた。

 

なぜルーズベルト大統領はそれに署名したのだろうか?「ドイツが降伏してから2~3ヶ月後に」対日戦争に参戦する約束の見返りに、スターリンがそれを要求したからである。しかしスターリンは既に、見返り無しに、「同盟国がドイツの打破に成功したとき、ソ連はそれから日本の打破に参加するだろう」とコーデル・ハルに約束していた。そして満州と朝鮮の奪取、さらには中国の共産化というスターリンの願望の深さを理解していた人々は、我々の打撃によって日本がまさに意識を失いかけていたとき、スターリンが土壇場で日本に宣戦布告することを妨げることができる勢力は地球上に存在しないと知っていた。日本との戦争のための代価をスターリンに支払うことは不必要であっただけでなく、彼がそうすることを阻止するためにも我々に大幅な政治的アドバンテージをもたらしたであろう。もしスターリン満州を侵害していなければ、我々と中国は一緒に、極東に迅速かつ適切な平和をもたらすことができたであろう。しかし、我々の極めて重要であった利益に完全に相反して、我々はスターリン満州の鉄道と港を支払ったのだ。

 

ヤルタで大統領と一緒だった友人達から大統領のこの行動についてただひとつ提供された弁護は、マーシャル将軍と他の参謀達は日本の抵抗力を完全に誤って見積もり、日本を打破するためには赤軍の援助が不可欠だと考えたということだ。そのうえ参謀達は、スターリンがハルにした約束が十分に明確ではなかったと信じていたことから、スターリンがどのような要求をしたとしても大統領は対日戦争への赤軍の参戦を得るべきであると主張した。1948年2月20日のアメリカ合衆国下院外交委員会の面前で、この問題についてマーシャル将軍が語った証言は、「・・ロシアが満州の国境での戦闘を約束することが重要であるというのが参謀達の見解であった。軍事的配慮のため、政治的調整の詳細は提出されなかった。」

 

責任を負ったのはルーズベルトであったにせよマーシャルであったにせよ、中国の独立と保全というアメリカの不可欠な利益が犠牲にされ、現在の極東における悲劇的な状況の土台が築かれた。

 

対日参戦という繰り返えされた約束に対する追加の代金として、ヤルタにおいてスターリンは、清国領の外モンゴルに彼が設置した共産主義国は中国から永久に切り離されるべきであること、そして樺太の南部、およびアラスカから日本への大圏コースの飛行ルートを切断する千島列島は、ソ連によって併合されるべきであることに同意するよう、大統領を説得した。

 

ヤルタ会談が終わった時、スターリンはとても上機嫌だった。彼はアメリカ人の来賓と多くの乾杯をした。五か月後に国務長官に就任したジェームズ・F・バーンズ氏は次のように記録している。「マーシャルは席を離れて私とグラスを合わせに来た・・本当は彼はとても好感が持てる人物である・・英米ソの友好の海面潮汐が、新記録を達したことは間違いない。」

 

満州外モンゴル樺太、および千島列島に関する合意は、アメリカ国民から秘密にされた・・バーンズ氏ですらそれが存在すると知らなかった。欺かれた同国人からほとんど満場一致の賞賛を浴びながら、疲れ果てた大統領はヤルタからワシントンに戻った。

 

しかし1か月後、ポーランドルーマニアスターリン代理人の振る舞い、そして、ベルンでの交渉の後、我々が密かに独自の和平を締結したと主張するスターリンからルーズベルトへの無礼なメッセージは、大統領を失望させ、怒らせた。しかしそれでもルーズベルトは彼の外交政策が悲惨な失敗であったと認めなければならないと感じたことは一度も無かったし、彼の全ての才能をもってしても満足しない人を満足させることはできなかったと認める必要があると感じたことも無かった。1945年4月12日、彼の死のわずか1時間前、大統領はチャーチルからの助言の要請に答えて次の電報を送った。
「私はソ連との軋轢を過小評価したい。こうした問題は日々、何かにつけ生じるし、そのほとんどはその気になれば解決できるからだ。」

1945年の残りの数か月間におけるポーランドハンガリーオーストリアルーマニアブルガリア東ドイツ、イラン、満州、朝鮮でのソビエト政府の行動は、スターリンがレーニンの教えに忠実なままであったことを疑う余地なく証明した。「策略、悪知恵、非合法な手段、逃げ口上、真実の隠蔽を利用すること・・は必要だ。」大統領は「これまでに政治家は誰も賭けなかった巨額のギャンブル」で負けた。実際にはギャンブルは一度も存在しなかった。世界の全ての国に共産主義独裁の設置を呼びかける信念からスターリンを転換する可能性はわずかにも存在しなかった。ヒトラーのようにスターリンは止まらないだろう。彼は止められるしかなかった。 ルーズベルトはギャンブルをしていなかった。彼は騙されていた。

 

トルーマン大統領は破綻したアメリカ外交政策を受け継いだ。しかし、彼はそれが破綻していたことを知らなかった。彼は重大な場面に直面した。だが彼は外交問題について何も知らない凡人だった。トルーマン大統領の手中には、かつて誰一人として保有したことがないような権力があった。我が空軍は他のいかなるものよりも飛び抜けて優勢だった。我が海軍は世界のその他の地域の海軍を合わせたよりも大きかった。我が陸軍はその能力の絶頂期には素晴らしい戦闘部隊だった。世界で断然優れた我が工業施設は無傷で残った。我々と衝突する危険を敢えて冒すかもしれない勢力の迅速な破壊を保障するであろう原子爆弾を、ごく近い将来、所有すると我々は期待した。アメリカ国民は平和を望んでいた、そして我々がなしてきたあらゆる譲歩にもかかわらず、トルーマン大統領は我々の力を平和へと向けて使用することができたかもしれない。彼はそれを使う方法を知らなかった。

 

トルーマン大統領の政治的関心はすべて国内問題にあった。そして彼は外交政策の顧問として、スターリンをなだめる政策を引き受けることによって地位を得・維持してきた利口な集団を受け継いだ。トルーマン大統領が、ルーズベルトのように、満足しない人を満足させることはできないと学ぶまで2年かかったことは不自然ではない。トルーマンが大統領になってから2週間後、スティムソン長官は彼に、おそらく約4ヶ月で原子爆弾が敵に対して使用できるようになると伝えた。同じ日、国連を組織するためサンフランシスコ会議が開催された。我々の公式の宣伝者は、ソビエト連邦は「平和を愛する民主主義国」であると偽っていた。そして我が政府は、安全保障理事会の各常任理事国ソ連、英国、フランス、中国、米国)は非常に信頼できるので国連のあらゆる行動における絶対的な拒否権を任せることができたという偽りの口実によって、国際安全保障機構を設立する真の困難を(アメリカだけでなくソ連の困難をも)回避した。その憲章により国連は、五大国の中の侵略者、または五大国のいずれかが支持する侵略者、に対する行動が無力化された・・どのような山賊大国でも警察によるすべての行動を拒否する権利が与えられた。これは国連が役に立たなかったことを意味するものではない。それは拒否権を持たない小国に対して行動することができ、国際世論のための公開討論会としての役割を果たすことができる。しかしそれは国連は国際的な安全保障組織ではなかったことを意味した。