Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

機密のポーランド文書(その3)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

Authenticity Beyond Doubt
ドイツ政府によって公表された、ワルシャワポーランド外務省からの文書が本物で真正であることに、現在、疑問の余地は全くない。

 

ジョージタウン大学のアメリカ外交史教授であるチャールズ・C・タンシル教授はそれらを本物とみなした。「・・私は戦前のベルリンのポーランド大使、M. Lipskyと長時間会話し、彼はドイツ白書の文書は本物であると私に保証した」と書いた。歴史家であり社会学者のハリー・エルマー・バーンズはこの評価を追認した。「タンシル教授と私自身、これらの文書がまったく本物であると独自に確認した」。ウィリアム・ヘンリー・チェンバリンは America's Second Crusade の中で報じる。「私は非常に信頼できる情報源によって個人的に知らされている・・現在、南米に住んでいるPotockiは、彼が関係した限りにおいて、文書の正確性を追認した」。

 

さらに重要なことは、1934年から1945年までロンドンのポーランド大使だったエドヴァルト・ラチンスキは、1963年に In Allied London というタイトルで出版された彼の日記の中で文書の真正性を追認した。1940年6月20日の記載で彼は書いた。

 

――ドイツ人は4月、ワシントンのPotocki、パリのLukasiewicz、そして私自身の報告書からなる、我々の外務省文書局からの文書を含む白書を発行した。文書局は破壊されたと伝えられていたので、私は彼らがどこからそれらを見つけたのかわからない。書類は確かに本物であり、そして複写は、大部分において、ドイツ人が単なるコピーではなく原本を所持していることを示している。

この「第一集」の中の文書から、この大使館からの3つの報告書を私は見つけた、2つは自分が書き、3つ目は私が署名したがBalinskiによって書かれた。私はそれらを幾らか懸念を持って読んだが、私自身や大使館を傷つけそうな、または我々のイギリス人の相手との関係を損ないそうなものは含まれていなかった。――

 

1970年、Diplomat in Paris 1936-1939 が出版されそれらの真正性が再確認された。この重要な作品は、ドイツ政府によって公表された機密外交報告書のいくつかを起草した、元駐仏ポーランド大使、Juliusz Lukasiewiczの公式記録と回想で構成されている。コレクションは、元ポーランド外交官・閣僚、そして最近までウェルズリー大学とリポン大学の名誉教授だったWaclaw Jedrzejewiczが編集した。Jedrzejewicz教授はドイツ人が公表した文書をまったくの本物とみなした。彼はそれらのいくつかから広く引用した。

 

Tyler G. Kent氏もまた文書の真正性について保証している。1939年と1940年にロンドンのアメリカ大使館で働いていた時、ポーランド文書に対応し、それらの正確性を確証する、ファイルの中のアメリカ外交通信のコピーを見たと彼は述べる。

 

Two Key Diplomats

1938-1939年のヨーロッパ危機において特に重要な役割を果たした2人のアメリカ外交官は、ポーランド文書の中で頻繁に言及されている。まず1人目はウィリアム・C・ブリットだった。彼の正式な立場は駐仏アメリカ大使であったが、彼は実際にはそれ以上であった。彼はルーズベルトの”特別な使節”であり、ヨーロッパにおける個人的代理人であった。

 

ルーズベルトのように、ブリットは「金持ちから出世した」。彼はフィラデルフィアの、市内の富豪のひとつ、重要な銀行家の一家に生まれた。彼の母親の祖父、Jonathan Horwitzは、ベルリンからアメリカに来たドイツ国籍のユダヤ人だった。1919年、ブリットはヴェルサイユ平和会議でウィルソン大統領の補佐官であった。同じ年、ウィルソンとイギリス首相のロイド・ジョージは、レーニンと会い、そして新しいボリシェヴィキ政権が連合国の承認を受けるにふさわしいかどうかを決定するため、彼をロシアに送った。ブリットはレーニンやその他のソ連の指導者達と会い、そして彼は帰還して新しい政権の承認を主張した。しかし彼はウィルソンと不仲になり、外交官勤務を去った。1923年彼は、アメリカ共産党の指導者ジョン・リードの未亡人、ルイーズ・ブライアントと結婚した。ヨーロッパでブリットは、ウィルソンの精神分析の伝記でジークムント・フロイトと協力した。ルーズベルトが1933年に大統領に就任したとき、彼はブリットを外交生活に引き戻した。

 

1933年11月、ルーズベルトは最初の駐ソビエト大使としてブリットをモスクワに派遣した。ソビエトのシステムに対する彼の最初の熱意は、スターリン共産主義に対する深い不信に代わった。1936年大統領は彼をパリへと転任させた。彼はチャーチルがイギリスの指導者に就任し、フランスの敗北によって彼の特別な役割が不必要になった1940年まで、ルーズベルトの重要な欧州外交官としてそこに勤めた。1938年の春、欧州のすべてのアメリカ人使節は、国務省の内部指令によってブリットに従属させられた。

 

1939年、欧州の状況が悪化するにつれて、ルーズベルトはパリの彼の部下とたびたび、時には毎日、電話で会話した。そしてアメリカ外交政策をいかに処理するのかについて、頻繁に彼に、几帳面に詳細な極秘の指示を与えた。コーデル・ハル国務長官ですらブリットとルーズベルトの手紙や会話の多くを知らなかった。


ニューヨーク・タイムズは特筆した、フランスでブリット「は、彼が贅沢なパーティーを開くので”シャンパン大使”として絶賛されたが、彼はパリの使節をはるかに超えていた。彼はいつでもルーズベルト大統領に電話でアクセスできる、大統領の欧州問題担当の親密な顧問だった」。ブリットとルーズベルトは互いを好きであり、外交政策の問題について見解が一致した。両者は貴族[貴族政治主義者]であったし、世界を作り直す方法についての具体的な意見、そして彼らはその壮大な再編成をもたらす宿命にあるとの確信を共有した、徹底した国際主義者であった。

 

1939年3月、サタデー・イブニング・ポストは報じた。

 「これらのチームメイトの間には、親密で温かい友情と、強固な気質的な親近感がある。大統領はブリットの判断に大きく頼っていると知られていて、大西洋の向こう側からの電話の雑談中、海外からの手紙や電報による大使の報告が、週に何度か補足されるほどだ。加えて、ホワイトハウスの会議に出席するため、彼のことを殿さま気取りだと思う国務省を不機嫌にさせるため、ブリットは毎年数回アメリカに戻る。

国務省の名簿を全て見ても、大統領は、ブリットほどに、彼自身のシャンパンの性格に良く反応するであろう顧問を見つけることができなかった。両者、両貴族は、社会を再生するための同じ基準の熱意を持つ・・」。

 

欧州では、ブリットはルーズベルト大統領の声と権威で語った。

 

欧州で2番目に重要だったアメリカ外交官はジョセフ・P・ケネディルーズベルトのイギリス王室への特使。ブリットのように彼は裕福な銀行家だった。だが、このアイルランド系のボストンのカトリック教徒は、その他の点でいくつか大きく異なった人物だった。ルーズベルトは純粋に政治的な理由から、重要な民主党の名士で将来の大統領の父親であるケネディをイギリスに派遣した。ルーズベルトケネディを嫌い信用しなかった、そしてケネディは大統領の戦争政策にだんだん強く反対したので、この感情は増大した。そのうえ、パリにいる彼のカウンターパートのことをケネディは軽蔑した。妻宛の手紙の中で、彼はこう書いている。「私は時折ブリットと話をする。彼はかつてないほど低脳だ。彼の判断は哀れなものであり、F.D.Rに対する彼の影響を私は恐れている、なぜなら彼らは多くのことを同じように考えるからだ」。