Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

機密のポーランド文書(その7)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

The Path To War
ポーランド文書単独で、世界大戦をもたらすルーズベルトの反逆のキャンペーンの決定的証拠であるとはいえ、ワルシャワへの公文書に記録された、陰謀を裏付ける、重要な多数の反論できない補足的な証拠が存在することは、後世のために幸運なことだ。

 

秘密の政策は戦後、駐ワシントンのイギリス大使、ロナルド・リンゼイ卿の機密外交報告の公開によって確かめられた。ワシントンでの3年間の勤務の間、ベテランの外交官はアメリカの指導者にほとんど関心を示してこなかった。彼はルーズベルトを愛想がよく影響を受けやすい取るに足らない人物とみなし、そして、あとでアメリカの新聞を読みたい、の他には何もウィリアム・ブリットに述べるべきではない、とイギリス外務省に警告した。

 

1938年9月19日、すなわち、欧州で戦争が起こる1年前、ルーズベルトはリンゼイをホワイトハウスでの他言無用の会談に招いた。リンゼイのロンドンへの機密報告によると、長い非公式会談の冒頭、ルーズベルトは「絶対的な秘密の必要性を強調した。面会したことを誰にも知られてはならず、彼自身、会談を誰にも話さないつもりである。私は外務省ですら集めなかった」。ルーズベルトが会談の重要な論点に達する前に、2人はいくつかの副次的事項について話し合った。「これは彼の情報で他言無用の部分であり、彼が提案を口に出したことさえ誰かに知られてはならない」。大統領は大使に、非公式会談の情報が表沙汰になったら彼の弾劾を意味するかもしれない、と語った。不思議ではない。ルーズベルトが提案したのは、合衆国憲法に違反し、アメリカ国民を騙すための、冷笑的で恥知らずのまったく愚かな悪巧みだった。

 

もしイギリスとフランスが、ドイツに対する戦争を「強いられるとわかったら」、最終的にアメリカも参戦するだろう、と大統領は述べた。しかし、これはいくつかの巧妙な工作を必要とするであろう。イギリスとフランスは、実際に宣戦布告することなく、ドイツに完全な封鎖を課すべきであり、そして他国に(中立国を含めて)それを忠実に守らせる。これはきっと間違いなくドイツの何らかの軍事行動を引き起こすが、イギリスとフランスもまた実際に宣戦布告する必要から免れる。宣伝の目的で「封鎖は高尚な人道主義の根拠に基づかなくてはならず、そして最小限の人的・財産的損失、かつ被害を最小限に抑えて交戦を行いたいと望み、なおかつ敵を屈服させる」。ルーズベルトは、これは空爆が必要であろうと認めたが、「空中からの爆撃は実際のところ多くの人命の犠牲をもたらす交戦の方法ではなかった」。

 

重要な点は、「それを防衛措置または妥当な何らかと称するが、実際の宣戦布告は避ける」ということだった。そうすれば、ルーズベルトは、アメリカ合衆国は宣戦布告がなされていない紛争で今なお理論上は中立であると主張して、イギリスとフランスに武器を輸送することを含めてドイツとの戦争を支援するよう、アメリカ国民を説得できると思っていた。リンゼイは報告した。「封鎖によって戦争を導くこの方法は、彼[ルーズベルト]の意見では、もしその人道主義の目的が強く強調されたなら、アメリカ合衆国の承認を受ける」。

 

アメリカ人の駐イタリア大使、ウィリアム・フィリップスは、ルーズベルト政権は1938年後半、イギリスとフランスの側で参戦することを既に約束していたと、戦後の回顧録で認めた。フィリップスは書いた。「これを機に、そして多くの他の機会に、私は、欧州戦争の場合にはアメリカは間違いなく連合国の側に関与するだろうと、率直に彼[ガレアッツォ・チャーノ、伊外務大臣]に伝えたかった。しかし、私の正式な立場からすれば、ワシントンからの指示なしには当然、そのような発言をすることはできず、そしてそれを私が受け取ったことはなかった」。

 

ダンツィヒ国際連盟高等弁務官、カール・ヤーコプ・ブルクハルトは戦後の回想の中で、ポーランド駐在アメリカ大使アンソニー・ドレクセル・ビドルとの、1938年末の特筆すべき対話を伝えた。ビドルは、モルガン金融王国と親密な関係を持つ豊かな銀行家だった。まったくの国際主義者である彼は、ルーズベルトの思想的な仲間であり、ウィリアム・ブリットの良き友人だった。スイスの教授であるブルクハルトは、1937年から1939年まで高等弁務官を務めた。

 

1938年12月2日、武力紛争の発生9ヵ月前、ビドルはブルクハルトに語った。

――顕著な喜びとともに、ポーランド人はダンツィヒのことで戦争をする用意がある、と。彼らは小回りの利く操縦性でドイツ軍の自動車化された兵力に反撃するだろう。彼[ビドル]は言明した。「4月には新たな危機が起こるだろう。ルシタニア号の雷撃[1915年]以来、今日のようなドイツに対する敬虔な憎しみがアメリカを支配したことはない!チェンバレンとダラディエ[穏健なイギリスとフランスの指導者]は世論に吹き飛ばされるだろう。これは聖戦だ!」。――

 

ポーランドとドイツとの間で戦闘が起こった場合に対ドイツ戦争を始めるという、1939年3月31日のイギリスからポーランドへの運命的な誓約は、ホワイトハウスからの強い圧力なしには成立しなかったであろう。

 

1939年3月14日、スロバキアは自身を独立共和国と宣言し、それによってチェコスロバキアと呼ばれる国を分解させた。同じ日、チェコスロヴァキアのエミール・ハーハ大統領はヒトラーとの正式な合意に調印し、チェコ連邦政府の一部、ボヘミアモラヴィアにドイツの保護領を設立した。イギリス政府は当初この新しい状況を受け入れたが、その後ルーズベルトが介入した。

 

1939年4月14日、全国的かつ多数の新聞に同時掲載されているコラムで、通例、ワシントンの情報に良く通じているジャーナリストのドリュー・ピアソンとロバート・S・アレンは、ルーズベルトは1939年3月16日、これからはドイツに強く反対することを英国政府に要求する「事実上の最後通牒をイギリスのチェンバレンに送った」と報じた。ルーズベルト大統領の処置を完全に支持したピアソンとアレンによると、「ミュンヘンの政策が継続すれば、航空機の販売を通じた道徳的または物質的な支援をイギリスはもはや期待できない、と大統領は警告した」。チェンバレンは屈服し、翌3月17日、ドイツと協調するイギリスの政策は、ヒトラーを激しく非難するバーミンガムでの演説に終わった。2週間後、イギリス政府は、ドイツとポーランド間に交戦が起こった場合、自国の参戦を正式に誓約した。

 

ボヘミアモラヴィアにおけるドイツ保護領の設立に対するブリットの反応は、ルーズベルトに電話を掛けて「ほとんどヒステリックな」声で、ドイツへの劇的な公然の非難をなし、中立法を廃止するよう直ちに議会に求めることを、彼に力説することだった。