Another View of Japan

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機密のポーランド文書(その8)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

1939年4月9日付けのワシントンへの機密電報で、ブリットはパリからLukasiewicz大使との別の会話を報告した。アメリカの法律はポーランドへの直接的な財政援助を禁止しているけれども、条項を迂回することは可能かもしれない、と彼はポーランド使節に伝えた。ルーズベルト政権はイギリスを経由して間接的にポーランドに戦闘機を供給できるかもしれない。「ポーランド大使は、ポーランドがアメリカから財政支援や飛行機を手に入れることはできないだろうかと、私に尋ねた。ジョンソン法がアメリカからポーランドへの貸付を許さないだろうと思う、と私は答えたけれども、イギリスがアメリカで現金で購入してポーランドに引き渡すことは可能かもしれない、と付け加えた」。

 

1939年4月25日、戦争勃発の数か月前、ブリットはアメリカの新聞コラムニスト、カール・ボン・ウィーガンド(International News Service の欧州支局長)をパリのアメリカ大使館に呼び、彼に告げた。「欧州の戦争が決定されたところだ。ポーランドはイギリス・フランスの支援の保証を持ち、ドイツからのいかなる要求にも屈しないだろう。イギリスとフランスが参戦してから間もなく、アメリカは戦争になるだろう」。

 

1939年5月28日のハイド・パーク(注・ロンドンの公園)での長い秘密会談で、ルーズベルトは、チェコスロバキアの元大統領、エドヴァルド・ベネシュ博士に、アメリカは予想される欧州戦争においてイギリスとフランスの側で積極的に介入するだろうことを保証した。

 

1939年6月、ルーズベルトはイギリスに、戦争が起こった場合にドイツ海軍に西大西洋の海域を与えないため、合衆国はその海域に巡視を確立すべきだ、と秘密裏に提案した。この提案についての英国外務省の記録は「提案は曖昧で漠然としており、ある程度の異議を免れなかったけれども、巡視は我々の利益のために運営されなければならないとして我々は非公式に合意した」と付記した。

 

戦後何年も経過してから、1939年にフランスの外務大臣であったジョルジュ・ボネは、彼の国を戦争に駆り立てる中での、ルーズベルト使節としてのブリットの役割を追認した。1971年3月26日付のハミルトン・フィッシュへの手紙で、ボネは書いた。「一つ確実に言えるのは、1939年にブリットは、フランスを戦争に参戦させるため、できることは全てやったということだ」。イギリスを戦争に駆り立てる中でのルーズベルトユダヤ人の重要な役割に関する重要な確証は、初代・合衆国国防長官のジェームズ・V・フォレスタルの日記によってもたらされる。1945年12月27日の記載で彼は書いた。

 

――今日、ジョセフ・ケネディ[元大使]とゴルフをプレーした。私は1938年からの、ルーズベルトとの、そしてネヴィル・チェンバレン[英国首相]との、彼の会話について彼に尋ねた。1938年のチェンバレンの立場は、イギリスには争う価値がないし、ヒトラーと敢えて戦争することはできない、というものだったと彼は言った。ケネディの見解:1939年の夏、もしブリットが、ポーランドに関してドイツ人は屈服させられねばならない、とルーズベルトに力説し続けなければ、それ以降のイギリスとの紛争なしに、ヒトラーはロシアと戦ったであろう。もしワシントンからの絶え間ない刺激がなかったならば、フランスもイギリスもポーランドを戦争の原因にしなかったであろう。ブリットはルーズベルトにドイツ人は戦わないだろうと言い続けた。ケネディは彼らは戦うだろう、そして彼らはヨーロッパを蹂躙するだろうと伝え続けた。チェンバレンは、アメリカと世界のユダヤ人が、イギリスに戦争を余儀なくさせたと述べた、と彼は言う。1939年の夏、彼とルーズベルトの電話会談で、大統領はチェンバレンの尻にアイロンを当てるように彼に言い続けた。――

 

Potocki大使がワシントンでの職を離れてワルシャワに帰国したとき、彼は戦争の危険性が増しつつあることについて、ポーランド外務省の事務次官、Jan Szembek伯爵と話をした。Szembekは、彼の日記の1939年7月6日の記入で、ポーランドの落ち着いた雰囲気を見たPotockiの驚きを記録した。欧米を支配していた戦争精神病に比べると、ポーランドは保養所のように見えた。

 

大使はSzembekに語った。「欧米には、公然と戦争へとせきたてる様々な集団がある。ユダヤ人、巨大な資本家、武器販売業者。彼らは火を点けることができる場所、ダンツィヒ、そして戦う準備ができている国、ポーランド、を見つけたので、今日、彼らは皆、巨大な事業の準備ができている。彼らは我々の背後で商売をしたい。彼らは我々の国の破壊に無関心だ。それどころか、あらゆるものが後で再建されなければならないであろうから、彼らはそれからも利益を得ることができる」。

 

1939年8月24日、交戦が始まるちょうど一週間前、チェンバレンに最も近い顧問、Horace Wilson卿が、英国首相からルーズベルト大統領への差し迫った懇願を携え、ケネディ大使を尋ねた。イギリスが3月、戦争が起こった場合にポーランドに明確に義務を負ったことを後悔し、チェンバレンは今や平和の最後の希望としてルーズベルトに絶望を伝えた。彼は、今さら針路を変えてドイツとの交渉を開くため、アメリカ大統領に 「ポーランド人に圧力をかけ」て欲しかった。ケネディ国務省に電話で、イギリスは「このようなこと、与えられた彼らの義務を、なすことができないと感じた、だが我々ができるだろう、と」。欧州の平和を救うかもしれないこの異常な機会を提示され、ルーズベルトチェンバレンの絶望的な嘆願を即座に拒否した。そのとき首相はすべての希望を失ったと、ケネディは報告した。チェンバレンケネディに言った。「何もかも虚しい、恐ろしいことだ。結局、我々はポーランド人を救うことはできない。我々は、ヨーロッパ全土の破壊を意味する復讐戦争をしかけることができるにすぎない」。

 

ルーズベルトは、アメリカ国民と世界に、平和の人[a man of peace]というイメージを打ち出すことを好んだ。かなりの程度、それは今日でも彼のイメージだ。しかしルーズベルトは、平和のために行動する真の機会が提示されたとき、冷笑的に拒否した。

 

1938年には、チェコとドイツの紛争を調停することを検討する、9月8日と12日のBonnet仏外務大臣からの要請に、回答することさえ彼は拒否した。戦争が起こって1年後、憂鬱なケネディ大使は、平和のため大胆に行動するようルーズベルトに嘆願した。9月11日、ケネディはロンドンから電報を送った。「この状況は、大統領が世界の救助者になることができる地点を具体化するかもしれないように私には思われる。イギリス政府それ自体は、確かにヒトラーとのいかなる合意も受け入れることはできないが、大統領自身が苦心して計画を作り出せば効果があるかもしれない。現在この機会が生まれることは無いかもしれない、しかし私のこれまでの人生で相当に経験に富んだ同僚としての大統領は、世界を救いうる立場に自ら立つことができるということは、完全に想像できると私は信じる・・」。

 

だがルーズベルトは、欧州の平和を救うこの機会を即座に拒否した。彼は、親密な政治的仲間に、ケネディの嘆願を「私が今まで受け取った中で最も愚かなメッセージ」と呼んだ。彼はヘンリー・モーゲンソウに、ロンドン大使は頭痛の種にほかならないと不平を言った。「ジョー(注:ケネディ)は、宥和政策の支持者であり続けたし、いつまでもそうあり続けるだろう・・。もし明日、ドイツとイタリアが和平を提案したなら、ジョーは、王と彼の友人の女王に働きかけ始め、そこから下へと皆に受け入れさせるだろう」。

 

欧州の平和を回復する、または少なくとも勃発した紛争を制限するための、ケネディの強情な努力に腹を立てて、1939年9月11日、”個人的”かつ”極秘の”電報で、アメリカの和平努力はまったく問題外である、とルーズベルトは彼の大使に指示した。ルーズベルト政権は「合衆国大統領によって開始される、いかなる和平行動のための機会も場合も無いと理解する。アメリカ国民は、力と侵略の体制を、固定あるいは残存することを可能にする、いかなる和平行動をもこの政府が開始することを、支持しないであろう」と宣言した。