Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

真珠湾:ルーズベルトの9/11(その1)

 

ジェームス・パーロフ Pearl Harbor: Roosevelt’s 9/11 | James Perloff の翻訳です。

この記事を読んで私はFRUS(合衆国の対外関係)の存在を初めて知ったので思い入れがあります。また記述の一部は拙ブログで過去に紹介しておりますので重複があります。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

 

False flags do not stand alone. They are better understood – and more credibly explained to skeptics – when seen in history’s context.

1941年12月7日の朝、航空母艦から発進した日本の飛行機は、ハワイの真珠湾でアメリカ艦隊を攻撃し、八隻の戦艦を含む十八隻を撃沈または重大な損害を与え、188の飛行機を破壊し、2,000人以上の軍人を殺した。翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、議会でこの「恥辱の日」を通告し、熱烈な宣戦布告を獲得した。


しかしながらその時まで、第二次世界大戦への関与にアメリカ国民は圧倒的に反対していた。彼らは第一次世界大戦に全く幻滅していた。

・先の戦争において、彼らは「民主主義」のために戦うことになるだろうと言われ続けたけれども、戦後のグラハム議会委員会によって、今なお製造・納品されていない60億ドルの武器により納税者は横領されたと知った。
・ドイツの兵士についての残虐行為の物語(何千人ものベルギーの子供たちの手を切断するなど)は、捏造であると判明した。
・最終的にアメリカの宣戦布告へと繋がった、主要な憤りの原因であったドイツによるルシタニア号の撃沈は、女子供を殺害するためではなく、数十トンの軍需品がヨーロッパの前線に到着することを防ぐためであった。


メイン号が沈没したときには、テディ・ルーズベルト[セオドア・ルーズベルト]が海軍長官の積極的な秘書官であった。1898年の米西戦争の後に彼はニューヨーク州の知事となり、1901年までにはアメリカ大統領となった。

 

まさに一致して・・ルシタニア号事件の際の英国海軍本部の長は、フランクリン・デラノの遠縁、ウィンストン・チャーチルであった。さらにぞっとする既視感・・真珠湾が近づいたとき、彼ら二人はその時、それぞれの国の長であった。

 

1940年(選挙の年)の演説で、例によってルーズベルトは述べた。「私はこれまでも述べてきたように、そしてこれから何度でも繰り返すが、あなた方の子供たちは外国の地での戦争に送り込まれることは決してない」。けれども大統領はひそかに、まさしく正反対に計画した。第一次世界大戦ウッドロウ・ウィルソンがおこなったように、イギリスの同盟国としてアメリカを世界大戦に参戦させること。1941年1月ルーズベルトは、チャーチルと面会させるため、側近のハリー・ホプキンスを派遣した。ホプキンスはチャーチルにこう語った。「我々[米英]が共に戦争に勝利すると大統領は決意している。間違いなく。大統領は、あらゆる代償と手段によってあなたを通過させるであろうことを、あなたに伝えるために私をここに派遣した。大統領に何が起ころうとも・・人間の力を持っている限り、大統領は何でも実行するであろう」。イギリスの諜報機関をアメリカで運営していたウィリアム・スティーブンソンは、アメリカとイギリスの軍事関係者の対談が「極秘で」同月に始まったと書き留め、彼はそれを「アメリカ国民への公表を差し止める」ことと明確にした。

 

大統領はドイツに数多くの挑発を加えようとした。資産の凍結。アイスランドの占領。駆逐艦50隻のイギリスへの発送。さらに同盟国の護衛艦をアメリカの軍艦が護衛していた。ルーズベルトチャーチルは、ルシタニア号事件の成功の再現を望んだ。だがドイツは彼らに全く応じなかった。ドイツは、アメリカの第一次世界大戦への参入が、彼らに対する力のバランスを変えたことをわかっており、そのシナリオの繰り返しを避けた。

 

ドイツのUボート艦隊の指揮官、カール・デーニッツ元帥がニュルンベルク裁判で述べたように。「国際法がたった3マイルを必要としたとき、ドイツはアメリカに300マイルのセーフティ・ゾーンを認めていた。私はハリファックス[カナダの都市]とアイスランド周辺の鉱山を提案したけれども、総統はアメリカとの紛争を避けたいと思っていたので、これを拒絶した。1941年の夏、アメリカの駆逐艦がドイツの潜水艦を攻撃するように命じられたとき、私は反撃を禁じられた。斯くて私は、なんらかの間違いがあるかもしれないとの恐れから、イギリスの駆逐艦を攻撃しないように強いられた。」

 

ドイツ潜水艦U-652は、アメリカ駆逐艦グリーアによって三時間以上追跡された後、グリーアに発砲した(だが命中しなかった)。ルーズベルト大統領はこれをいわれのない攻撃としてアメリカ国民に嘆いた。だが大部分のアメリカ人は動かされなかった。別個のルシタニア事件であっても、息子たちを死なせるため、もうひとつの欧州戦争へと送るように彼らを動機づけなかったであろう。

 

ルシタニア号の一群が利用されることになっていた、そしてこれは慎重なドイツからは生じないであろうから、ドイツの枢軸パートナー、日本だけから生じる可能性があった。ハロルド・イッキーズ内務長官が1941年に言ったように。「長い間、日本を経由することが、我々が参戦する最善になるであろうと思っていた」。これは三つの段階が必要だった。(1)アメリカに反日感情を築くこと。(2)日本に戦争を発火させる。(3)偽旗作戦に役立つ魅力的な目標を設定する。

 

Demonizing Japan
日本はモンタナ州よりも小さいにも関わらず、「世界征服」を決意したと日本を描いた絶え間なく続く宣伝を、アメリカ国民は受けた。戦時期の政府制作映画 "Our Enemy: The Japanese"。語り手のジョセフ・グルー(外交問題評議会)は、「全世界を支配することが天皇の権利であり運命である・・その実現の妨げになるすべての国と民を滅ぼすこと・・[彼らの]国家的な夢は、東京が世界の首都として確立されること・・世界征服は彼らの国家的な執念である」と日本人は信じていると、アメリカ国民に語った。

 

ペリー提督がアメリカ海軍の砲撃の脅威の下に貿易協定の署名を強いるまで、日本が閉じられた孤立主義の国家であったことに言及することをグルーは無視した。ペリーは、19世紀のアメリカで、ロスチャイルドの主要な金融代理人であったオーガストベルモントの義父であった。


アメリカの報道機関は、「世界を征服しようとする日本の計画」の証拠として、1930年の日本軍の満州入りを強調した。しかしソビエトが最初に外モンゴルと中国北西部の新疆を奪取したという事実には全く注目しなかった。

 

ダラス大学の歴史学科の学科長、アンソニー・クーベック博士は "How the Far East Was Lost" に書いている。「満州内モンゴルに防衛基地が建設されなければ、北支全域に共産主義が広まり日本の安全保障を深刻に脅かすことは、日本の政治家には明らかであった。だが国務省は北支へのソ連の拡大に対する防壁として日本を考慮していないようであった。実際、新疆と外モンゴルが併合されたにもかかわらず、国務省からソ連への抗議はひとこともなかった一方、中国に軍隊を駐留させたために日本は非難された」。

 

クーベック博士の批評は、第二次世界大戦を通じて首尾一貫した政策を強調している。「ファシスト侵略」を強く非難する一方で、共産主義の侵略を・・制限なしに・・大目に見る。例えばドイツが1939年9月にポーランドを侵略したとき、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。だがソ連が同じ月にポーランドを侵略したとき、西側は・・あくびをした。

 

 日本は中国に侵入して共産主義に抵抗する権利がないと主張する者は、共産主義を止めることが国益であるとの原則に基づき、アメリカが世界各地に、ベトナムに、軍隊を送ったことを思いだそう。あの時、日本がすぐ近くで共産主義に抵抗することができなかったとすれば、どのような理屈によってであろうか?共産主義が日本にどれほど近づいていたのか地図を一瞥すると、あらゆる国を手順よく隷属させソ連を体現し、今や中国へと南向きに掘削していた。満州と中国に軍隊を送るにあたり、日本は自身の解釈のモンロー主義を実施していた。

 

ソビエトとしては、日本が中立化すれば共産主義がアジアを圧倒するとわかっており、日米間の戦争を望んでいた。1935年、モスクワのウィリアム・ブリット大使はコーデル・ハル国務長官に発信した。

「・・アメリカが日本との戦争に関与するようになることが、ソビエト政府の心からの希望である・・ソビエト連邦は、日本が徹底的に敗北するまで、間違いなく同盟国になることを避けようとするだろうし、そしてその後、単に満州を獲得し、中国を共産化する機会を利用するだけであろう」。

 

アメリカ共産党の創立メンバー、ベンジャミン・ギトロウは1940年 "I Confess" に書いた。
「私がモスクワにいた1927年、戦争に関して合衆国に対する姿勢について議論が行われた。個人的に、私が対話したソビエトの指導者はみな、米国と日本は実際に戦争に突入しなければならないと考えていた」。