Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

真珠湾:ルーズベルトの9/11(その4)

 

ジェームス・パーロフ Pearl Harbor: Roosevelt’s 9/11 | James Perloff の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Maximizing the Risks
MSM historians [主流の歴史家?] は伝統的に、ハワイの司令官であったキンメル提督とショート将軍を、航空母艦の接近を探知し損ねたと非難してきた。ワシントンがそうする手段を彼らに与えなかったことは語られていない。

 

12月7日までの一週間、海軍の航空機は太平洋を200万平方マイル以上、探索したけれども、日本軍を見かけなかった。これは、中心角が120度よりも少ない円弧を調査できるだけの航空機しかキンメルとショートは保有しておらず、そして情報局が南西に集中すべきであると(誤って)助言したためである。

 

十分な訓練を受けた監視パイロットはいなかった。多くの偵察機は予備部品が不足していた。ワシントンに繰り返された、哨戒機の追加の要求は却下された。George Morgenstern が "Pearl Harbor: The Story of the Secret War" に書いたように。「基地を防衛するためハワイの空軍司令官がやかましく飛行機を要求している間、1941年2月1日から12月1日までに1,900個の哨戒機が外国に武器貸与されていた。そのうち、オアフ島に安全を与えるであろう機数のほぼ10倍、1750機がイギリスに渡った」。

 

真珠湾に勤務した Edward T. Layton 少将は述べた。「現地の司令部が受け取った情報には、ハワイに対する日本の脅威についての示唆はまったくなかった。陸軍長官自身によって我が防空手段は取り除かれた。島にあった12機のB-17のうち6機しか飛ぶことができず、他は予備部品に流用しなければならなかった」。

 

レーダーも不十分であった。ウォルター・ショート将軍がハレアカラ山にレーダー基地を建設しようとしたとき、ハロルド・イッキーズの内務省は景観の美しさに悪影響を及ぼすと述べて許可を与えなかった。

 

Advance Damage Control: the “War Warning”
ひとたび災害が真珠湾を襲ったときには、当然、説明が求められるであろうことが明らかであった。ワシントンは11月27日、キンメル、同様にショートにも、曖昧な「敵の戦争意図の警告」を送って巧妙に考慮したようだ。長年これは、ワシントンの擁護者によって、指揮官は日本に対し準備しておくべきであったとの主張に利用されてきた。

 

確かにメッセージは明確な書き出しで始まっている。「この至急電は敵の戦争意図の警告とみなされるべきである」。しかしながらメッセージは続けて述べる。「日本軍の人員や装備、海軍機動部隊の構成は、フィリピンやタイ、またはマレー半島・・もしくはボルネオの可能性もある・・に対する陸海軍共同の出兵を暗に示す」。これらの地域はいずれもハワイから5,000マイル以上離れていた(それはニューヨークからモスクワまでの距離よりも離れている)。真珠湾への脅威についての示唆はなかった。メッセージは「北米地域、グアム、サモアは、破壊活動への対策を講じている」という言葉で締めくくられた。さらには「市民を不安にさせないように[警報を]繰り返さない対策を講じなければならない」と書かれていた。両司令官は採った措置をワシントンに報告した。ショートは破壊活動の対策をやり通し、航空機を一ヶ所に集めた(これは破壊活動を妨げるが、爆撃機の絶好の標的を作りだす)。キンメルは対空監視と潜水艦による探索を増強した。もし「戦争意図の警告」に対する彼らの対応が不十分だったというのであれば、ワシントンは何も言わなかった。翌日、マーシャルの副参謀から再確認メッセージがショートに通告されただけである。「あなたの人員をプロパガンダから保護し、あらゆる活動をスパイから保護し、施設・財産・設備を破壊活動から保護するため、必要なあらゆる追加措置を直ちに開始せよ」。

 

 

12月1日、海軍情報局は、「日本海軍の状況」と題する隔週の情報要約書をキンメルに送った。それには「主力艦兵力の大部分、同様に主要な空母群は、本国の海域に残存する」と書かれていた。それをオランダのワシントン海軍武官である Johann Ranneft 海軍大佐の日記と比較してみる・・彼はアメリカへの功績によってレジオン・オブ・メリット[勲章]を授与された。Ranneftは12月2日、海軍情報局(ONI)を訪問したと記録した。Ranneft は太平洋について尋ねた。アメリカ将校は壁の地図を指差しながら「これが東方に進んでいる日本の機動部隊だ」と述べた。日本とハワイの中間地点だった。12月6日、Ranneft は [ONIに] 戻って日本の機動部隊の位置を尋ねた。真珠湾の北西、約300~400マイルの地図上の地点を彼は示された。Ranneft は書いた。「これら機動部隊の所在地は何を意味しているのかと私は尋ねた。おそらく最終的なアメリカの行動についての日本の報告と関連している、との回答を間を置かずに得た。ここO.N.I.の皆と同じように、ホノルルの全員が100%の警戒態勢だと思うので、私自身、そのことについて考えない」。

 

Strange Activity on December 7
七日・日曜日の朝、日本政府からの長いメッセージ(交渉の決裂、事実上の宣戦布告)の最後の部分が傍受され解読された。東京は使節に特別な指示を二つ付加した。「極めて重要」と指令されたひとつめは、声明書を午後一時に届けることであった。ふたつめは、最後の暗号のコピーと、それに付随した機械の破壊命令であった。この重大さは海軍省では失われなかった。日本は交渉の打ち切りと同時に攻撃をする長い歴史を持っていた(例えば1904-5年の日露戦争では、日本は宣戦布告をロシアに通知した同じ日、旅順を攻撃した)。日曜日は外交メッセージを伝えるのに特異であったけれども、少ない警戒のアメリカ軍を急襲しようと試みるには最善であった。そしてワシントンの午後一時はハワイの夜明けの直後であった。

 

海軍作戦部長のハロルド・スタークは午前9時25分にオフィスに到着した。彼はメッセージや重要な引き渡しの時間を示された。一人の下級士官がハワイへの攻撃の可能性を指摘し、もう一人はキンメルへと通知するように促した。だがスタークは拒否した。彼は午前中に何もしなかった。数年後、彼は、「より高い権威」によってすべての行動が指示されていたので真珠湾に関する彼の良心ははっきりしていたと記者団に述べた。スタークは海軍作戦部長であるから、より高い権威がただ一つあった・・ルーズベルト

 

陸軍省もこの声明を解読していた。陸軍諜報部の極東部長であるルーファス・S・ブラットン大佐はメッセージの恐ろしい意味を理解した。だが諜報部のトップはマーシャル将軍が到着するまで何もできないと彼に告げた。ブラットンは自宅でマーシャルに連絡しようとしたけれども、将軍は乗馬で外出していると繰り返し言われた。乗馬はとても長くなることが分かった。とうとうブラットンが電話でマーシャルに連絡し緊急事態を説明したとき、マーシャルは陸軍省へ向かうと述べた。マーシャルは10分の運転を75分かけた。彼は午前11時25分まで事務所に来なかった・・戦争の危機に瀕している国で極めて遅い時間である。彼は日本のメッセージを熟読し、引き渡しの時間を示された。マーシャルのオフィスのすべての士官は、東部標準時の午後1時頃、太平洋での攻撃が行われることをそれらは示すと同意した。ハワイに警告すべきであると将軍は最終的に合意したけれども時間が尽きていた。

 

マーシャルは、太平洋横断航路にある真珠湾に連絡するため、机上の電話の受話器を取りさえすればよかった。そうすることで攻撃を避けることはできなかったであろうが、少なくとも我が男たちは戦闘基地にいたであろう。その代わり将軍は報告書を書いた・・それには「優先」や「緊急」の印すらなかった。報告書は暗号化されたのち、ウエスタンユニオン[通信事業社]のワシントン局へと行き、そこからサンフランシスコに中継された。サンフランシスコからRCAの商用ラジオを介してホノルルに送信された。ショート将軍は攻撃の6時間後にそれを受け取った。2時間後、キンメルに届いた。それを読んでいる彼らの怒りを想像することができる。

 

先の数か月にわたってマジックやその他の情報源から得られたあらゆる証拠にもかかわらず、マーシャルはハワイに警告しなかった。機密扱いの証拠に無知な歴史家達にとっては、将軍は真珠湾を救おうとしたけれども「残念ながら遅すぎた」ように見えるであろう。同様にルーズベルトは土壇場に平和の嘆願を裕仁天皇へと送った。それは一週間前に書かれたけれども、ルーズベルトは12月6日の夜まで送らなかった。それは、12月8日以前に天皇との謁見を受けることができない、グルー大使によって届けられることになっていた。斯くてメッセージは攻撃に先んずることができなかったと考えられる。けれどもルーズベルトもまた「残念ながら遅すぎた」と後世は考えるのかもしれない。

 

時間内に真珠湾へと警告することを妨げたと伝えられるマーシャルの悪名高い「乗馬」について。アーサー・アップハム・ポープによる、ソビエトの駐アメリカ大使、マキシム・リトビノフについての1943年に出版された伝記で、その紛らわす物語は意図せず吹き飛ばされた。リトビノフは1941年12月7日の朝、ワシントンに到着した・・ソビエトへの追加援助を求めるのに極めて好都合な日であった。そしてポープによると、その朝、リトビノフはマーシャル将軍と空港で面会した。