真珠湾:ルーズベルトの9/11(その5)

 

ジェームス・パーロフ Pearl Harbor: Roosevelt’s 9/11 | James Perloff の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

The Coverup
真珠湾の秘密は首尾よく犯行前に保存されていたけれども、その後はどうなるのか?自由に意見を述べる何名かの議会議員を含め、全米の国民の多数は、なぜアメリカが不意を突かれたのかと詰問した。

 

ルーズベルト大統領は調査委員会を設けると述べた。イギリスの国際主義者を支持し、FDRと親しい、最高裁判事オーウェン・ロバーツが委員長に選ばれた。委員もまた任命された。ジョージ・マーシャル将軍の30年来の親友、フランク・マッコイ少将。かつてマーシャルのスタッフであり、マーシャルの推薦で選ばれたジョゼフ・マクナーニー准将。FDRがレンド・リースで任務を与えた、退役した海軍少将のジョゼフ・リーヴス。かつての艦隊司令官、ウィリアム・スタンドリー提督。最後の者だけが、ワシントンの連中との明白な交友を持たないようであった。

 

委員会はワシントンでの聴取をわずか2~3日おこなっただけであった。遅れて到着したスタンドリー提督は、質問の親しげな雰囲気に驚かされた。ハロルド・スターク提督とマーシャル将軍は、難しい・やっかいな質問をされなかった。そのうえ、すべての証言は宣誓されず、記録されなかった・・スタンドリーに説得され、この不備は正された。

 

その後、委員会はハワイに飛び、19日間とどまった。キンメル提督が召喚されたとき、彼は、弁護士の役割を務める仲間の士官を連れてきた。ロバーツ判事は、調査は裁判ではなく提督は被告ではない、との理由でこれを認めなかった。キンメルとウォルター・ショート将軍は正式な「裁判」にかけられていなかったので、彼らは伝統的な被告人の権利をも否定された・・証人への質問や反対尋問。キンメルは、訴訟手続きの速記者(一人は十代であり、他の者は裁判の経験がほとんどなかった)が彼の証言の多くを省略し、残りの部分に酷く手を加えたことにも衝撃を受けた。委員会の報告書の端に脚注を追加することを除いて、誤りを修正する許しは得られなかった。

 

ロバーツ委員会はハワイの司令官に真珠湾のすべての責任を負わせた・・司令官は11月27日の警告の趣旨を過小評価し、十分な防衛・監視活動を行わず、「職務怠慢」の罪を犯した、と。他方でスタークとマーシャルは模範的な方法で職務を果たしたと報告書は言う。驚くべきことに報告書には、本書は校正と承認のため、スタークとマーシャルに最初に提出された、と書かれている。スタンドリー提督は調査結果に異議を唱えたけれども、そのような行為は指導者に対する国民の信頼を低下せしめ、戦争努力を危険に晒すかもしれないと告げられ、少数意見を書かなかった。スタンドリーは後に、ロバーツの調査処理を「ヘビのように曲がっていた」と評した。太平洋艦隊司令官・キンメルの前任者であったリチャードソン提督は「報告書は、政府印刷局が今までに印刷した文書の中で、最も不当で不公平、見かけと異なった不誠実な文書である」と述べた。

 

ロバーツは報告書の校正刷をFDRに提出した。大統領はそれを読み、嬉しがってそれを秘書にぽいと投げて言った。「日曜版に掲載できるように全文を新聞社に渡しなさい」。全国で「職務怠慢」という言葉が見出しで強調された。アメリカの憤慨はキンメルとショートに降りかかった。奴らは裏切りものだ、銃殺されるべきだ!二人には嫌がらせの手紙や殺害の脅迫が殺到した。報道は、その悪役を製造する永遠の能力でもって、委員会の非難を誇張した。指揮官の妻たちも悪意のある流言に晒された。

 

軍法会議を求める大衆の抗議があった。それは二人の士官がまさしく求めたものであった。オーウェン・ロバーツの個人的な手法の代わりに、確立された証拠のルールを用いて、誠実な法廷で真珠湾の問題を解明する。もちろんルーズベルト政権はそれを望まなかった。正当な法廷では、鋭い被告側弁護人がワシントンの秘密を掘り下げて調査し始めるかもしれない。そうして、戦争努力のための安全保障上の懸念を再び呼び起こすことにより、その問題は回避された。軍法会議は開かれるけれども「公共の利益や安全が許すまで」延期する、と発表された。

 

十分な延期はそのような場合における時の経過に適用される三年の出訴期限を引き起こすであろう。だがそれはキンメルとショートが最も望まないことであった。軍法会議は彼らに罪がないことを示す唯一の手段であった。したがって彼らは自発的に出訴期限を放棄した。

 

Their Day in Court
1944年までに連合国は戦争に明らかに勝利しており、軍法会議に対する障害として、国家の安全が押し寄せることはもはやなかった。合同議会の決議は審理を命じた。ハワイの元指揮官は、ようやく裁判所に出廷する日の目を見た。

 

八月、海軍査問会議が開かれた。提督から遠ざけられた、1941年に傍受されたマジック情報の真相について、海軍省の情報源はキンメルと彼の弁護士に密告していた。元海軍の船長であった弁護士の一人がどうにか海軍省のファイルを入手し、多くの存在を証明した。それらの公開を得ることは別の問題だった。幾多の妨害が現れた・・キンメルが策略を試みるまで。法廷から歩いて退出しながらキンメルは、彼らは重要な証拠が保留されていたと報道陣に述べざるをえないだろう、と弁護士を怒鳴りつけた。

 

翌日までに要請された傍受が届けられた・・全部で43。法廷の提督達は戦慄し、信じ難い様子でそれらの読みあげを聴いた。二人の提督が鉛筆を投げるようにして置いた。これらのメッセージが保留されてきたため、真珠湾で二千人以上が死んだ。海軍省の将校達がさらなる証言をした。三か月近く経過して調査は終了した。ロバーツ委員会の評決は覆された。キンメル提督はすべての罪を免れた。攻撃が起こった朝、部下らのハワイに通知する嘆願を拒否したスターク提督は、激しく非難された。

 

傍受の情報がリークされると同時に陸軍パ—ルハ—バ—委員会が召集された。委員会は陸軍省のファイルからマジックのコピーを確保した。委員会の結論は依然としてショート将軍への穏やかな批判を表明したけれども、マーシャル将軍と戦争計画部長のジェロー将軍に圧倒的な罪を見い出した。報告書は率直に結論づけた。「1941年12月7日の朝までに、日本人が行なおうと計画していたことはすべてアメリカに知られていた」。それらの議事録では、権限を超えるものとして、大統領に関する直接的な批判が禁じられている。だがFDRは真珠湾への最終的な責任を負い、FDRが受け取った警告(そのいくつかは後になってから露見した)は、彼らが想像したかもしれないものをはるかに超えていた。

 

評決はルーズベルト政権に狼狽をもたらした。だが解決策は迅速に仕組まれた。国家安全保障という利益において、調査結果は戦争終結まで公開されないであろうと発表された。(これは「新たな」検討を行う時間をワシントンに与えるであろう)。海軍査問会議がその結論に「秘密」の印を押しているので公表できることは何もない、とノックス海軍長官は報道陣に答えた。法廷で議長を務めたオリン・マーフィン提督は唖然として長官に抗議した。日本の外交暗号の解読が公知されていないことは事実であるが、法廷は判決の一部を秘密にしているだけである、と指摘した。キンメルの弁護士である Charles Rugg は、認められた「無罪の」評決を、提督はいかにして機密扱いであると思ったのかを知らせるよう、ノックスに電報を打った。それにもかかわらず報告書は差し止められた。

 

Damage Control
ワシントンはそのとき、法廷の審理を補足する追加調査を行うと説明した。ヘンリー・スティムソン陸軍省の調査を実施するため、陸軍委員会の調査結果に同意しないと知られていた、ヘンリー・クラウゼン陸軍少佐(のちに中佐)を選んだ。海軍長官はケント・ヒューイット提督を任命した。けれどもヒューイットの役割は、ほとんど名ばかりであった。事業の大部分は John F. Sonnett 海軍少佐によって行われた。

 

先例のない事業であった。陸軍少佐は将軍らが言い渡した評決を調査し(そして覆す)つもりであった。海軍少佐は司令官の評決に挑戦するつもりであった。

 

ゲームのルールはロバーツ委員会のルールを思い起こさせるものであった。キンメルと彼の弁護士はヒューイット調査への参加を拒絶された。ヒューイット調査は次の指令に基づき活動した。「あなたが聴取する証言は、かつて聴取された証言とその点において同じ状態になるように宣誓の下で聴取すべき場合を除き、非公式な方法で、かつ、法的あるいは正式な要件を考慮せずに取り調べを行うものとする」。

 

驚くほどのことではないが、ワシントンに反して証言した証人達は、そのとき態度を翻した。ルーファス・ブラットン大佐は、1941年12月6日に、日本の終局のメッセージのうち最初の13部を、戦争計画部長ジェロー将軍と、マーシャルの秘書を介してマーシャル将軍とに渡した、と陸軍パ—ルハ—バ—委員会に伝えた。そのときドイツでは、ブラットンはクラウゼンにアウトバーンで車を止められ、クラウゼンはマーシャルの秘書とジェローからの、これまでに配達が行われたことを否定する供述書を手渡した。陸軍の最高レベルからの否定に直面し、ブラットンは撤回して新しい宣誓供述書に署名した。

 

他の将校達の記憶も同様に「リフレッシュ」して「風」メッセージを見たことの陳述を撤回した。今やメッセージが存在しなかったのようだった。これらの個人はジレンマに直面した。彼らはキャリア軍人だった。彼らは、真実を語ることは陸軍参謀総長と戦うことを意味し、昇進の望みはすべてついえるとわかっていた。


けれども一人の男は屈しなかった。ローレンス・サフォード大佐、海軍暗号法の父。サフォードは多年にわたって海軍情報局の支局を監督してきた。我が軍で最も進歩しており利用されているものを含め、およそ二十の暗号装置を彼自ら発明した。仕事の結果、彼はついにレジオン・オブ・メリットを授与された。

 

海軍査問会議の面前で「風」メッセージを見たと証言したサフォードに、Sonnett 海軍少佐が立ちはだかった。サフォードはこの面会について書いた。「彼の目的は、ワシントンの誰にも不都合だった(先の調査の前の)証言を論駁し、"敵意のある"証人たちを騙して彼らの言い分を変えさせることであると思われた・・」。出くわした直後に書かれたメモに、サフォードは Sonnett の口頭での誘いをいくつか記録した。「今までに風を実行する(メッセージ)があったというのは非常に疑わしい」。「証言を変えることはあなたの誠実さを傷つけない」。「このような長い期間を経た後に、あなたの記憶を欺くことはあなたの精神を貶めない」。大がかりな隠蔽が進行中であることにサフォードは気付いたけれども、驚かなかった。その他の重要な真珠湾メモとともに、海軍のファイルにある「風」メッセージの全てのコピーが破棄されたことに彼はすでに気付いていた。実に真珠湾の4日後、海軍通信部長のリー・ノイズ少将は部下に告げた。「メモや文書はなんでも全て破棄する」。これは違法な命令だった。海軍のメモはアメリカ国民に属し、議会の権限を除き、破棄することはできない。類似した情報追放の話が陸軍省内を巡回した。とはいえ一部のファイルは破棄を免れた。

 

クラウゼンとヒューイットの調査はワシントンを満足させた。新たなこじつけを授けられ、当局は陸軍と海軍の調査結果の大幅な改訂版を作成した。1945年8月29日、陸海軍、二者の発表が行われた。アメリカ軍が日本に到着したまさにその日・・喜んでいる国民が真珠湾の起源を気にしそうになかったとき。陸軍長官の報告書はショートに戻って非難をかぶせた一方、マーシャル将軍は「この問題を通じて、彼はいつもの偉大な技能、活力、能率で行動したと信じている」と述べた。それは、陸軍委員会がマーシャルを批判したことを認めたけれども、まったく根拠がないと書かれた。海軍長官の声明は再びキンメルに罪を帰したと同時に、ワシントンは彼に情報を伝え続けることを怠っていなかったと主張した。スターク提督には「高位の判断」を必要とする将来の地位を与えるべきでない、と認めた。

 

その結果、アメリカ国民は最初の調査が何を判決したのかを聞けなかった。もちろん、真珠湾に関連する公聴会の公式記録を政府が公表したとき、自ら解明したいと望んでいる者は誰でもそうすることができた・・もし彼が40巻を読み通すことを気にしなかったならば。