満州事変の背景(その2・完結)

 

チャールズ・C・タンシル著 Back door to war; the Roosevelt foreign policy, 1933-1941. p.93-97の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

なお本書の全訳が『裏口からの参戦 : ルーズベルト外交の正体1933-1941』(渡辺惣樹 訳)のタイトルで8月23日に出版されるそうです。

 

 

(4) ANTI-JAPANESE EDUCATIONAL PROGRAMS IN CHINA
日本政府は、中国国民政府が吹き込んだ反日教育計画に深く悩まされた。計画は両国間の苦味を増大するのみならず、結局戦争を招くだろう。この敵対計画が満州で精力的に押し進められたことに格別いらいらしていた。上海の小学校では生徒は次の方法で教え込まれた。(a)作文:子供達は反日のエッセイや詩を書く必要がある。(b)書道:子供達は反日スローガンを複写することを求められる。(c)作画:日本人が済南で犯した残虐行為の悲劇的な場面を表す絵を子供達は描かなければならない。


宣伝(プロパガンダ)に関連して次の訓令が命じられた。(a)教師と生徒は、野外演説を行うため、5名単位の抗日愛国宣伝団体を組織するものとする。(b)大衆は、日本を、生涯の、かつ最大の敵であると考えるように教えられるべきである。(c)大衆は、国家の恥をそそぎ、国を救うために働くと誓うよう、求められるものとする。

 

1930年から40年の間、この反日プログラムは猛烈に押し進められ、日本の政治家は日中関係改善のための要求リストのうち極めて重要な項目を一つ保留した。リストを受領した中国は、それをほとんど考慮しなかった。

 

 

(5) THE LEGALITY OF THE TREATIES OF MAY 25, 1915
1915年5月25日に調印された条約を適法なものとして受け入れることを中国国民政府が拒絶したことは、1931年9月18日の戦争の勃発[満州事変/柳条湖事件]を最終的にもたらした深い苦味の根本的原因であった。21カ条の要求に由来するこれらの条約は、満州における日本の利益に確固たる根拠を与えた。南京[国民政府]は、袁世凱政権が強要されて署名したものであるから無効であると主張した。東京は合法性を主張し、ヴェルサイユは命令された条約であるとするドイツの憎しみは過酷な条文を無効にしなかったと、説得力を持って主張した。


日本にとっては、防衛の砦として、経済構造の要石として、満州が不可欠であることが明らかであった。米国にとってのカリブ海地域と同様に、北支が日本にとって重要であることを、国務省が認識することを日本の政治家は望んでいた。アメリカ政府はアメリカの欲求に反応する政府を樹立する目的でハイチとドミニカ共和国に軍隊を送った。この武装介入はごく最近であり、とても効果的だったので、北京のアメリカ代理公使は意義深い注釈で締めくくられた特電をケロッグ国務長官に送付した。「我々が、重要な地域、カリブ海で執り行った施策という観点から、倫理的に、満州における日本の計画に反対することはできない」。


1931年、日本は、奉天と南京の愛国主義者達によって窮地に追い込まれつつあると感じた。1915年の条約を反故にするため、協力した企てが行われていた。それらの条約は満州における日本の莫大な利益を守る上で不可欠であり、日本はそれをあきらめるよりも戦うであろう。どれほど衝突が切迫していたか、日本は気付かなかった。


1930年には日本の輸出貿易の大きな割合(17.7%)が中国に向かったので、この貿易の妨害は日本帝国の国家経済に深刻な影響を及ぼすであろう。1923年、1925年、1927年、1928年、日本に対する不買運動が宣言され、1931年夏の終わりの満州事変の後にも不買運動が開始された。これら不買運動の背後にあった組織勢力は、あらかた、反日宣伝を有効に活用した国民党であった。リットン報告書によると、日本との貿易が禁じられた時期に、多数の「違法行為」が中国人によって行われた。国民党と中国政府は大部分が同一であるため、日本は帝国に及んだ経済的圧力について、蒋介石とその顧問が実際に責任を負っていると主張した。


不買運動に関する証拠を検討する中で、リットン調査団は「日本商品の購入や、日本の銀行・船舶の利用、日本企業で働くこと、を個々の中国人が拒否する権利」を否定しなかったけれども、これらの経済兵器の使用が「友好関係と一致する」かどうか疑問を示した。日本に対する中国の経済的報復が両国間の不和を拡大するのに役立ったことは確かである。

 


(6) THE MURDER OF CAPTAIN NAKAMURA

敵対的な雰囲気が進展した1931年の夏は、火花が飛べば爆発が起こる状況であった。1931年6月27日の中村大尉の殺人によってこの火花がもたらされた。大尉は3人の通訳と助手を伴い、1931年の夏の間、軍事任務を負って満州に派遣された。中国当局にパスポートを検査されたハルビンで、彼は農業の専門家であると詐称した。東清鉄道でいくらか先に進んだ後、彼は Reclamation Army [開拓軍?] 第三連隊司令官、関玉衝の配下の中国兵に抑留された。6月27日、彼と仲間達は中国兵に撃たれ、その身体は行為の証拠を隠すために火葬された。

 

日本は主張した。
中村大尉とその仲間を殺したことは正当化されず、日本軍と日本国に傲慢な無礼を示した。満州中国当局は状況の公式調査の開始を遅らせ、事件の責任を引き受けることに消極的であり、事件の事実を確かめるためにあらゆる努力をしていると主張し、不誠実であった。

 

「事件の事実を確かめ」ようとする時に長い遅れが生じたことは確かであり、「日本人の忍耐に酷く負担をかけた」ことに疑いは無い。この中村事件は「他のどんな事件よりも、日本人の憤慨と、満州に関する未解決の日中間の困難について解決をもたらす力ずくの手段を支持する扇動を大幅に悪化させた」ことも事実である。

 

リットン調査団は中国の状況を研究していたけれども、共産勢力の増大の懸念を書き留めた。1930年、国民政府の軍隊は共産主義勢力に対する作戦に失敗し、そして翌年、満州事変が発生した時には、蒋介石共産主義者を追い払っているところで、共産主義者福建省方面に全面撤退すると報じられた。けれども彼らは機転がきき上手く逃げる相手だった。1931年の秋、彼らが攻勢を再開して間もなく「福建省江西省の大部分、そして Kwantung [広東省?]の一部は完全にソビエト化された」と報じられた。


この赤潮が中国の大部分を飲み込みかねない危険性を、日本は十分に認識していた。1932年、リットン調査団に提出した文書は、この共産主義の脅威と、中国国民政府がそれを制御できないことの明白さに重点が置かれた。日本の北支における利益が、中国のナショナリズムとロシアのボルシェビズムとの間の重圧に押しつぶされようとしている、と東京には思われた。国際連盟へのアピールはほとんど何も達成しないだろう。中国のナショナリズムは西側列強に同情的な聴衆を見い出した。彼らの大半は、南京政府が主張した虚構や疑わしい主張を受け入れる傾向があった。北支における日本の要地は、赤に浸透されるか、愛国心が「憎しみの炎」に転じた熱烈な中国人ナショナリスト達に首尾よく攻撃される、深刻な危険に直面した。

 

日本が直面したジレンマは、1931年に中国と日本の仲介者として働いたジョージ・ソコルスキーが、明確かつ適切に述べた。

 

ここで、1931年に中国と日本を和解させるための最後の努力がなされたことを思い起す必要がある。実際のところ、私は、幣原男爵や外務省らと会合するため中国から日本へと向かう、和解を試みる手先であった。日本の態度は懐柔的だったが中国人は概して敵対的だった、といえる。

 

・・・中国と日本を仲違いさせ続けるため二つの勢力が働いていた。ソビエトロシアと国際連盟ソビエトロシアは1924年以来、中国国民の間で、ロシア人を除くすべての外国人、とりわけ英国人と日本人に対する憎悪を煽動する活発な計画に従事していた。国際連盟事務局は、中国で、広範な分野の活動を代理人・・中国で多くの時間を過ごしていたルドヴィク・ライヒマン・・を通じて展開していた。日本は連盟の一員であり、ライヒマンは連盟の被雇用者であったけれども、ライヒマンは激しい反日だった。ライヒマンはポーランド人で、今は国際連合と関係がある。