Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

ルーズベルトと盗聴器(その3)

 

Gary Kern, How “Uncle Joe” Bugged FDR 『どのようにスターリンルーズベルトを盗聴したのか』の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Uncle Joe’s Guest

この転居を遂げるため、11月28日午後、シークレット・サービスは甚だしい茶番を演じた。ルーズベルトと同様に正装した捜査員のロバート・ホルムズを連れた、車輛、ジープ、オートバイの護衛をソビエト大使館へと走らせた一方、大統領は上機嫌で裏道を走り、人目を忍んで白人居留地に立ち入って通用口からソ連大使館内に運び込まれた。到着から15分以内・ルーズベルトが立ち上がるよりも先に、口説き落とした求婚者のようにスターリンが現われ、そうして三回の非公開会議のうちの初回が始まった。いみじくも会議はレーニンスターリン肖像画の下で行われた。ハリー・ホプキンス、ウィリアム・リーヒ提督、ロス・T・マッキンタイア提督などの幕僚の一部はルーズベルトとともにソ連大使館に滞在した。大使館から移動させられた Louis G. Dreyfus 公使とともに街に残った者がいた一方で、街の外のアミラーバード基地に滞在した者もいた。大使館の兵士達は何かを守っているように見せるため、テントにとどまった。チャーチルは自国の大使館にとどまり、私的な競馬賭博を終わらせた。

 

ソビエト大使館内のアメリカ人らは、随行している人々の、エプロンや白いコートで覆われた腰に大きな膨らみがあるとすぐに気が付いた。彼らは袖の下やスカーフの下からNKVDの制服がはみ出ていることにも気付いた。アメリカ人はお互いに目くばせをし、不格好な変装を見抜いたことについて彼ら自身を褒めた。威嚇するため、NKVDがそれらを検知できるようにしていたとは思っていなかった。レイリーの説明は、彼の警備員も英国の警備員をもはるかに凌駕する、3000名のNKVD士官が会議に出席したことを、多少の懸念とともに特筆する。制服やエプロン姿のソビエト軍に対して、ことによっては、大統領を保護する方法がないとレイリーは理解したに違いない。大統領のようにレイリーはNKVDを信頼せざるを得なかった。彼らが管轄を持っていた。

 

毎日ペルシャの通りを通って1マイルを走る恐怖を免れたルーズベルトは、部屋を占有させてもらい、シークレット・サービスを無効化し、スターリンは温かい抱擁へとFDRを引き込んだ。スターリンは、戦争が終わったのち、ロシアに戻したいとの名目で、信教の自由、私的所有権、より大きな民主主義をソビエト連邦に与えるつもりだ、とルーズベルトに告げた。信じられないほどの譲歩に喜んだルーズベルトは、スターリンが戦後のポーランド国境を描くことができるし、「ソビエト軍による再占領の直後ではないかもしれないが、いつか、国民の意志の表明」とともに、バルト[エストニアラトビアリトアニア]の支配を再び掌握できるであろう、と暗示した。スターリンが述べた「理解した」という言葉は、ルーズベルトには十分なものだった。

 

ハリマンは大統領に対する陰謀の存在を、今一つ信じ切れなかった。会議の後にモスクワに戻った彼は、ナチスがそれをでっちあげたのか、それともモロトフと彼自身[スターリン?]が陰謀に加担したのか、とモロトフに尋ねた。ユーモアのセンスがなかったモロトフは、実際のところ、陰謀の具体的な詳細は把握していなかったが、テヘランナチスの組織があることは分かっていたと答えた。ハリマンは、モロトフは不可能なことはできなかったと理解し、スターリンは単に市内を車で走る危険を冒したくなかったと推測した。彼は、監視が全体像の一部であったとは疑わなかったし、「ロシア人には」盗聴する理由がなかったと歴史家の Paul Mayle に語った。この問題についての彼の見解は、デイビーズの見解と同じだった。

 

レイリーは彼の著作で、会議の三か月後、山の中のベドウィン部族と一緒に住んでいた6人の落下傘兵を「ロシア人」が捕らえて処刑した、と物語る。そのような情報はNKVDだけから端を発したのかもしれない。レイリーは申し立てられた陰謀についての報告書をシークレット・サービスに提出しなかったし、シークレット・サービスが作成した会議の報告書には陰謀についての言及がない。英国の記録も同様にそのような言及はひとつもない。戦時内閣の合同情報委員会はのちにロンドンで問題を検討し、いわゆるビッグスリーに対するナチスの陰謀は「全くの出鱈目」だったと結論付けた。

 

The Illusive “Plot” Resurfaces
西側とは対照的にNKVDは陰謀の物語を維持し、20年後、宣伝活動の間、NKVDの跡を継いだKGBは、新聞でそれを宣伝し始めた。新たな装いで、FDRに対する陰謀と称されたものは、数多くの詳細な記述と実在の登場人物を積み上げた。とりわけ第二次大戦における伝説的人物の一人、オットー・スコルツェニー親衛隊中佐。KGBによって生み出された印刷物の中では、スコルツェニーは、一撃で戦況を好転させるため、テヘランビッグスリーに対する攻撃の先頭に立つようヒトラーから任命された人物であった。物語は拡大した・・占領下のウクライナドイツ国防軍大尉を装っていたNKVDのエース、ニコライ・クズネツォフのことをナチスは当てにしなかった。クズネツォフは大酒飲みでおしゃべりな、計画の断片をうっかり口に出した Ortel という親衛隊将校と仲良くなった。したがって、ソビエト連邦警察の警戒は、米英ソ三国の指導者達の生命の恩人であった。ご想像のとおり、スコルツェニーの回想録にはそのような計画の言及がなく、さらにソビエトの各種記事には、名前、場所、その他の特質において、それ自体に食い違いがある。

 

事実、スターリンとラヴレンチー・ベリヤに近い情報源(どちらもグルジア人)から内部情報を聞いたと主張するグルジア人亡命者は、ナチスの陰謀という着想の偽りを暴く。ルーズベルトを感動させて恩義の感情に付け込むため、スターリンは偽の暗殺の企てを思いつき、「暗殺者」が実際に逮捕されなければならないとの条件付きで、手はずを整えよとベリアに命じた、と Yuri Krotkov(仮名)は書いた。ソ連の対諜報機関から救助を知らされたルーズベルトは、陰謀を破たんさせた人物と会わせるよう頼んだ。ルーズベルトは、サラトフ市からのクラフチェンコという名前の大佐との面会を許された。FDRが誤ってクラフチェンコ大佐を「将軍」と呼んだとき、スターリンは陽気にクラフチェンコを昇進させた。逮捕の任務を果たした者達に何があったのか、クラフチェンコは語らなかった。

 

とはいえ、ナチスが連合国の指導者を攻撃する計画を立てることは、おそらくテヘラン会議であっても、(11月21日のラジオ放送に続いて)準備するのに一週間しかなくとも、完全に不可能ではなかった、との実体のない根拠が残る。しかしながら、そのようなナチスの計画が、スターリンルーズベルトに警告したような計画になることは完全に不可能であった。もし、ムッソリーニを山頂から羽毛かのように連れ出したオットー・スコルツェニーが、テヘランスターリンを暗殺しようと計画している(または何か行動しようとしている)とスターリンが考えたのであれば、彼は会議を延期して立ち去ったであろう。部下が街中に広がっていたとの話が本当であったとしても、スターリンは、ソビエト大使館を砲撃できるかもしれない6人の暗殺者が近くにいた街に踏み止まらなかったであろう。そのようなリスクを冒すような人物ではなかった。この点ではハリマンの直感は正しかった。

 

Stalwart Good Humor

テヘランでの公式会議で、FDRはスターリンに言い寄り続けた。のちに現われた雑誌記事によると。「会議を通じてルーズベルトは、彼自身の完璧な誠意をロシア人に請け合うため、スターリンの心と交わるため、スターリンの見解を理解するため、あらゆる努力をなした。ビッグスリーの間で相互に信頼の精神を築き上げることが、特定の契約よりも望ましいと彼には思われた。・・・彼の政策の眼目はスターリンを安心させることであり続けた」。

 

大統領は12月17日にアメリカに戻り、暗殺計画についてのスターリンの警告を全面的には信じなかったけれどもとにかく彼の助言に従ったとし、「その後はすべてがうまくいった」と記者団に述べた。FDRは彼の会議に関する詳報をクリスマスイブのためにとっておいた。それまでで最も広範囲に及ぶ全国的なラジオ放送で、ルーズベルトは、平和がすぐ手の届く所にあり、戦後、ビッグスリーの間には永続的な[解決しえない]問題は起こらないであろうと国民に請け合った。スターリンについて彼は述べた。

 

――もしアメリカ英語の幾分慣用的ではない口語表現を用いるならば、私はスターリン元帥と「意気投合した」と言ってよい。彼は冷酷な決断力・素晴らしい決断力とユーモアを兼ね備える人物だ。私は、スターリンはまさしくロシアの精神と魂を代表していると思うし、我々は、彼やロシア国民と、非常にうまくやっているところだと信じている。実にとても良く。――

 

もし暗殺の試みについての警告が真実でなかったとすれば、スターリンが欲したかもしれないものは何か、マスコミは尋ねなかった。けれども盗聴の可能性は内部者にはわかっていた。英国の将軍、ヘイスティングス・イスメイ卿は回想録で「もしマイクがすでに設置されていたならば」と怪しんだ。