オットー・レーマー少将は語る(その1)

 

この記事は 歴史的修正主義研究会 からの転載です。

(原文)An Interview With General Otto Ernst Remer

(引用元)オットー・レーマー少将は語る

 

 

 

オットー・エルンスト・レーマー将軍とのインタビュー

シュテファニー・シェーマン、M. ウェーバー

 

Q:レーマー将軍、第二次世界大戦ではどのような役割を果たされたのですか?

A:…私は前線指揮官でした。戦争中はずっと戦闘部隊を率いていました。ベルリンでベルリン防衛大隊指揮官としてすごした3ヶ月と、総統の本営で警護隊長としてすごした3ヶ月だけが例外です。

その後、私は将官、師団長となりました。総統の個人的命令で、私の師団は東部戦線のもっとも重要な地区での戦闘に投入されました。そして、私は終戦まで戦闘部隊の指揮官でした。

 

Q:1939年のポーランド回廊をめぐる危機と開戦についてはどうお考えですか?

A:1944年9月、総統の本営の警護隊長であったとき、歩きながら総統とお話しする機会がありました。「総統、率直に少しお話してもかまいませんか?」と尋ねると、「もちろん」との答えでしたので、「なぜポーランドを攻撃されたのですか? 我慢することはできなかったのですか?」と尋ねてみました。

総統が求めていたのはポーランド領を横切る高速道路と鉄道だけでした。また、ダンツィヒドイツ帝国に戻ることも望んでいました。非常につつましい要求でした。もう少し我慢すれば、オーストリアとズデーテンランドがドイツ帝国と統合されたように、これらの要求も達成できたのではないかということです。

総統はこう答えました。「君は間違っている。私は、すでに1939年3月にルーズベルトが世界大戦を決意していること、イギリスがこれに協力していること、チャーチルが関与していることを知っていた。戦争を望んでいないのは私だけだということを知っていたのは神だけだった。だから、私は、宣戦布告無しで、懲罰行動のかたちでポーランド問題を解決しようとしたのである。当時、数千の民族ドイツ人が殺され、120万の民族ドイツ人が難民と化していた。どうすべきであったのか?行動しなくてはならなかったのである。このために、開戦から4週間後に、私は、これまでの戦勝国の指導者が行なったことのないような寛大な講和条件を提起した。不幸なことにそれはうまくいかなかった。もしも、ポーランド問題について、第二次世界大戦の勃発を防ぐために、実際に行なったことを行なわなかった場合には、1944年に経験していることを、遅くとも1942年末には経験していたことであろう。」

 

Q:ヒトラーはイギリスに寛容すぎたのではないですか?

A:・・・これは総統の誤りでした。総統はいつもイデオロギーにもとづいて政策を追求していました。ファシストのイタリアとの同盟もそうでしたが、結局はイタリアの裏切りに終わりました。さらに、総統は北方ゲルマン的人種と、イギリス人も含む北方民族をいつも信用していました。総統が繰り返しイギリスに講和を申し出たのもそのためです。しかし、イギリスはこれを無愛想に拒み続けました。イギリスに上陸すれば、イギリスを戦争から離脱させることができたと思いますが、上陸しなかったのは、この重要な理由のためでした。イデオロギー的な理由から、総統はそうしませんでした。これはたしかに誤りでした。しかし、誰もが過ちをおかすものです。

総統はあるとき、「戦争を続けているために、ドイツ国民の安寧を目指して成し遂げなくてはならない仕事から、日々遠ざけられている」と話してくれました。

総統は国内政策とその計画のことを言っていたのです。総統は、国内政策を完遂できないままで、戦争に全力を傾注しなくてはならないことにひどく不満でした。平和が続いたのはわずか6年でしたが、その短い期間のあいだでも、大変革が成し遂げられていたのです。

 

Q:ダンケルクについてはどうお考えですか?

A:「アシカ」作戦として知られていたイギリス侵攻計画のことを知っていた背信的な将校たちが、海からのイギリス侵攻は軍事的に不可能であると総統に報告したのです。彼らは、政治的理由から侵攻を妨害するために、本当ではないことを知っていたにもかかわらず、そのような内容の報告書を作成したのです。戦後になって、この間の事情がすべて明らかとなりました。[ファビアン・フォン]シュラブレンドルフが、私の裁判でこのような内容の証言をしています。

 

Q:ヒトラーの政策、とくに対ソ政策に賛成していましたか?

A:対ソ戦についてですね。まず、1941年初頭のユーゴスラヴィアギリシアでのバルカン作戦時点で、われわれがソ連国境全体に10個師団しか配置していなかったのに対して、ソ連軍はわが国との国境地帯に247個師団を配備していたことを知っておかなくてはなりません。バルカン作戦が終わると、われわれはソ連との国境地帯にすみやかに170個師団を配備しました。ソ連軍は攻勢に出る準備をすでに整えていたのです。

緒戦でわが軍がソ連軍に対して勝利を収めたのは、ソ連軍が守備的な地点に駐屯しているのではなくて、攻勢に出るために前線近くに駐屯していたためです。このために、わが軍はすみやかにソ連軍を包囲することができました。ですから、戦争の最初の数週間で、わが軍は300万以上の捕虜と膨大な軍需物資を手に入れることができました。そのすべてが、攻勢に出るために、前線近くに配備されていたからです。

これが真相ですし、それを証明もできます。最近、長距離偵察機パイロットであったペムゼル氏と話す機会がありました。対ソ戦がはじまる前、彼はドン川付近にまで飛行して、国境地帯にソ連軍が多数集結していることを観察し、それを報告しています。

ソ連軍がヨーロッパに侵攻する準備をしていたことについては、対ソ戦での私自身の経験、ソ連軍捕虜の尋問から知っていました。ロシア人は、われわれがイギリスに進撃する機会を利用して、ヨーロッパを蹂躙しようとしていたのです。

 

Q:対ソ戦が1940年11月のヒトラーモロトフ会談ののちには不可避であると考えていましたか?

A:ソ連外務大臣モロトフダーダネルス海峡を要求しました。これは、トルコ領である外国の領土を引き渡してしまうことになります。ですから、モロトフは、答えることのできない挑発的な要求を突きつけてきたことになります。総統は、ソ連ルーマニア領を平時に奪ったことも知っていました。また、ソ連ユーゴスラヴィアベオグラードで反ドイツ蜂起を組織していたことも知っていました。ドイツとソ連の関係を引き裂いたのはロシア人なのです。

総統がソ連攻撃に傾き始めたのは、ドイツとヨーロッパに対するソ連の攻撃の準備が進んでいることについて、再三報告を受けたあとのことです。ですから、私は、総統がもともとはソ連攻撃を計画していなかったと確信しています。総統は、状況の変化に対応していたのです。

 

Q:ドイツ人はロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたのですか?

A:ナンセンスです!ロシア人は他の人々と同じように人間です。

われわれがロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたかどうかというあなたのご質問はナンセンスです。われわれはロシア人と良好な関係を築いていました。われわれが対処しなくてはならなかった唯一の例外は、ソ連の人民委員でした。彼らすべてがユダヤ人だったのです。人民委員たちは、機関銃を手にして前線の後ろに立ち、ソ連兵を戦闘に駆り出していました。われわれは彼らにすみやかに対処しました。命令にそっていたのです。この戦争は基本的生存のためのイデオロギー戦争であり、その中で、こうした政策は当然のこととされていたにすぎません。

ロシア人のことを野蛮なアジア系遊牧民とみなすような話もあり、兵士たちが下等人種についておしゃべりしていることもありましたが、「下等人種」という用語が公式に使われたことはありません。

 

Q:ロシア人たちは虐待されなければ、ドイツ人と戦わなかったでしょうか?

A:ウクライナ人やカフカース地方の人々はわれわれの側に立って、戦おうとしましたが、われわれはそれを活用できませんでした。十分な武器がなかったからです。戦争では、理論的にはこうすればよかったという点が多々ありますが、実際には、実行できないことも多いのです。

アラブ系の人々も、自分たちの解放を求めて、われわれに武器を要求しました。スペインの指導者フランコも、参戦の条件として武器を要求しましたが、われわれ自身にも武器は不足していたのです。

ドイツの軍需産業計画は、対ソ戦の進行まで見通していませんでした。われわれは3260両の戦車から始めました。それがすべてでした。しかし、ソ連軍は10000両を持っていたのです。当時、ドイツの戦車生産は月35両でした。想像できますか!月1000両という頂点に達したのはやっと1944年10月のことでした。ドイツの戦車生産は1941年の月35両から、1944年末の月1000両にまで上昇しました。これほどの相違があったのです。これこそ、われわれが世界戦争など軍事的に準備していなかった証拠です。

 

Q:ソ連軍がドイツに接近してきたとき、どこに勤務していましたか?

A:東プロイセンの総統本営ヴォルフスシャンツェの警護隊長でした。私の部隊の一部と一緒にいました。まだ組織中であり、準備が整っていませんでした。ソ連軍を押し戻すためのゴルダプ付近での反撃に参加しました。しかし、この作戦はわずか8日続いたにすぎませんでした。

 

Q:ドイツの民間人に対するソ連軍の虐殺行為についてはどうですか?

A:女性が殺され、足がばらばらとなり、切り刻まれて、胸も切断されている例を目撃しました。私自身がポンメルンで目撃したのです。

この事件のことをラジオで話したことがあります。詳しく報告するようにとの要請がゲッベルス博士からあり、彼はインタビューのためにラジオ放送チームを送ってきました。私が事件を目撃したのは、スタルガルト周辺地区です。

 

Q:ソ連軍の中の「アジア系」兵士についてはどうですか?

A:ひどいものでした。前線でこうした行為におよんだ兵士は、…アジア人、モンゴル人などでした。

 

Q:虐殺は意図的な政策の結果でしたか?

A:きわめて意図的でした。われわれの「階級」もしくはエリートを心理的に打ち壊そうとしたのです。