ヤルタでのルーズベルトの失敗(その1)

 

【PDF】Roosevelt’s Failure at Yalta Ι Arnold Beichman

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

これまでかなりの期間、私はヘンリー・A・ウォレス元副大統領の政治伝記を研究し、なぜ彼が、1940年からの在任期間中、ソ連外交政策の野心に懸命に固執したのかを理解しようとしてきた。この問いの答えを探し求めるうち、ウォレス時代の政治文化風土の研究をすることは有益であると感じた。第二次世界大戦の数年間における、ホワイトハウスからアメリカ国内に至るまでの、異常なほどの親ソ連の雰囲気に私は驚かされた。

 

モスクワの残忍な裁判は見過ごされ、スターリン独裁政権は、新しい民主主義の形として再定義された。ライフ・マガジンは、FBIをソ連の秘密警察NKVDに概ね似ていると説明し、レーニンを「現代で最も偉大な人物かもしれない」と評した。1943年3月29日号は、「ソ連の指導者達が、この仕事を成し遂げるには情報の管理が必要だと言うのであれば、彼らの言葉を信じて差し支えない」と記し、ロシアの賛美に終始した。ハリウッドは、モスクワへの密使、ロシアの歌、The North Star、反撃などの親ソ映画を制作した。ニューヨーク・タイムズのジェームズ・レストンは「反ロシア的な発言は、反米的な卑しい冗談だった」と力説した。ニューヨーク・タイムズそのものも「ソビエトでのマルクス主義思考は廃れ・・・資本主義、より良く表現すれば競争システム、が戻ってきた」とまくしたてた。


1943年のコリアーズ・マガジンは、「我々や英国の民主主義に似たものへと向かって」ソビエト連邦が動いていると示唆した。サタデー・イブニング・ポストは1943年から1945年の間、その特派員のエドガー・スノーによる24本の記事を掲載し、いずれも親ソ連だった。ジョージ・ケナンはこの状況を上手くまとめた。「1942年から1943年の重要な期間にソ連を批判した人々は、反逆に近い行為で非難されることもあった」。イーヴリン・ウォーが述べたように。「ドイツ戦争の間、我々の喧嘩を共にし、彼らの犯罪に関し一切言及を控えた者に、英雄的な美徳ありとすることが便利であると考えられていた」。


冷戦が終結して以来、ルーズベルト大統領の対ソ政策の見直しがかなりおこなわれてきた。最も目立ってきたのは、1989年の中欧での反革命は、スターリンに対する「愚直」のため批判されてきたルーズベルト大統領の戦時外交に対する非難が不当であると証明する、と論じたアーサー・シュレジンジャー教授の小論である。


しかし、私は、就任した1933年以降、FDRはソビエト外交の性質についての国務省内の詳細な評価を無視し、その結果、約40年間にわたって中欧の人々が代償を払ってきたと主張する。シュレジンジャーに反論するための典拠として、1933年から1945年の間の米ソ外交の進展において当事者・観察者であった、チャールズ・ボーレン、アヴェレル・ハリマン、ロイ・ヘンダーソンジョージ・ケナンの著作と回想録を引用する。シュレジンジャー教授はFDRの擁護者の中で最も権威がある人物なので、彼の論文の検討から始める。


高名なピューリッツァー賞を受賞した歴史学者の、ウォール・ストリート・ジャーナルの小論は、「嫌疑の晴れたFDR」と題された。シュレジンジャー教授のテーマは、ルーズベルト大統領の戦時外交・・とりわけ1945年のヤルタ協定・・に対する長年の非難にもかかわらず、中欧における反革命の成功は、まさに「ヤルタ会談におけるルーズベルトの目的の達成」だったとするものであった。


「魅力的な戦後協力へとスターリンを魅了できると考えていたと想像されるので、あまりに愚直すぎるとルーズベルトは大いに批判された。・・・スターリンに取り組み処理するFDRの決意は、振り返ってみると、抜け目のない洞察に基づいていたようだ。ウォルター・リップマンがかつて気付いたように、スターリンを魅了するにはルーズベルトはあまりにも冷笑的すぎた」とシュレジンジャー教授は書く。


私は反対に、ルーズベルト大統領は、1933年から、おそらく、死去した1945年以前のある日まで、スターリン共産主義について考えが甘かったと主張する。公表された記録から、シュレジンジャー教授の論文は、政治家としてのFDRの汚名を返上することを目論んだ歴史修正主義の一編であると主張したい。ケナン、ボーレン、ヘンダーソン、ハリマンら、私がシュレジンジャー教授の論文に対する反論の中で引用したものは、決して右派の視点を代表するとは言えない。


ルーズベルト大統領のヤルタでの「目的」について論じるつもりはない。中欧スターリンの戦後構想の犠牲になることを、大西洋憲章の共同起草者が望んでいなかったことは明らかである。よって、FDRの目的の高潔さではなく、その目的を達成する過程における外交の質と知性が問題となる。


1933年、ソビエト連邦の承認問題について、個人的な外交に取り組むというルーズベルト大統領の決断の検討から始める。彼はすでに、国務省の専門家達の詳しい見解に対し、モスクワのニューヨーク・タイムズの男、ウォルター・デュランティの虚偽のルポルタージュの優先を表明していた。


ボルシェビキ革命後の初期、ソ連情勢に専従し始めたアメリカの外交官の中には、ソ連との取引をできるだけ少なくすべきと考えた者もいた。外交官の経歴が長く、20世紀の米国外交の主要な立案者の一人であるロイ・W・ヘンダーソンは、ソ連が米国の内政に干渉しないことの確かな保証を提供するまで、外交関係の樹立に反対した。


ボーレンは回顧録で、ヘンダーソンは「ルーズベルト政権の中で、ソ連に対する感傷的で甘ったるい態度に反対する静かな闘争を主導した。最高の品性を持ち、まったく清廉で、いつも本音を語る男だったけれども、その習慣は彼を人気者にしなかった」と述べる。

 

ヘンダーソンは、レーニンの革命的野心が、ソ連自らが非公開に保証した永続的な不干渉や、署名した国際協定を、ソ連の制度において履行不可能にしたのではないかと懸念した。彼は書いた。

クレムリンの指導者たちは結局、ソ連が関係を維持していたすべての国の暴力的な打倒を助長することを意図していたので、あらゆる国との関係は、一時的、あるいは過渡的なものであり、いつでも変化の対象になると見做した、というのが私の確信だった」

 

ヘンダーソンの回想録の編集兼注釈者は次のように述べる。
「彼の37年間の外交官勤務を通じて、ヘンダーソンは、我が国とソ連政府との関係についての根本的な質問を投げかけてきた。『ソ連は信頼できるだろうか?』一貫して彼の答えは『ノー』だった」

 

ヘンダーソンや彼の副官にははっきり明確な、ボリシェヴィキ革命の初日から西側民主主義国に相対するソビエト外交政策の根本的な継続性は、マルクス主義レーニン主義スターリン主義の意味を理解しなかった、理解できなかった、あるいは理解しようとしなかったハリー・ホプキンズのような側近や、ルーズベルト大統領にとっては、それほど明確ではなかったことは明らかだ。

 

1933年3月4日にFDRが就任してから数ヵ月後、国務省東欧部門は、ソ連の承認のための交渉の進め方についての文書を彼に提出した。1933年7月27日付のその覚書には、先見の明のある一節があった。

 

「外交関係において国家間の通常の関係をロシアと樹立する際の根本的な障害は、その国の統治者の世界革命の目標と実践である。・・・したがって、ソ連政府との信頼できる円満な関係を樹立するために不可欠な前提条件は、世界革命の目標と、その目標の実現をもたらすための活動を、現在のロシア統治者が放棄することであると思われる。より具体的に、特に米国に関して言えば、この前提条件は、米国における共産主義その他の関連活動の、その目的のために役立つ、あらゆる機関を通じた、指導、監督、統制、資金供与、その他を、モスクワが放棄することを含む」

 

他の二国間問題も扱うこの覚書に、ホワイトハウスはほとんど注意を払わなかった。ルーズベルト大統領は、ソ連を承認する決意と同じくらいに、共産主義インターナショナルコミンテルン)のあからさまに公言する目的を無視するつもりだった。承認に至るまでの文書は、米国における破壊活動や宣伝活動をソ連は慎むとの譲歩が盛り込まれたけれども、文書はコミンテルンの名前に言及しなかった。外交関係樹立の発表から一週間も経たないうちに、米国で、コミンテルンの声を代弁するデイリー・ワーカーは、「リトビノフ協定が共産主義インターナショナルに適用される」という主張は「敗北を味わうだろう」と誇っていた。

 

それは不吉な出来事だった。ソ連はインクが乾く前ですら協定をあざけっていた。その後の数十年間、ソ連の協定無視は何度も繰り返されただろうし、米国の政策立案者たちはいつも、あなたはそれに何ができると渋い顔で無視し、しばしば違背を米国民から隠そうと務めたことだろう。