ヤルタでのルーズベルトの失敗(その2・完結)

 

【PDF】Roosevelt’s Failure at Yalta Ι Arnold Beichman

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

米国政府は、ソ連を研究し、承認には何が必要かを理解していた外交官から、ほとんど予言的に、十分に警告された。1953年に至ってもなお、ジョージ・ケナンは、米国は「ソ連政府と法律上の関係を結ぶべきではなかった」と書いた。だがFDRは、強情な無知から、拘束力のある代用を求めようともせず、承認政策に乗り出した。1933年11月16日に正式に発表されたアメリカのソ連の承認は、その全体主義国家を強化したにすぎなかった。

 

第二次世界大戦中のスターリンに関するホワイトハウスの愚かな声明を説明しうるのは、それと同じ強情な無知の他に何があるだろうか?カティンの森の虐殺の責任がスターリンにあることをウィンストン・チャーチルから知ったとき、その残虐行為に対するルーズベルト大統領の沈黙は、恐ろしい日和見主義のほかどのように説明しえようか?
シュレジンジャー教授の事後の弁明にもかかわらず、ヤルタの立会人の一人で大統領の通訳だったチャールズ・ボーレンは、ヤルタでのFDRを鋭く批判した。

 

スターリンを支援したばかりでなく、チャーチルスターリンの交流を喜んでいるように見えた、大統領の態度が気に入らなかった。スターリンによってまさに付け込まれていた、盟友である親しい友人を、ルーズベルトは守りに来るべきであった。・・・ロシア人を複数人で困らせることは何としても避けねばならぬという(ルーズベルトの)明白な信念は、私が思うに、ルーズベルトボルシェビキを理解していなかったことに起因する基本的な誤りだった。・・・チャーチルとの関係を断とうとする、大統領の、むしろ見え透いた企ては、誰も欺いていなかったし、十中八九、スターリンのそのひそかな気晴らしを掻き立てた」

 

ヤルタにいたボーレンは、ボルシェビキの考えと非ボルシェビキの考えとを区別する大きな隔たりをルーズベルト大統領は理解していなかったと述べた。ボーレンは書いた。

 

ルーズベルト大統領は 「スターリンはある程度自分と同じように世界を見ていると感じたし、戦時中の諸会談で明らかになったスターリンの敵意と不信は、革命後の数年間、他国のせいでソ連が損害を被ってきたことを放置したためであると感じた。彼が理解できなかったのは、スターリンの敵意はまったくのイデオロギー的信念に基づいていたということだった。米国とソ連との間に埋めることのできない断絶が存在したことを、フランクリン・ルーズベルトが十分に認識したことは一度もなかった」

 

ルーズベルトスターリンへの大使、W・アヴェレル・ハリマンも、「死活的な利害関係を有すると見做した問題を、彼らのやり方・条件で解決しようとするロシア人の決意を理解していない。大統領は依然として、私は納得するがスターリンは決して同意するはずがない多くの問題について、見解を変えるようスターリンを説得できると感じている」と書いて大統領を批判した。

 

(戦争の終わりに世界を掌握した)ルーズベルト大統領のような政治指導者と、彼の腹心のハリー・ホプキンスが、もしレーニン革命を理解したとすれば、スターリンの決意も理解したことだろう。かくして、彼らは、ナチスドイツのかつての同盟国、ソ連帝国主義の外交条約を、無批判・愚直に、判断を誤ることはなかったであろう。例えばここに1945年のヤルタ後のハリー・ホプキンスの言葉がある。


「内心、我々が、たくさん話し合ってきて、何年も待ち望んできた、新しい日が明けたとまさに信じた。我々は皆、平和のための偉大な勝利の一歩目を勝ち取ったと確信した。私が言う我々とは、私たち全員、文明人を意味する。ロシア人は、合理的になれるし、先見の明を持つことができると証明してきたので、大統領も私たちも、彼らと一緒に暮らし、遠い将来まで平和にやっていけることに、少しも疑いを持っていなかった。ただし私は一つ留保せねばならぬ。私たちは内心に、スターリンに何かが起こったならば、どのようなことが起こるか分からないとの但し書きを作り上げたと信じる」

 

それからFDR自身がスターリンに言及している言葉を聞いてみよう。
「もし彼が求めるものをできる限りすべて与え、代わりに何も求めなければ、彼はノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)として、どこの国も併合しようとせず、世界の民主主義と平和のために働くだろう」


高貴なる者の義務、まさか!

 

FDRがヤルタでの失敗に気付いた時には、何かしようにももう手遅れだった。亡くなる19日前の1945年3月23日、ルーズベルト大統領はアンナ・ローゼンバーグに打ち明けた。「アヴェレルは正しい。スターリンとは取引できない。彼はヤルタでした約束を一つ残らず破った」。つまり、FDRは、スターリンが、約束や条約による負担を守ると本当に信じていたのである。


戦中戦後の展開を見て、「ロシア共産主義の性質とその外交の歴史についての許しがたい無知」をケナンは嘆いた。1960年にケナンは書いた。

「つまり、良く知られたFDRの信念。スターリンはむしろ気難しい性格だけれども根本的には他のみんなと同じような人間である。過去にスターリンとうまくやっていくのが難しかった唯一の理由は、適切に彼に対応するための正常な人間性、十分な想像力、信頼、を有する人物がいなかったためである。西洋の首都の傲慢な保守主義者達はいつも露骨にスターリンを拒絶してきたし、FDRの度量の魅力に浴しさえすれば、彼のイデオロギー的偏見は消え去り、ロシアと西側諸国との協力が容易に得られるだろう。この仮説にはまったく根拠がなかった。政治家としてのFDRの地位にはまったく値しないほど幼稚だった」

 

ケナンを引用すると、1989年の中欧革命は、ルーズベルト大統領の戦時外交の非難が不当であることを証明するとのシュレジンジャー教授の仮説には全く根拠がない。むしろ、ルーズベルト大統領がスターリンに対して愚直でかたくなな態度を取らなかったならば、中欧は1945年にスターリンの支配を逃れて、かくてFDRに対する懲罰的な1990年の小論を未然に防いだかもしれない。

 

かなり後にサイモン・シャーマ教授からFDRに対する評決は下された。
ルーズベルトの『アンクル・ジョー』に対する友好的な性格描写は、アメリカ人の認識に影響を与え、邪悪で残忍な独裁者をメインストリートから来た登場人物へと変貌させた」

 

なんらかの結論性や過度に単純化する危険を伴わずに、歴史の因果関係を証明するのは容易ではない。それでも、スターリンとのルーズベルトの交渉は、1980年代後半のソ連の衛星国の解放という結果とほとんど関係がなかったことは、それなりの根拠をもって言えると思う。どちらかといえば、FDRは無意識のうちに、スターリン中欧・東欧支配の執行を助けた。