ブリット:外交官で予言者(その1)

 

William C. Bullitt: Diplomat and Prophet

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

・・著者は、この雑誌のため、過ぎ去ったアメリカの外交政策の姿に関する数多くの記事を書いてきた。ここで彼は、第二次世界大戦の勃発へとつながった数年間の1930年代に、最も重要な二国の大使の任にあった一人の男の経歴を評価する。彼の主題のビル(ブリット)には、その紛争の到来に予知能力があることが証明された・・さらにはその後に続く紛争の。【編集者】

 

1943年1月29日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領の信頼できる顧問兼友人が、ソ連の意図に関する長大な機密の覚書を書いた。大統領によって無視されなければ、第二次大戦後の歴史の推移を変えることができた覚書だった。著者のウィリアム・クリスチャン・ブリットは、当時、形式的に海軍省に任命されたFDRの移動大使だった。彼は以前、アメリカ初のソ連大使(1933-1936年)および仏大使(1936-1940年)を優秀に務めたことがあった。ブリットは、FDR宛の1月の覚書に続いて1943年の5月と8月にも、短いけれども類似の覚書を提出した。それらも同様に大統領は無視した。ルーズベルトは、周知のとおり、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンを、ブリットその他の助言者や味方(ウィンストン・チャーチルを含む)よりもよく理解しており、上手く扱うことができると信じていた。不幸にもFDRは誤っていた。第二次世界大戦の間、彼が軍事的にも政治的にも政策を推し進めた結果、ナチスの脅威を、より大きくより永続的なソビエト地政学的脅威へと置き換えたことは、20世紀における最も重要な外交的失敗のうちの一つである。


イギリスの歴史家ポール・ジョンソンは、歴史の中に必然性はないと繰り返し読者に念を押している。ソ連による東欧、中欧、東アジアの一部の支配は、1943年の時点では避けられない結果ではなかった。軍事作戦上の展開と政治決定とが、戦後秩序の構造を決定しよう。終戦時に米英軍がソ連軍とどこで合流したかがはなはだ重要だった。スターリンはこれを理解した。戦争が終わる頃になって、ソ連の独裁者は、ユーゴスラビア共産党同志に、国軍によって征服・占領された土地に国家の社会制度が行使されるだろうと述べた。米国政府の内部では、ウィリアム・ブリットよりも早くこの事実を理解・把握した者はいなかった。

 

第一次世界大戦の勃発直前、1914年6月、ブリットは母親に同行してロシアとドイツを旅した。戦争が始まったとき、ブリットと母親は、ドイツからロンドンに向かい、そこで戦争特派員になろうとしたが駄目だった。ブリットはその後、パリへと向かって祖母の宝石を取り戻すことに成功し、その間、フランス軍に入隊しようとしたが拒否された。フィラデルフィアに戻り、Public Ledger(フィラデルフィアの日刊紙)の記者になった。彼は当初、警察の巡回区域を取材したが、まもなく戦争に関する記事を書き始め、同紙の論説面に掲載された。1915年後半、大統領候補に三度なったウィリアム・ジェニングス・ブライアン元国務長官や、偉大な発明家トーマス・A・エジソンをメンバーに含む「ヘンリー・フォードが後援する平和探検旅行」を取材するため、再び欧州を旅した。

 

米国に帰国したとき、キャサリン・ドリンカー・ボーエン(後に有名な伝記作家になった)の姉、アーネスタ・ボーエンと結婚した。夫婦は主にドイツとオーストリアハンガリーに滞在して戦争で荒廃したヨーロッパで新婚旅行をし、ブリットはこの機会を利用してPublic Ledgerへの戦争記事を書き続けた。ブリットは、ドイツやオーストリアハンガリーの政府高官、外交官、軍将校、実業家、一般市民に取材した。ヨーロッパからの特派電は、彼の伝記作家の言葉を借りれば、ブリットが「根気強いレポーター、熟練したインタビュアー、知覚の鋭いアナリスト」であったことを証明した。当時、ニュー・リパブリック誌の編集者だったウォルター・リップマンは、ブリットを、戦争取材における「最も鋭いアメリカ人特派員」と呼んだ。

 

ブリットの戦争特派員としての成功により、1916年後半、Public Ledgerのワシントンの支局長に任命された。その役割の中で、ブリットは、エドワード・マンデル・ハウスを含む、ウッドロー・ウィルソン大統領の最も重要な相談相手の何人かと、情報源や友情を発展させた。ブリットはハウスに「ヨーロッパ情勢に関する直接得た情報」を提供し、それによって1917年12月、ブリットは国務次官補に任命された。

 

ロシアの新たなボリシェヴィキ政権の、米国の承認を、ブリットが主張し始めたのは、国務省にいた時だった。続いて彼は、ロシア内戦の間、アルハンゲリスク、ムルマンスクに米軍を派遣することに反対した。けれども、ウィルソン政権は、レーニン政権の承認を拒否し、ロシア旧政権に提供された軍需物資を回収し警備するため米軍を派遣した。ブリットはエドワード・ハウスにあてた書簡で、米国は「ロシアの惨事に、盲目的に愚かな誤りを犯している」とし、深い知恵と寛容のある「職員を配置」した「ロシアと革命とを解釈する能力のある組織」をワシントンに設けることを提案した。


戦争が終わったとき、米国は、アメリカ平和交渉委員会をパリに派遣した。委員会は、ウィルソン大統領、エドワード・ハウス、元駐仏大使のヘンリー・ホワイト、そしてタスカー・ブリス将軍によって構成された。委員会のスタッフにウィリアム・ブリットもいた。パリ滞在中、レーニン政権の代表と、国家承認の可能性を議論するため、米国の代表団をロシアに派遣するアイデアがブリットに浮かんだ。ウィルソン大統領はその計画を承認したが、それは秘密裏に行われなければならないと主張した。ブリットが代表団長に選ばれた。

 

1919年3月6日にロシアに到着したブリットは、3月9日にゲオルギー・チチェーリン外相、マキシム・リトビノフ首席補佐官と会談し、その五日後、モスクワでレーニンと会談した。ブリットの任務は実質的に何も達成されず、それが公表されたとき米国によって拒絶された。実のところブリットは、ソ連の指導者に騙された、アメリカ人・西洋人の最初の人物だった。この不穏な事象は次の30年間にも起こり続けたであろうし、それはポール・ホランダーの著書"Political Pilgrims"で丹念に記録されてきた。ブリットは、母国で恐怖政治、海外で暴力革命を主唱・実践したレーニンを「ユーモアと落ち着きがあり、愛想が良かった」と評価した。「共産党は政治的にも道徳的にも強力だ」と彼は書いた。ブリットはボリシェヴィキ政権の承認を検討するよう大統領に直接訴えたが、ウィルソンはそうすることを断った。これは、おそらくハーバート・フーヴァーから受け取った報告書が原因で、1919年3月末に述べたもの。ボリシェヴィキは 「反動的な専制政治の中ですら、見捨てられてからかなり長い間、恐怖政治、流血、殺人に訴えた。・・・我々は、欧州諸国における行動主義的な急進主義を刺激せずに、この凶悪な専制政治を認めることはできない・・・我々自身の国家的理想」

 

1919年5月17日、ブリットは、ヴェルサイユ条約案の条項に抗議して国務省を辞任した。彼は、その条約は別の戦争をきたすだろうと予言した・・・米国が巻き込まれることを避け得ない戦争。後に彼は、条約と、国際連盟への米国の参加に反対して、上院外交委員会で証言した。

 

1920年代の間、ブリットは、ヨーロッパとアメリカの二か所で暮らした。彼は妻と離婚し、続いて、著作「世界を揺るがした10日間」で十月革命を美化したアメリカ人で急進派のジョン・リードの未亡人、ルイーザ・ブライアントと結婚した(ブリットとブライアントは1930年に離婚した)。ブリットは、フィラデルフィアの社会生活について"It's Not Done"と題する成功した小説を書いた。ジークムント・フロイトと協力してウッドロー・ウィルソンの心理学的研究を行ない、それは最終的に1966年に出版された。公的生活から離れていたけれども、ブリットはヨーロッパの重要な役人と交際し、親しくし続けた。デイビット・フロムキンによると、ブリットは、「彼の時代には、どのアメリカ人よりも、多くのヨーロッパの政治家と親しく付き合っていた」