ラティモアの変容

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

Congressional Record (Bound Edition)

Volume 96, Part 16 (June 8, 1950 to January 2, 1951), A4890

 

 

ジェンキンス氏:議長。発言を延長する許可を得て、オハイオ州のコロンバス・ディスパッチはアメリカの著名な新聞の一つであると述べたい。それはオハイオの中心部を毛布のようにカバーしている。以下は、この優れた新聞が、国務省の状況、とりわけラティモアの事例を論じた論説である。国務省から何かが一掃されるべきである。

 

From the Columbus (Ohio) Dispatch of July 2, 1950
WATCH 'EM CHANGE
昨年8月、オーウェンラティモアは、ディーン・アチソンの依頼で、国務省の人々のために、合衆国の政策の指針として、極東についての報告書を書いた。とりわけ彼が述べたことは。
ラティモアは、蒋介石を支援する合衆国の政策を批判した。
共産中国か外蒙古を、合衆国が承認するよう勧告した。
日本は合衆国の良き同盟国にはなれないと語った。
韓国を「資産というより負債」と呼んだ。「韓国との関わり合いをできるだけ早く解消すべきである」と主張した。
ラティモアは同じ線に沿ってさらに多くのことを語った。「それが共産主義民族主義であっても」中国における民族自決主義の体制を合衆国が支持することを実際に提案した。
国務省オーウェンラティモアが考え、執筆し、助言したのは、ほんの数ヶ月前のことである。
さあ、今、新しいラティモアを見てみよう。マッカーシー議員のようなアメリカ人が原因で、しばらく興奮してきた後のラティモア。世界の趨勢があまりにも速く動いた後だったので、ラティモアは彼自身が舞台の上にいると気が付いた。
「新しい」ラティモアは、先日ボルチモアで開かれた市民集会で演説した。ほんの数か月前に「解消」したかったまさにその韓国を増強するトルーマン大統領の行動を、彼は温かく承認した。韓国における我々の政策は「道徳的にも政治的にも正当である」と述べた。ところでこれは、数か月前には資産というよりも負債であった、その韓国である。

朝鮮を分割したのは間違いだった、と言うのは朝鮮人は同質であるし、分割は問題を解決できないからだ、と彼は言う。
そんな!ヤルタとモスクワから5年を経て、我々がこの失敗した分割につき、ソ連に譲り渡したのは間違いだったと、ラティモアはとうとう判断する。昨年8月、有名なソ連寄りの報告書でアチソンに助言していたとき、ラティモアはそのような批判を受けなかった。

ソ連の傀儡・北朝鮮が38度線を越えて韓国へと入った進軍に、ラティモアは衝撃を受けた。そのような行為は緊急措置を要求するし正当化する、と彼は言った。
世界の他の地域におけるソ連ソ連の傀儡による領土の強奪に関して、ラティモアから、そのような要求や正当化が表明されたことはなかった。ラティモア氏が見るこの新しい光は、米国で起きてきた出来事が彼の共産主義寄りの立場を維持できなくさせたという、日和見主義の理解によってもたらされたものなのだろうか?

ディーン・アチソンは宥和策の信奉者だった。彼は今や強硬派だ。

オーウェンラティモアもその一人だった。彼は今、彼を遠くに置き去りにした出来事に(どのような意図であれ)お墨付きを与えている。

どうやらラティモアは、砂漠に追いつかれる前に、彼自身を共産主義寄りの立場から解消しようとしている。

アメリカ国民は、このずるい男が現在の地位に甘んじることに反発するだろう。
おそらく国民は、アチソンやラティモアのような男達の、その時点でもっとも利益がありそうな、陣営から陣営へと移り変わる、恥ずべき日和見主義を軽蔑するだろう。
どれほど過ちを犯そうとも、彼らの過ちの費用と苦痛とがどれほど国民を苦しませたとしても、政府の最上位の職に永久的な権利があると信じているように見える、ディーン・アチソンのような男の、信じられないほどの自負心に嫌悪感を抱き、怒りを感じても無理はない。

ディーン・アチソンは、長い間、合衆国政府内の、穏健なロシア寄りの一員とみなされてきた。

オーウェンラティモアは、長い間、ソ連の侵略を擁護し、共産主義政策への独特の親和性を示してきた。そのような男達が公職や公告 [public notice] を要求する権利にはどのようなものがあろうか?彼らはベッドを作ったけれども、それに寝転がろうとしない。
彼らは今、新しいモデルのベッドを欲しがっている。ロシアに対して頑丈なベッド。このような欺瞞、卑怯、はなはだしい日和見主義から逃れることを、彼らは許されるべきなのだろうか?