西安事件の密約と日中戦争(その1)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

Chiang Kai-shek’s “secret deal” at Xian and the start of the Sino-Japanese War

ティーブ・ツァン

 

 

Abstract
本稿では、新たに入手可能となった記録、特に蒋介石の日記と総統文書を用いて、1936年の西安事件に関する従来の解釈、とりわけ二人の反逆的将軍による中国の指導者の誘拐事件が日本の侵略に立ち向かう共産党との統一戦線を蒋介石に組織させたという広く信じられている解釈、さらには7カ月後に日中戦争が勃発したという従来の解釈に、異議を唱える。日中間の全面戦争は日本が起こしたのではなくて日本の挑発の後に蒋介石が起こしたものであり、統一戦線が形成されたのは、1937年8月に蒋介石が彼の最高の部隊に上海の日本軍への攻撃を命じて第一次世界大戦後の最大の地上戦へと変えた後であるとの解釈を提示する。けれども一月前の北京郊外での事件では、日本が挑発的かつ攻撃的に行動したと記されねばならない。蒋介石が戦争を決断したのは、西安で監禁されていた時に統一戦線を形成することを中国人共産主義者と合意したからではなく、西安で対日戦争においてソ連蒋介石を支援するという信号をスターリンから受け取ったからであった。蒋介石スターリンを正しく読み取り、8年間の対日戦争における始めの4年間、ソ連は中国への最大の武器供給国になった。従来知られていない、西安蒋介石がなした「密約」は、スターリンとの暗黙のものであって、中国共産党や現場にいた周恩来とは無関係であった。

 

Introduction
1936年12月の西安事件は歴史に残る事件だった。その結果、中国の指導者・蒋介石(中正)は再考し、その上、長らく重要性を有した彼の優先事項を翻した。それまで彼は、日本に対して中国を自衛するために必要とされる国家能力を構築する前提条件として中国共産党の根絶を公約し、華北における日本の絶え間ない侵略的な動きを遅らせるため妥協を利用した。西安で、日本の侵略に対抗するための実行可能な代案が存在するとわかり、日本の次の侵略的な行動に断固立ち向かうとの選択肢を与えた。その結果、1937年7月に華北で日本軍が盧溝橋事件を引き起こすと、蒋介石は日本人をなだめることなく、異なる局所的な事件を対日抵抗戦争 (1937年-1945年) の起点へと一変させた行動を起こした。

 

この一連の出来事は、貧しい中国北西部で生き延びようと奮闘する、疲労し酷く消耗した共産党の運命を劇的に変えた。これにより、共産党は戦争中に復活し、劇的・指数関数的に拡大し、最終的に1949年に中国本土の支配権を握ることができた。西安事件がなければ、日中間の全面戦争が1937年に始まったかどうかは疑問であるけれども、九分どおり長期に回避することはできなかった。蒋介石の根絶作戦における「最後の一押し」を共産党が生き延びることができたかどうかは分からない。確かなことは、1934年以降、蒋介石によってますます追い詰められてきた共産党が運命を逆転し、袋小路から抜け出すことができたことだ(中國共產革命七十年)。この事件の前に蒋介石ソ連だけでなく共産党とも並行して秘密交渉をおこなったにもかかわらず、共産党の根絶計画は西安での劇的な出来事の結果として終了した。共産党にとって転機であった。周恩来のような最高の共産党指導者ですら、その時それがわかった(周恩来選集)。

 
現存する学究的著作や事件当事者の自伝の多くは、西安での陰謀やドラマ、保安県の共産党本部、中国の首都南京、ソ連の首都モスクワに焦点をあてる。一つに一致する西安事件の物語は無いとはいえ、中国共産党は事件を企てなかった一方、事件を終結させる上で周恩来を通じて重要な役割を果たしたとの見方が支配的である。周恩来は、共産党との対日統一戦線の形成に同意させることで蒋介石の解放を保証したとされる。翌年の夏、日本が北京郊外の盧溝橋事件につけこんで上海でより全面的な攻撃を企てた時に、それに応じて蒋介石が中国を抗戦へと導いた、中国が日本に断固立ち向かう基礎を西安が形作った。本稿はこの従来の知識に挑戦する。

 

西安でのドラマとして魅力的なのは、日本の次の攻撃的行動の時、中国政府の対応決定にそれがいかなる影響を及ぼしたのかである。日中戦争に関する研究の大部分は、日本の絶え間ない侵略に対し、中国は最終的にいかに抵抗したかを言い繕う。西安事変と戦争の開始とを関連づける者でさえ、その事件が「蒋介石はもはや配下の軍隊に反共作戦を強いることができないと暗示したので国民党政府の立場を根本的に変えた」ことを事実とし、「新たな国民統合の雰囲気」と「更なる日本の挑発への抵抗を決意する」に口実を見つける。それは、実に「国民の雰囲気」が変わったという理由で、蒋介石が国家の存亡にかかわる問題に取り組む決断をなしえなかったという事実を見過ごす。事件が蒋介石の優先順位や政府のそれを変えたものの、より強力で決定的な要因が働いていた、というのが事実だった。


長年の事件の公式説明は、蒋介石が世間にどう思われたいかに基いており、反乱を企てて蒋介石西安に監禁した若き将軍の張学良が、蒋介石の日記を読んで日本帝国主義に抵抗しようとする蒋介石の決意に心を動かされ、方針を反転して解放したと主張する。これは歴史家の Young-Tsu Wong によって、正しく考慮に入れられなかった。また、ソ連拉致事件の解決に重要な役割を果たしたという、John Garver や Hans van de Ven による代替の解釈についても、Wong は退ける。

【以下、反対説の検討が続くので省略】

 

The incident
この事件の10ヶ月以上も前の1936年1月、西安反乱の指導者・張学良と共産党が秘密対話を始めたこと、その後すぐに張が共産党と取引関係を有していたことを、蒋介石は個人的に知っていた。実際、1936年12月4日に蒋介石西安に連れて行ったのは、中国北西部の共産党の残党を攻撃する張学良の指揮下の軍の失敗であった。蒋介石は、張学良の指揮を自ら監督することで、東北軍(張の指揮下)と第十七路軍(楊虎城・元西北軍司令官の軍団規模の部隊)が同地域の中央軍と協力し、共産党軍の残党に決定的な一撃を加えることができると考えていた。

 

蒋介石にとってこの反乱と誘拐事件は全くの驚きであったが、東北軍が反乱を起こすかもしれないという恐れは11月末に頭をよぎった(事略稿本:1936年11月25日)。蒋介石が捕らえられたとき、最初に明らかにしようとした問題は、赤軍に捕らえられたのかどうかということだった(朱文原編:西安事變史料)。張学良が本当に反乱を起こしたと気付いたのは、逮捕者が、張の精鋭警護連隊の者であり指揮官のところに連れていくと説明した後だった。蒋介石は、張学良と楊虎城がいた楊の司令部に連行される時に、西安の通りで第十七路軍の兵士たちが勤務しているのを見るまで、楊が共謀者であることを知らなかった(事略稿本:1936年12月12日)。

 

スターリン体制下のソ連の態度と共産党指導力西安事件の解決に決定的な役割を果たしたにもかかわらず、彼らが事前に知ることなく反乱はおこなわれた(張が物語ったスターリンの電報の主旨はソ連公文書館の電報によって裏付けられている)。二人の主な共謀者(張学良と楊虎城)は共産党とかなり対等な関係にあり、華北のパートナーとして共産党を含む大同盟を形成できればソ連の軍事物資を確保できると考えていたという事実にもかかわらず。蒋介石を拘束し、共産党との内戦を止めさせ、蒋と共産党を対日戦争に導くとの考えは、もともとは楊が提唱したものである(事略稿本:1936年12月15日)。張学良は最初ためらった。

 

1928年、日本軍の暗殺者に父親を亡くした張は、日本に抵抗する前に共産党を根絶しようとする蒋の決意に強い不満を持っていた。彼は再三、蒋に抗議しようとした。蒋介石西安に到着する以前の最後の試みは、1936年10月の終わり、山西省の指導者・閻錫山の後ろ盾を得て行われた(閻錫山與西安事變)。蒋介石はこれをはねつけた。これは楊にとっては問題の終わりだったが、張は、仮に蒋介石中央政府に逆らうようなことがあれば、楊は自分を支持するだろうと誤解した(閻錫山與西安事變)。

 

最終的に張と楊がこの極端な措置を真剣に検討するようになったのは、西安で自らが責任を全面的に引き受けるという蒋の決断だった。これは彼らを困らせた(杨奎松:西安事变新探)。彼らは、秘密休戦協定を結んでいた共産党軍を攻撃する蒋介石の命令を実行するか、福建省安徽省にそれぞれ再配備されて後ほど結果に直面するかの選択を迫られた。かくて張と楊は、蒋を誘拐して「最初に国を平和にする」政策を放棄させ、代わりに「最初に対外的な脅威に抵抗する」アプローチを取らせるという選択肢を模索した。彼らは、蒋介石西安に滞在した最初の6~7日、行動するという合意に至らなかった。

 

蒋介石(と西安に同行した上級将校ら)を拘束するという最終的な決定が下されたのは、二人の基本的な違いがいかに和解できないものであるかを明らかにした、張学良と蒋介石の12月10日の会談が感情的な口論の中で終了した後であった。日本の侵略に抵抗するよう政府に要求するデモに参加した学生たちに張が会いに行った翌日のことだった。1936年秋、中国の主要都市では教育を受けた人々の反日感情が高まっていた。

 

12月9日にデモ参加者の学生と会った張は、彼らの愛国心に感動した(在蔣介石宋美齡身邊的日子)。必要であれば彼らを鎮圧するよう治安部隊に命じられていたことを知った張は、解散するよう学生たちに懇願し、失望させなかったことを示すため一週間以内に何かをすると約束した(張學良口述自傳)。