真珠湾:ルーズベルトの9/11(その2)

 

ジェームス・パーロフ Pearl Harbor: Roosevelt’s 9/11 | James Perloff の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Roosevelt Provokes Japan
1941年6月23日、イッキーズ内務長官はルーズベルトに覚書を書いた。
「日本への石油の輸出を止める、またとない機会です。・・ほら、石油の禁輸は、効果的な方法で、しかも容易に、この戦争に参戦することを可能とするかもしれないような状況に発展するかもしれません。さらに、万一我々がこのような方法で間接的に引き込まれたとすれば、共産国ロシアの味方になったという批判を避けることができるかもしれません」。

 

覚書の日付は重要だ。ドイツとその同盟国(イタリア・ハンガリールーマニアフィンランドクロアチア)がソ連に侵入した、バルバロッサ作戦に乗り出した翌日である。

 

なぜイッキーズは、石油の禁輸から「容易に参戦すること」ができるかもしれないと述べたのか?答えは、海軍情報局のアーサー・マッカラム三等海佐により前もって策定された、日本に対する八項目の挑発計画にある。八段階の計画の最後は「大英帝国による類似の禁輸措置と共同して、あらゆる日本との通商を完全に停止する」であった。マッカラムの次の文は「これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴えさせることが出来るだろう。そうなれば、益々結構なことだ」であった。

 

マッカラム、イッキーズ、ルーズベルトが内心に描いたものは、アメリカを攻撃するところまで日本に敵意を引き起こすことであった。こうしてメイン号とルシタニア号の流れを受け継ぎ、「いわれのない侵略の無実の犠牲者」としてアメリカは戦争に赴くであろう。秋に大統領との会議の後、ヘンリー・スティムソン陸軍長官(外交問題評議会スカル・アンド・ボーンズ)が日記にどのように表現したかをここに。「我々は、日本のせいにし、最初に不正な行為・・明白な行動・・をさせることを確実にするため、やるべき外交の巧みな受け答えの繊細な問題に直面する」。「問題は、いかにして彼ら[日本]を先制攻撃する立場に操縦すべきかであった・・」。

 

ルーズベルトは1941年7月26日から8月1日にかけて、日本の在アメリカ資産を押収し、パナマ運河を日本の船舶に閉鎖し、マッカラムとイッキーズが主張した広範な輸出禁止を実施した。イギリスとオランダも同様の禁輸措置を講じた。日本人にとって、これは殺害の脅迫を構成した。日本は原材料の輸入に大きく依存しており、石油の88%、食糧の75%であった。

 

これらの措置のタイミングは、またも重要であった。1941年7月、あらゆる報告書は、ドイツとその同盟国が赤軍を打ち破っていると示していた。何十万人ものソビエト兵が降伏していた。彼らがしたように、多くが「スターリンはお終いだ!」と叫んだ。スターリンは恐怖でほとんど身がすくんだ。彼は侵略戦争を戦ったことがあるだけで、防衛のための準備ができていなかった。もしドイツの同盟国、日本が東からバルバロッサ作戦に加わっていたなら、スターリンは万力に挟まれ、イルミナティの創造物であった共産主義は破壊されていたであろう。

 

ルーズベルトの輸出禁止は日本がバルバロッサ作戦に参加しないであろうことを保証したけれども、代わりに日本の注目を南に向けたであろう。石油なしに戦争を遂行できる国はない。戦車、トラック、船舶、航空機には石油が必要だ。日本がシベリアを通じてロシアを攻撃した場合、押収される石油はないであろう。けれども南、蘭領東インドには豊富な石油があった。そして東南アジアには、ゴム、スズ、鉄鉱石など、禁輸が日本に拒んだ沢山の資源があった。

 

イギリスの歴史家、海軍の船長、ラッセル・グレンフェルは1952年に書いた。
「普通の情報を与えられている人は誰でも、日本が卑劣な奇襲攻撃をかけたと信じないものでなかった。だが、政府中枢部では攻撃は十分に予期されていただけでなく、実際上、欲せられていた。ルーズベルト大統領が戦争を欲していたことは疑う余地はないが、政治的理由から最初の攻撃が相手方から加えられることを望んでいた。そのため自尊心を持つ国なら、いかなる国でも武力に訴えるほかない地点にまで日本に圧力を加えたのである。日本はアメリカ大統領によってアメリカを攻撃することになっていた」。

 

1944年6月20日、イギリスの生産大臣、オリヴァー・リトルトンは、ロンドンのアメリカ商工会議所で述べた。「日本人が真珠湾を攻撃せざるを得ないほどにアメリカは日本を挑発した。アメリカが戦争を強いられたというのは歴史の歪曲である」。なぜリトルトンはこの驚くべき告発をしたのだろうか?(このため彼は後に謝罪を強いられた)

 

アメリカの禁輸措置の後、ワシントンの日本の代表者は、禁輸の撤回のために真剣に交渉したが、無駄だった。1941年11月26日、国務省は日本に最後通牒を手渡した。全ての海外の日本軍が日本に撤収されれば制裁は解除されるだろう。最後通牒ないし「ハル・ノート」は、表向きコーデル・ハル国務長官の名義であったけれども、ソビエトのスパイ、ハリー・デクスター・ホワイト財務次官補によって起草されたことが現在知られている。

 

ホワイト・ハルの最後通牒は計画的な不条理であった。もし日本がそれを拒否すれば禁輸は続行され、経済的な絞殺によって崩壊するであろう。もし日本が応じ、大陸からすべての軍隊を撤収したなら、共産主義は東アジアを席巻するであろう(まさに戦後に起こったように。共産中国、朝鮮戦争ベトナム戦争をもたらした)。こうして日本人は両面が表のコインを与えられた。飢えによって死ぬか、共産主義によって死ぬか。彼らは両方のオプションを拒否し、代わりに戦うことを決めた。

 

強大なアメリカとの戦争でなんらかの成功の希望を持つため、日本は有利が必要であっただろう。フランクリン・ルーズベルトは、魅力的な餌の形で彼らが釣れたことを確かめた。

 

The Decision to Base the Fleet at Pearl Harbor
1940年ルーズベルト大統領は、太平洋艦隊はアメリカ西海岸の通常の停泊地ではなく、ハワイの真珠湾に無期限に拠点を置く必要があると決定した。これは多くの理由で悪い考えであった。


・ハワイは太平洋の中央で無人水域に囲まれており、あらゆる方向から不意の攻撃を受けやすい。対照的に、もし艦隊が西海岸に置かれていたならば、奇襲攻撃を起こすことができなかったであろう。攻撃者はそこに到達する前に無数の商業船に遭遇したであろう。
真珠湾では、艦隊はイワシのように箱詰めされ、爆撃機の理想的な標的となった。
・ハワイでは石油などの物資は太平洋を2,000マイル渡って運ばれる必要があった。
真珠湾には適切な燃料や弾薬の貯蔵施設、乾ドック、支援艇が不足していた(曳船や修理船など)。もし艦隊が西海岸に維持されていたなら、優勢な戦時体制を維持できていたかもしれない。
・ハワイの人口の37%が民族的に日本人であり、諜報活動や破壊活動から艦隊を脆弱にした。
・艦隊をハワイに拠点化することは、船員を家族から分離し、士気の問題を引き起こす。

 

アメリカ艦隊司令官のジェームズ・リチャードソン司令長官は、ルーズベルトの決定に憤慨し、1940年10月8日に彼に面会して抗議した。リチャードソンは艦隊が真珠湾を拠点とすべきではない論理的な理由のリストを大統領に提示した。ルーズベルトはこれらの異論を反駁することができず、そこに艦隊を置くことで「日本の行動を抑制する効果」を及ぼすと述べただけである。

 

リチャードソンは語った。「彼が語った言葉にもかかわらず、もし彼が再選されるまでイギリスが持ちこたえることができたなら、アメリカを戦争に追いやると大統領は完全に決心していたとの印象を私は受けた」。

 

1941年2月1日、リチャードソンは何の説明もなく彼の指揮権を解かれた。リチャードソンは、そのことや関連事項について尋ねるため、海軍長官フランク・ノックスと面会した。「長官と会ったとき、私は『海軍での私の経験上、私と同じようなやり方で海軍将官を解任された話を聞いたことがない。理由を知ることが自らに課された義務であると思う』と言った。長官は大統領が私に手紙を送って問題を全て話すだろうと述べた」。けれどもルーズベルトはリチャードソンに手紙を送らなかった。司令長官が今までに受け取った唯一の説明は、ノックス長官の言葉であった。「最後に、あなたがここにいると大統領の感情を傷つける」。

 

真珠湾に艦隊の基地を置くためのルーズベルトの唯一の口実・・日本の侵略を阻止する・・は、1941年12月7日、圧倒的に信用を損なった。それにもかかわらず、我々が知っているように、ルーズベルトは決して彼の行動について説明責任を負うことはなかった。代わりに全ての非難はアメリカ海軍に向けられた。特に太平洋艦隊司令官としてのリチャードソンの後任・・ワシントンが脅威を指摘する情報を彼に通知するであろうと信じて地位を引き受けたハズバンド・キンメル提督。

 

この信頼は間違いであったと証明された。ワシントンは、日本が攻撃を準備しているのを見たとき、キンメルと彼のハワイのカウンターパート、ウォルター・ショート将軍を、情報の輪の範囲外に置き続けた。