ルーズベルトと盗聴器(その1)

 

Gary Kern, How “Uncle Joe” Bugged FDR 『どのようにスターリンルーズベルトを盗聴したのか』の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

近年、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の政治手腕が、とりわけ対ソ連事務の処理について、歴史研究の中で非難されてきた。状況は、FDRの医療記録を調査した精神科医までもが、第二次世界大戦の終わり頃、アメリカ大統領は「重度の鬱病にとらわれ」ていたので、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンに東欧の大部分を引き渡した、との意見を述べる事態に至っている。

 

確かに大統領の行動は疑問視されよう。けれども不審な政策は鬱以外の要因を根拠にし得るのであり、事実、当時は、総じてFDRに鬱は観察されなかった。むしろ次の諸要素が影響した。自らの弁舌[弁論能力]についての大統領の絶大な自信。彼のボルシェビキ独裁についての深刻な無知。スターリンに対する彼の人道的目的の投影。相反する証拠や助言に対する彼の確固たる抵抗。地政学的デザインに基づく彼の希望的観測(任命した顧問らによって考え方は支持・強化された)。まとめると、これらの要因は、米ソ関係や、現実との接点を表面的にしか持たない閃いた政策に、誤った見方をもたらした。適切な事例として、それらは思いもよらない行動…一度ならず二度までも、自ら進んで、監視の罠に足を踏み入れる… をアメリカ大統領に引き起こした。

 

本人が当惑する事態や情報の漏えいが生じる可能性を避けるため、同様に身体の安全を確保するため、通常、旅するアメリカ大統領は、盗聴器を見つけることができる器具でテーブルや壁を捜索した自国の大使館や外交施設に滞在する。けれどもスターリンと会うため海外に出かけたとき、ルーズベルトは戦後の権力分立の主要人物としてスターリンを掌握し、喜ばせることをひどく望んでいたので、そのような宿泊施設を主張しなかった。その結果、テヘラン会議(1943年11月)とヤルタ会議(1945年2月)のとき、彼はソビエトの宿舎に滞在し、盗聴された。歴代アメリカ大統領の中で唯一の事例である。

 

FDR’s Acquaintance With Bugs
ルーズベルトは監視技術になじみがあった。1939年、新聞が、わざと間違って彼の発言を引用したとルーズベルトが信じた事件に憤慨し、自衛の手段として秘密録音装置をホワイトハウスに設置した。ドイツのテープ録音技術はまだアメリカに伝わっていなかったので、何かが考案されなければならなかった。FDRの助手はアメリカのラジオ会社のデイヴィッド・サーノフに問題を持ち込んだ。1940年6月、サーノフは直接、映画のサウンド・フィルムを利用した「連続フィルム録音機」を大統領に提示した。楕円形の事務室に似合わない室内の金網ケースに収納された装置は、大統領が机の引き出しの中のスイッチを押すか、技術者が装置のスイッチを下方に切り替えると作動した。一つのマイクがFDRの机の照明装置を通って突き出した。


前例のない三期目に向けた選挙運動のさなか、1939年8月23日から11月8日の間に、彼の事務室で開かれた21回の記者会見のうちの14回と、幾つかの個人的な対談を、大統領は録音した。後者は手違いによるのかもしれない。彼は誰かを罠にかけるために装置を使用したことはないと思われ、彼がそれをやらなかった理由は誰も知らない。今日の侵害の基準に従って比較的無害であるけれども、これはスターリンとの会談よりも前に大統領が聴取装置を知っていたことの証拠になる。

 

テヘラン会議のまさにその年、彼は "モスクワへの密使"(アメリカの二代目駐ソ連大使、ジョゼフ・E・デイビーズの同じ題名の本をもとにした映画)を観て、隠しマイクを思い出した。大統領の賛成、あるいは明示的な要請で1943年に制作されたこの露骨なプロパガンダは、政治的なできちゃった結婚[訳注:当時の米ソ関係を指した筆者の皮肉と思われる]に対する大衆の熱狂を集めるように設計されていた。映画はスターリンを取引できる気取らない実務家肌の人物であると粉飾した。スターリンソビエト政治、政府、建設について熱狂的に語る。そして映画はソ連の血塗られた粛清、モスクワの見せしめ裁判、立場を逆転したヒトラーソ連に侵入した1941年6月に終了した二年間の独ソ不可侵条約を正当化した。

 

ソビエト制度についての批判を未然に防ごうと、デイビーズはわざわざ盗聴に対して短い場面まで設けた。モスクワのアメリカ大使館のワンシーンで、大使の助手がデイビーズに盗聴器を警告するが、彼は厳しく叱りつける。

 

――私はスターリンの面前で話さないことをクレムリンの外に話さない。あなたは?・・我々はある意味ソビエト政府の客としてここにいるし、彼らはそうでないと証明するまでは、アメリカを友人として信頼すると私は信じる。わかったかい?――

 

結局マイクがあるかもしれないと助手が食い下がると、デイビーズを演じたルーズベルトお気に入りの俳優、ウォルター・ヒューストンは、落ち着き払って彼をさえぎる。「それなら彼らに聞かせよう!我々はより早く友人になるだろう!」

 

この映画のシーンは実際の出来事に基づいていた。1937年、モスクワのアメリカ大使館で大使の机の真上に盗聴器が発見されたとき、本物のデイビーズはそれを笑った。彼の疑い深いスタッフ(ジョージ・ケナンやチャールズ・ボーレン、その他の熟練した国務省の外交官達がいた)に彼は語った。もしソビエトが盗聴したいのなら、彼らは、アメリカの誠実な、彼らと協力する意欲の証拠を得るだけであろう。

 

FDRは映画に大いに満足した。彼のソビエト政治の評価は、初代大使のウィリアム・ブリットよりも二代目大使のデイビーズにずっと近かった。デイビーズとは対照的に、ブリットはスターリン背信をFDRに警告する機会を逃さなかった。象徴的なやり取りにおいて、ルーズベルトは返答した。

 

――ビル[ブリット]、私はあなたの申し立てに異議を唱えない。申し立ては的確だ。私はあなたの推論の論理に異議を唱えない。私にはただ、スターリンはそのような人物ではないとの勘がある。ハリー・ホプキンスは、スターリンはそのような人物ではなく、彼の国の安全保障の他には何も望んでいないと言うし、思うに、もし私ができるかぎりの全てを彼に与えて見返りを求めなければ、ノブレス・オブリージュ[高貴な者の義務]、彼はどこかを併合しようとはせず、世界の民主主義と平和のために私と一緒に働くであろう。――

 

FDRの勘・ホプキンスのスターリンを賞賛する報告・デイビーズソビエト体制への果てしない信頼は、ついこの間のヒトラーの味方・歴史上最大の大量殺人者・全世界への共産主義の拡散に専念する国家と政党の唯一の支配者に関する、疑いない事実に対する大統領の反論であった。

 

Missions to Moscow
スターリンについて正しい情報を持っていると考えたFDRは、スターリンに会いたいと欲し、彼の名高いカリスマをスターリンに向けて、スターリンと共に個人ベースで世界情勢を決めた。早くも1942年3月、ウィンストン・チャーチル英国首相に彼は書いた。

 

――貴国の外務省や我が国務省よりも、私自身の方がより上手くスターリンを取り扱うことができると思う。スターリンはあなた方首脳陣の気概を嫌っている。私の方が好きだとスターリンは思っているし、そう思い続けてくれることを私は望んでいる。――

 

FDRは間違いなく誤って"ソビエト連邦"を招集してしまったので、この確信に先導されて彼は"ロシア"に向かって一直線の方針に舵をとった。揺るぎないスターリンの懐柔で直接会談を終えた。

 

この方針を進めるため、彼は大いにデイビーズに頼った。1943年3月、当時の駐ソ連大使のウィリアム・H・スタンドリー提督が、ソ連当局がアメリカのレンド・リース援助の規模をソ連国民に秘密にしていたことにモスクワで不満を述べたとき、FDRはスターリンが立腹することを恐れた。ルーズベルトはスタンドリーを厳しく非難し、モスクワでの唯一の彼の目的はソ連との「最大限の友好的な協力」であると伝えた。


ほどなく大統領はデイビーズ前大使に新しい任務を託した。モスクワに飛んで、アメリカ大統領がどれほど彼を尊敬していて、どれほど特別な関係を作りたがっていたかを非公式にスターリンに伝えた。それを証明するため、デイビーズはFDRが差し向かいで面会したがっていると暴君に伝えることになっていた。

 

1943年5月の出発の前に、デイビーズは内覧に供するため、モスクワ任務についての刷りたての印刷物をホワイトハウスに持ってきた。閲覧の後にデイビーズは、大統領がスターリンのために用意した封印された封筒とともに、そのコピーをモスクワに持参することの許可を得た。

 

デイビーズがモスクワに到着したとき、事前に任務を知らされなかったスタンドリー提督は、嫌気が差して辞任した。デイビーズクレムリンスターリンと会い、その手紙を読んだ。彼は、アメリカ政府のイギリス帝国主義の不承認を強調し、イギリス抜きで米ソが世界を統治できる可能性を露骨にほのめかした。同盟国イギリスを裏切り、現職の大使を退治したデイビーズは、そうして「モスクワへの密使」を鑑賞するためスターリンと映写室に引き上げた。彼の映画の独裁者の美化は、大いに落胆したことに、絶賛されることなく不評を得ただけであった。けれどもデイビーズは訪問の目的を達成した。スターリンはアラスカでFDRと会うことに同意した。デイビーズの伝記作家、エリザベス・キンボール・マクリーンは、それを「彼の外交官職における大金星」と呼ぶ。

 

デイビーズの外交官職での他の金星と同様に、その金星はつかの間のものと判明した。スターリンは故国から遠くに移動するつもりはなかった。彼は会議を延期し続け、いらいらさせておき、そしてFDRに嘆願させた。かつてはFDRの身体的障害に譲歩していたスターリンは、それが大統領にとって余分な難儀となるにもかかわらず、今や開催地にイランの首都を主張し始めた。1943年10月25日、ルーズベルトは「私は六千マイルを旅しなければならず、あなたはロシア領から六百マイルを旅することになる」と指摘した。ルーズベルトは「この危機的状況で」彼を脱落させないようにスターリンに懇願し、見苦しく「あなたに請うている」と書いた。

 

その後、それにもかかわらず別の「モスクワへの密使」が成果を挙げるかもしれないと考えて、ルーズベルトは心を痛めた年老いた国務長官コーデル・ハルにこのクレムリンへの手紙を持たせて派遣し、なんと偉大な指導者であることかと暴君に再び伝えた。けれどもスターリンは媚びた賞賛に慣れており、ほだされることはなかった。スターリンは、赤軍元帥の彼の任務の方が、ルーズベルトアメリカ軍最高司令官の任務よりも重いとほのめかしながら、前線から遠くに離れることはできないと述べた。結局、スターリンの硬直化を確信したFDRは、屈服した。11月8日、彼はモスクワに承認の電報を送った。テヘランスターリンと会うため海外にいる間に、ルーズベルトはワシントンでの多忙スケジュールを破り、議会法案の署名の手はずを整えることができた。

 

ソ連大使スタンドリーの後継者、W・アヴェレル・ハリマンはこの降伏文書をクレムリンまで持参し、スターリンは病気であると言われていたので、ヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員と面会した。モロトフは、その場所はまだ確実でなく、スターリンソビエト国にとどまる必要があるかもしれないと示唆しつつ、大使を軽々しく扱ったので、ホワイトハウスに警告文書を送る気持ちをハリマンに引き起こした。けれども翌日、スターリンがワシントンのソビエト大使館を通じて取り決めを承認したので、ルーズベルトは何かを達成したと感じた。翌11月11日、ルーズベルトはその場所を受け入れるようチャーチルに促し、ルーズベルトチャーチルとが「団結した」とスターリンが思うことを恐れて、首相と二人きりでの事前の会議という案を却下した。スターリンは、彼の利益を最優先に行動するFDRを手に入れた。

 

参考リンク:「これほど誤解されていた指導者はない」:ハリウッドが親ソ映画を撮っていた頃