Gary Kern, How “Uncle Joe” Bugged FDR 『どのようにスターリンはルーズベルトを盗聴したのか』の翻訳です。
機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。
Stalin’s Acquaintance With Bugs
スターリンにとって、敵も味方も盗聴することは、欠かせない政治の一部だった。スターリンは1920年代初頭から、専用回線で話している他の政治局員の密談を聞くため、クレムリンの彼の机の下に特別な電話を持っていた。ウラジーミル・レーニンが死の床に横たわり、死去した1924年までの4年間の党内闘争の間・・他のクレムリンの回線と同様に電話交換手が存在しなかったので、新式の vertushka 電話[クレムリン直通の内線電話システム]は安全だと信じて包み隠さず話していた全ての同志を、スターリンは盗聴することができた。スターリンは翌朝、彼らが夜間に考えたことを魔法のように知って、毎日彼らの裏をかき、最終的に大部分を射殺した・・のではない。
スターリンの特務機関であるNKVD、すなわち内務人民委員部は、ボリシェヴィキ党の全体主義統制を強化するため、あらゆる種類の機械的な目と耳を全国に施した。国境の閉鎖、国内用パスポート、報道の検閲、政治的粛清、強制労働収容所・・ソヴィエト体制のこれらの特徴はすべて、モスクワへの密使ですら認めていたように、1930~1940年代の一般常識であったけれども、デイビーズに似ていたFDRはそれらを無視した。彼は批判を望まなかった。ブリットやスタンドリー、もしくは例えばカチンの森でのソ連によるポーランド人将校の虐殺を気に掛けていたどんな人からの批判であっても。勝利に向けて統一された戦争努力を維持するため、戦後民主主義のために働くため、彼がアンクル・ジョー[Uncle Joe]と好んで呼んだヨシフ・スターリン["Joseph" Stalin]を、ルーズベルトは喜ばせたかった。1940年8月、メキシコにいたレフ・トロツキーの暗殺を命じ、最も親しい党の同志達を粛清し、妻を殺害したと広く信じられている人物と親しくなることが、ルーズベルトの第一の目的だった。トーマス・フレミングが The New Dealers' War: FDR and the War Within World War II で言及したように、チャーチルはかつて、スターリンと提携することは「人殺しと握手する」ことと同じになると述べた。これもルーズベルトがスターリンに熱中する前の話だった。
Security Alarms
ルーズベルト大統領は、大統領専用機ダグラスDC-4でカイロからテヘランへと8時間かけて旅をし、冗談で「神聖な牛(神聖にして冒すべからず)」と呼ばれた。彼がカイロに来たのは、国民政府の指導者・蒋介石と、彼が冷たく扱った第一の友好国のウィンストン・チャーチルとの五日間の会議のためだった。カイロに滞在中、テヘランでの会談を成立させるため、彼はスターリンと連絡を取った。当然、各国政府は、国家元首(大統領、元帥、首相)のため、自国の大使公邸に滞在する計画を立てていた。そのような事柄は自国を離れる前に決定される。
戦時中、イランは占領された国だった。ソ連軍とイギリス軍が領地を分割する一方、アメリカ軍はその国を通じてソ連へのレンドリース物資の輸送を容易にした。イラン人は飢餓同然の状況にあったので不穏だったけれども、同盟国は情勢を掌握しており、この地域からのリスクはほとんどなかった。首都では占領軍は厳重なセキュリティを維持し、至る所にある検問所で文書を見せるよう、車両や歩行者に義務づけた。ソ連と英国の大使館はそれぞれ、街の中心にある塀に囲まれた公園の中に、背中合わせに建っていた。アメリカ大使館はそれよりも狭い、塀に囲まれた白人居留区の中にあり、わずか一マイル離れた場所にあった。三つの大使館はどれも武装警備員によって防備を固められた。会議の場所は安全だった。
それにもかかわらず、カイロに到着した1943年11月22日、FDRはテヘラン用の計画の変更を示唆し始めた。モスクワのスターリンに彼は書いた。
――我々が互いにあまりにも離れて宿泊したとすると、車での移動中や会議の際、我々三人全員が不必要な危険を冒すことになると私は忠告された。我々はどこに宿泊すべきだろうか?――
ルーズベルトに助言をした人物は定かでない。ある時点で英国大使館に泊まるよう招待したチャーチルかもしれない。いずれにせよ、翌日、1930年代のモスクワでの見せしめ裁判で悪名高い検事で、そのときは外務人民委員次席だったアンドレイ・ヴィシンスキーが、アメリカの駐エジプト大使、アレクサンダー・C・カークの別荘にいたルーズベルトを訪問した。敬意を表した後、ハリマンと通訳のボーレンに付き添われたヴィシンスキーは、テヘランにいる間、ソ連大使館に滞在するよう大統領を招待した。FDRは辞退した。訪問の後、ルーズベルトは、警備員のマイク・レイリーに、アメリカ大使館に宿泊する方がよいし「客の立場で望みうるものよりも自由がある」と述べた。
そうして大統領はレイリーをテヘランに派遣し、警備状況とテヘランに行くことができる列車のルートを調べた。彼の医者は高高度の飛行よりも列車の方が健康に良いだろうと考えた。
レイリーはイランへの低空飛行経路をテストし、ソ連の滑走路 Gale Morghe 空港に着陸し、ソ連の警備係に会った。後の回顧録でレイリーは担当者を Artikov 将軍と回想したが、NKVD(内務人民委員部)の輸送部門長で43歳の役人、Dmitry Arkadiev 将軍だった可能性が高い。レイリーは本当のNKVD長官と面会したことがなかったけれども、ラヴレンチー・ベリヤが居合わせており、彼は目立たなくしていた。Arkadievは直ちにレイリーをソビエト大使館へと連れていき、館内を案内する際に、前日ナチスの落下傘兵がこの地域に飛び込んだとNKVDは知ったけれども、まだ逮捕されていないと彼に話した。彼らの目的は恐ろしいものになるはずだ・・世界の指導者達の誘拐や暗殺、それか重要な軍事基地の破壊かもしれない。
テヘラン会議の正確な日付はまだ確定していなかったけれども、ナチスは見通しを知っていた。ドイツのラジオ放送が今月末のテヘランでのビッグスリーの会議を公表したと、11月22日、ニューヨーク・タイムズ特派員のジェームス・レストンがロンドンから報じた。ナチスが参加者の暗殺を企てていたとすれば、彼らがなぜ秘密会議を公表したのか理解に苦しむ。彼らはFDRとチャーチルとの大陸間の電話通話から会議について知ったのかもしれず、1942年3月にドイツ諜報部が技術的障害を突破した後は、通話は全て傍受された。
レイリーは英米家屋の査察を進めて、彼の得意分野・・防衛区域を広げて警備員を倍増した。百人の米兵があらゆる不測の事態に備えて大使館の敷地にテントを張った。ソ連・英国・米国の警備部門は、街の至る所でナチスのスパイの連絡網を探った。一方レイリーは、鉄道経路を評価するためイラクのバスラに飛び立った。
彼が戻ってすぐにナチスのスパイ、"フリッツ・メイヤー"が拘束されていると知った。いくばくかの説諭の後、マイヤーは、落下傘兵から接触を受けることを期待していたと認めた。けれどもこの情報もまた誤りだったように見える。なぜなら英国が、フランツ・マイヤーと彼の機能しないテヘランの連絡網を追い詰めたのは8月だった。それにもかかわらずレイリーはその陰謀を深刻に受け止めた。レイリーは飛行機でカイロの大統領の所に戻り、彼の不在時にはNKVDと協力するよう、部下に指示を残した。
彼は、飛行機が山々を抜けて低空で飛行できると実証したので、テヘランまで直接飛行するよう大統領に助言した。列車のルートは保安上の危険のみならず、不潔な臭気や寄生虫の問題もあると報告した。アメリカの土地建物は適切十分であり、大使館と大使館との間の移動は安全上の問題をもたらさないとレイリーは述べた。
Changing Places
他方で11月25日、スターリンは「我々はどこに滞在すべきだと思いますか?」と、簡潔ながらも暖かい提案とあわせてFDRの質問に回答した・・「11月28日の晩、私はテヘランであなたのお役に立てるようにするつもりです」。大統領が11月27日に到着する予定であることを知り、スターリンは計画を変更して26日に飛行機に乗った。このようにして、スターリンは落ち着く時間を得ただけでなく、ホストとして現れることもできた。
スターリンが到着した日、ソ連の代理公使が、ルーズベルトの個人使節の一人、パトリック・J・ハーリーに会いに来て、ソビエト大使館に大統領が滞在するよう、もう一度招待した。ハーリーはFDRの指図に従い、大統領は自国の大使館に滞在すると決めたと述べて、丁重かつ固く辞退した。けれども彼は提供された六部屋のスイートルームの視察に出かけた。その後ハーリーは、自国の邸宅に滞在するよりも間取りが広く、より快適安全であるとFDRに書いた。
綿密な策略は型通りのダンスのステップに差し掛かりつつあった。FDRとスターリンはどちらも、それぞれの理由から、アメリカ大統領がソ連大使館に滞在することを強く望んでいたけれども、二人とも熱望しているようには見せたくなかった。FDRは言い寄られる必要があった。スターリンは冷静にならねばならなかった。二人とも大統領の宿泊施設を変更するための客観的な理由が必要だった。ナチスの暗殺の脅威がこの要件を満足させた。けれどもダンスはおこなわれなかった・・それは大胆な足踏みと混乱の時間だった。
ルーズベルトは午後3時にイランに到着し、武装した護衛の下に米国大使館まで送られた。彼はかろうじてわずかな休息を取り、スターリン元帥と晩餐を共にできれば大変光栄であるとソ連大使館に伝えた。スターリンは十分に休養していたけれども、どんなに厳重な警備であろうとも外国の街に乗り入らないと決意していた。あまりにも疲れていると彼は返事した。FDRは次にチャーチルを招いたが、首相はカイロ会議の閉会式で長らく語ったことから喉を痛め、ディケンズの分厚い本を手にして早く就寝するつもりだった。FDRはスコッチ・ウイスキーで慰めた。FDRの車いすのために設置された昇降台によって貯蔵室が塞がれていたので、随員は彼をひどくうらやんだ。ふさわしいハイレベルの同伴に欠けていたので、FDRは新たな策略を考案した。
午後6時、ハリマンはモロトフに電話をかけて、11月25日の、スターリンの文書での招待に対する大統領の返答を示した。同様に提案してきたイギリスを動揺させたくないので、大統領はノーと言わざるを得ない、とハリマンは述べた。モロトフは、宿泊場所は当然大統領の選択であるが、「万一支障が生じた時のために」部屋を利用できるままにしておくと答えた。次にハリマンは、翌日午後に米国大使館で最初の会議を開催することを提案し、モロトフは隣室のスターリンと相談したうえで合意した。
ルーズベルトは、スターリンは「得やすい」との彼独自の理論を試しながら、彼自身は得難いふりをしていた。FDRは宿泊地が十分なものであると述べて、ペルシャ王からのゴリスタン宮殿に宿泊する勧めを断った。彼は地元の国家主席を称えることで事態を複雑にする必要がなかった。
そうしている間、NKVDはレイリーに連絡を取り、ナチスの計画を詳しく語った。38人の落下傘兵が着陸し、ソ連の警備員が6人を除いて捕えたと Arkadiev はレイリーに語った。レイリーは捕虜を一人も見なかったけれども、それでもやはり、最高の警備員でさえ、ビッグ・スリーを送る時や通りを通過する時に、狂信的な暗殺者の暴行を止められないかもしれないと心配した。
真夜中、モロトフは、会議場所についてのスターリンの承諾を取り消すため、ハリマンと、イギリスの駐ソ連大使・アーチボルド・クラーク・カーを緊急に呼び出した。二人の大使が到着した時、モロトフは「示威運動」があるかもしれず、それは「狙撃」であろうし、無実の見物人が傷つくかもしれないと語り、彼の解釈によるナチスの陰謀を示した。大量殺人は国際的な醜聞を引き起こす。モロトフは詳細を述べることを拒否したが、念のため、大統領のために準備された宿舎の見学にハリマンを連れて行った。この時までに、事実上、大統領を除いた全員が部屋を見ていた。翌日の会議の場所は不確かなままであった。
翌朝、ハリマンは役員会議を招集し、陰謀に基づく情報をFDRに提供した。細部の描写は大雑把だったけれども薄気味悪かった。もしこの話が真実であれば、移動の必要のゆえに、そしてアメリカの敷地内から、三人の指導者の生命が危険に晒されることになる。最終的な決定をしたレイリーは同意した。我が大使館よりも、英かソ連の大使館いずれかがより良いだろうと彼は述べた。けれどもイギリスの居住区もまた視察され、ソ連の宿泊施設よりも劣っていると思われたので、FDRには少なくとも面目を保つことができる理由があった。彼は独裁者と一緒に移動し、彼の考えをチャーチルと共有する不都合なしにスターリンと二人きりの時間を過ごす必要があった。そのときルーズベルトはスターリンに近づくことができた。