日本の政策と米の防衛線

 

Papers relating to the foreign relations of the United States, Japan: 1931-1941. Volume 2

p.133-135, p.136 からの翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

The Ambassador in Japan (Grew) to the Secretary of State
Tokyo, January 27, 1941—7 p.m.
[Received January 27—9:55 a.m.]

 

今朝、初めて、当地で公表された、昨日の衆議院予算委員会における松岡外相の発言を要約すると、以下のようになる。

 

1.日米が議論に取り組む期間は過ぎたけれども、質問者が問題を提起したゆえ、ハル長官の陳述のある点は説明を要する。彼の陳述は誤った考えに基づいており、彼の言葉は暴力的である。満州事変が文明の破壊の第一歩であるという主張は表面的な見方に基づいている。むしろ、アングロ・サクソンの東アジア現状維持への支援は、そのような現状が日本を害した場合を除き、非難されなければならない[原注:原文のまま]。中国の抵抗は、大部分がアングロ・サクソンの奨励に起因するはずだ。極めて寛大な日本の政策は、日本がすべての侮辱を被るはずだと中国人に考えさせたにすぎなかった。伝来の日本の忍耐力はとうとう尽き果て、盧溝橋の攻撃が実行された[訳注:下記2月10日付の報告を参照のこと]。


2.アメリカの政治家達は日本の政策を理解したくない。我々は努力しているけれども、アメリカ人に熟考を促すことに失敗している。「アメリカは日本の考えや行動を正しく理解していないので、我々は自らの目標に向かって進むほかに方法がない。アメリカの視点に適応するように我々の信念を変えることはできない。アメリカを直視するほかないけれども、我々は、失望や絶望することなく、彼の国が有する根本的な誤解を正そうとし続けるだろう」。


3.前の二つの内閣の任期の間に、日本と折り合いをつけようとの、アメリカ政府側の努力があったようだ。この点においてハル氏は赦される。しかしながらアメリカの条件は、日本軍の中国からの撤退、日本の大陸や南進政策の50%縮小および放棄であると明らかになった。「帝国において、これらの政策の放棄に同意する日本人は一人もいないであろう」。このアメリカの要求は、日本からアメリカへの友好の申し出のお礼に、モンロー主義を放棄し、西半球における優越は誤りであると認め、直ちにフィリピンに独立を付与するに等しい。

 

4.アメリカは、全アジアと南太平洋とを防衛の最前線と考えているようだ。日本の西太平洋の支配は、その国家的理想を達成するため絶対に必要である。「私が用いた’支配’という言葉は極端に思えるかもしれないし、我々にそのような計画はないけれども、それでもある意味では支配したいと我々が望んでいるとの事実を隠す必要は存しない。日本が西太平洋を支配したとして、異議を申し立てるいかなる権利がアメリカにあろうか?」。「外務大臣として、このように主張することは遺憾であるが、アメリカが日本の正当な主張や行動を理解していないのであれば、日米関係の改善に対する望みはわずかにもない、と私は宣言したい」。アメリカの態度に変化をもたらしうるとの、残されたわずかな望みを、日本はまだ諦めないであろう。


5.アメリカの強固な態度は、日本の軍事力が弱体化しているとの幻想や、日本の影響力を有するある筋が密かに三国同盟に反対しており、アメリカが参戦しても日本はその義務に従わないであろうとの噂に、部分的に起因しているかもしれない。けれども、条約第三条の規定は、アメリカに対する明白なドイツの攻撃を除いて、ほぼすべての場合に発効するであろう。三国の協議を経て条約が実施されたのであれば、日本が、理由なしに狭義の見解を採ったり、その帰趨に国家の命運を賭することを意味するとしても、自国本位の利益のために戦争に傍観し続けるとは考えられない。

 

6.ソビエトロシアとの関係はかなり改善された。重要な条約の交渉を開始することで合意に達した。英米両国は日露関係の進展を最大の関心事として注視している。

 

Grew

 

 

 

The Ambassador in Japan (Grew) to the Secretary of State
[要旨]
Tokyo, February 10, 1941—3 p.m.
[Received February 10—7:48 a.m.]

 

大使館からの1月27日の電信の、第一段落の最後の文に関し、大使は、翻訳の不適切な誤りのため、柳条湖事件と盧溝橋事件とが混同されたと述べる。日本の外務大臣の言及は、1937年7月7日の盧溝橋事件ではなく、1931年9月18日に柳条湖で起こった事件についてであった。以下がその陳述の翻訳。「伝来の日本の忍耐力はとうとう尽き果て、柳条湖に一撃が加えられた」。松岡氏が用いた表現は、必ずしも日本が最初の攻撃をしたとは断言していない。入手可能な陳述の公式文書は無く、各新聞に掲載されている記事は、国務省に送付された文章とは若干異なっている。

 

Grew