マーティン・ダイズの物語

 

マーティン・ダイズ著 Martin dies' story. | HathiTrust Digital Library

p.143-148 からの翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

1940年、第五列 [スパイ] に対抗する活動において、政府の法執行機関の協力を要請するため、私は大統領に電報を打った。大統領は、オレンジ郡 [テキサス州] の私の自宅に電話をかけてきて電報を認識したと語り、状況を詳しく調べたいので、その晩、ワシントンに発つことはできるだろうかと聞いてきた。彼の友好的な口調に期待を膨らませた私は、12時に予定されていた会議へと到着し、そして一時間近く待たされた。とうとうドアが開き、ウィリアム・ダッドリー・ペリーの偽造手紙のための代金をデイビッド・メインに支払った男、ガードナー・ジャクソンが、外に出て行った。フランク・ユージーン・フック下院議員は、この手紙で委員会を破壊したいと望んでいた。


私が中に入ると、ルーズベルトは速記者に会話を書き留めさせた。そうすることはそれほど珍しい事ではないのかしらと尋ねると、彼は、「まあ、誰にとってもそれが最善だと思う」と答えた。「コピーを貰えるならそれで構いません」と述べると、大統領は「あなたはコピーを受け取ることができるよ」と答えた。


何千人もの共産主義者やその手先・同調者が政府に雇用されているという事実を我々が証明した、それから「大統領、我々はこれについて何かをしなければならない。それら人物の大部分のリストがここにある。共産主義者が統制する組織における、彼らの所属記録を持っている。もしあなたが共産主義者を私と同様に理解したとすれば、彼らが政府にいるのはただ一つの目的のため、つまり、モスクワに渡すため、重要な軍事・外交機密を盗むことであると、あなたはわかるでしょう」と述べた。

 

大統領は激怒した。 私は彼の怒りに驚いた。大統領は私のことを「議員殿」と呼んだ――彼は私を「マーティン」と呼んだことがある――「議員殿、あなたはどんなベッドでも、その下にお化けがいないかと確かめるに違いない」。「いいえ、私は決してベッドの下を見ません」私は答えた。「やれやれ、この件に関して、こんな大袈裟な考えを持つ男は見たことがない。私はあなたと同じように共産主義を信じないけれども、この国の共産主義者には何の問題もない。私の親友の何人かは共産主義者だ」。

 

我々は一時間以上も協議し、私は政府の内部で何が起こっているのかを詳しく話した。私は彼に、共産主義者たちが政府のファイルから欲しいものはなんでも盗んでいること、枢軸国が我々の差し迫った脅威である一方、長期的に見れば、共産主義は自由世界に立ち向かうこれまでで最大の脅威になるであろうことを話した。私は、共産主義者が統制する労働組合や偽装組織についての我々の調査結果を、大統領のために振り返った。ソ連が我々の産業・軍事・科学・外交上の秘密を盗み、我々からの財政支援を得たとすれば、ソ連は、やがてアメリカと同じくらいに、もしくはそれ以上に、強くなるであろうと警告した。


大統領は述べた。「私はあなたに同意しない。私は、共産主義者を、我が国に対する現在または将来の脅威とはみなしておらず、実際、ロシアを、近い将来で最も強力な同盟国と目している。あなたが調査を始めたときに言ったように、あなたはナチスファシストに限定すべきである。私は共産主義を信じていないけれども、ツァー[ロシア皇帝]政権下よりも共産主義下のロシアの方がはるかに裕福だし、世界はより安全である。スターリンは偉大な指導者であるし、彼の手法のいくつかを遺憾に思うけれども、それは彼の政府を守ることができる唯一の方法である」。

 

民主党自由主義の成因を私は傷つけた、と大統領は言った。私は丁重に反論し、共産主義者は自分たちの目的を推進するために自由主義者を利用してきたけれども、やがて自由主義者は、共産主義が、世界が知るどのような政治運動よりも反動的であることに気づくであろうと指摘した。私は彼に、共産主義の公然たる目標は世界征服であり、われわれの秘密の窃取、技術や資金を費やすことは、ロシアを世界の脅威になさしめるであろうと警告した。

 

我々の見解はあまりにもかけ離れていたので、それ以上議論しても無駄だった。それにもかかわらず、私は大統領に、我々の活動を調整するため、司法省や他の連邦政府機関が委員会に協力するよう、指示するように求めた。彼は、ジャクソン司法長官と相談し、協力や調整について、委員会の代表者と意見を一致させるための会議を手配すると約束した。私は、司法長官にあまりにも好かれていなかったので、ジェリー・ブアヒス下院議員(カリフォルニア州民主党)を指名した。政権が、労働組合・政府機関・偽装組織に従事する共産主義者の、どんな調査にもどうしても同意しなかったので、何も達成されなかった。

 

約束した会議のコピーを受け取っていなかったので、大統領秘書に電話した。三度目の電話で秘書のマッキンタイアは、大統領はコピーを一切譲渡しないと決めたと告げた。あの日、大統領が表明した見解は、その後の出来事にヒントを与えたであろうから、大統領が約束を守らなかったことは残念だ。それらは、スターリンへの譲歩や、ソ連に関する戦後政策を説明しただろう。

 

ルーズベルトスターリン間の手紙のいくつかはモスクワで出版されており、次の段落はその抜粋の要約である。

 

ハリー・ホプキンスは1941年7月にモスクワを訪問した。早くも1941年8月に、大統領は、ソ連と妥協するようフィンランドに外交的圧力をかけていた。1941年11月上旬、大統領は、スターリンが要求した軍用機器・軍需品・原材料を、すべて供給すると約束した。「経済的な難点を回避するため」、十億ドルまでの船積みは、無条件・無利子で即時に実施するよう指示した。1942年2月中旬までには、彼はこの信用を倍増させ、言うまでもなく最終的な市民の税金は総額110億ドルになり、それは一度も返済されたことがないと思われる。1942年10月7日までには、スターリンは「少なくとも、五百機の戦闘機、八千から一万台のトラック、五千トンのアルミニウム、四千から五千トンの爆発物」の毎月の配送を請求していた。1943年1月13日までには、スターリンは、オマール・ブラッドレー将軍の訪ソを傲然と拒絶し、しかもジョージ・マーシャル将軍が来る理由はないと露骨にほのめかしていた。「この問題に不確実性があってはならない」とスターリンは述べた。1943年4月21日、スターリンは、ソ連が一万五千人のポーランド人をカティンの森で殺害したという完全な真実の告発に怒り狂った。したがって1952年の議会調査まで事実は差し止められた。

 

ルーズベルト大統領は、フランシス・スペルマン大司教(後の枢機卿)以上に、誠実で献身的な友人や、熱心な崇拝者を、有したことはなかっただろうと私は思う。1962年に出版されたスペルマン枢機卿の伝記には、1943年9月8日の大統領との一時間半の会談を含む、大司教のファイルからの覚え書きが含まれている。

 

彼の外交覚え書きは、ルーズベルトが長年にわたって私に表明した見解と完全に一致している。具体的には。大統領が、ロシアは我々の生来の同盟国であると述べたこと。ツァー政権下よりも共産主義下のロシアの方がはるかに裕福であると述べたこと。さらに、ロシアは世界の約40%を獲得し、資本主義体制は60%を維持するであろうと考えたこと。

 

スペルマン枢機卿は、世界は勢力圏に分割されるであろうとルーズベルトは述べた、と記録した。中国が極東地域を、米国が太平洋を得て、英露がヨーロッパとアフリカを分配するであろう。ロシアがヨーロッパで優位を占めるであろう。枢機卿はさらに報じた。ルーズベルトは、スターリンとの意志の疎通において、チャーチルよりも自分の方がより適していると信じていたこと。スターリンは、必ずや、フィンランド、バルト諸国、ポーランドの東半分、ベッサラビアを受け取るであろうこと。スターリンに対立しても無駄である、というのは、彼には権力があるし、彼らに潔く与える方がより良いからだ。スターリンがこれらの境界線に満足するかどうか絶対的な確信はなかったこと。

 

ルーズベルトは、ほぼ間違いなく共産主義体制が拡大するであろうけれども、どうすることもできないと考えた。ヨーロッパ諸国がロシアに適応するためには、途方もない変化を耐えなければならないだろうし、十年か二十年が経てば、ヨーロッパの影響がロシア人の野蛮を減じるであろうとルーズベルトは願った。

 

ロシアがヨーロッパの資本主義経済の40%を得ることをルーズベルトは望んだ、と大司教は書いた。そうすると資本主義者は彼らの体制の60%だけを維持することになろうし、合意は可能であろう、しかもその見解は、ソビエト外相、マクシム・リトヴィノフのものだった。

 

 

[参考資料] The Monitor, 9 March 1962