ブリット:外交官で予言者(その2・完結)

 

William C. Bullitt: Diplomat and Prophet

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

ブリットは1932年、フランクリン・ルーズベルトの大統領選挙と同時に公的生活に復帰した。ブリットはルーズベルトの選挙運動に取り組み、将来の大統領に演説を書き、外交政策を助言した。ブリットは、選挙の後だがルーズベルトが大統領に就任するよりも前に、やがて始まる政権の秘密の要請を受けて、「民間人」として二度ヨーロッパへと渡った。この旅の間、ブリットは、らしくない見立て違いをルーズベルトに報告した。「ヒトラーは終わった・・・独裁者候補として。・・・ヒトラーの影響力が急速に衰えているので、ドイツ政府はナチス運動の拡大をもはや恐れていない」。一か月後にヒトラーがドイツ首相に任命されたので、ブリットは、ドイツ政府内の事情に疎い情報筋の話を聞いていたようだ。

 

FDRが職に就くと、ブリットは仏大使になることを望んだけれども、仏大使の職は他の人に約束されていたので、コーデル・ハル国務長官の特別補佐官に任命された。ブリットが1933年10月4日に長官宛のメモで認めたように、当時の両国政府間の懸案事項には、米国におけるコミンテルン共産主義者プロパガンダ活動、ロシアにおける米国人の市民的及び宗教的権利の保護、ボリシェヴィキが1917年に打倒したロシア臨時政府に対する米国の貸付金の返済、が含まれていた。ブリットは、正式承認の条件について交渉するため、リトビノフ外相を含む数人のソ連外交官と会談した。1933年11月16日付、FDR宛の一連の手紙で、リトビノフは、米国の承認と引き換えに、ソ連は「いかなる方法でも米国の内政に干渉することを慎む・・・」し、ソ連内の米国人の宗教的・市民的権利を保護すると同意した。翌日、米国は正式な国家承認をソ連に与え、ウィリアム・ブリットが駐モスクワ米国大使に任命された。

 

ブリットのソ連大使の職は1936年5月まで続いた。とりわけ日本の満州での拡大を阻止することに米ソは利益を共有していたので、米ソ関係が大きく改善されることを期待して職を受け入れた。これに関して彼は失望する運命にあった。当初、ソ連はブリットを優遇し、米国との友好関係を得るため疑わしい願望を表明した。1933年12月20日、ブレリットはクレムリンでの豪華な夕食会に出席し、スターリンを含むソ連政府高官と会談した。大いに酒を飲み、FDRとカリーニン元首への乾杯、親善の表明があった。あの晩、スターリンとブリットが別れの挨拶をした時、二人はお互いほおにキスをした!ブリットは、キエフレニングラード、ヤルタ、オデッサ、ハリコフにも旅をし、そこで彼は「丁寧なスピーチをし、工場や農場を見学して、温かく迎えられた」。

 

けれどもブリットは、1934年の初頭までに、ソ連に対する失望の増大をワシントンに表明していた。手紙のひとつに彼は書き留めた。「我々は当地でよろめいていて、重要な問題で失望に直面しているだけでなく、毎月、途方もない数のささいな苛立ちに耐えなければならない」。そのような「ささいな苛立ち」の一つは、レニングラード警察が、ブリットと彼の娘を、道路を不適切に横断したとして拘束したことだった!おそらくはこの苛立ちが原因で、ブリットは、以前に仲良くなった数多くのヨーロッパ外交官との関係を新たにするため、より住みやすく友好的なヨーロッパ諸国への旅に多くの時間を費やした。また、日本を訪問して天皇と会談し、中国を訪問して蒋介石と三度面会した。

 

1935年4月、ブリットは、パリから大統領宛に手紙を送り、ソ連は将来いつかドイツと和解し、フランスや他のヨーロッパ諸国に損害を与えるだろうとの信念を表明した。もちろん、四年後の1939年8月、ポーランドの相互侵略と第二次世界大戦の開始への道を開いた、不可侵条約に独ソは署名した。

 

スターリンの自国民に対する戦争の進展状況も、米国政府に知らせ続けた。1935年5月「常に存在していた恐怖がそのような度合まで高まったので、権力を持たないモスクワ市民も要人も怯えている」と報告している。そのひと月前、レニングラードの実力者セルゲイ・キーロフの殺害についての極秘情報を報告し、「ソ連の各方面で、罪のない人びとの逮捕や追放が、歩調を合わせて続いている」と指摘した。

 

ブリットはまた、コミンテルンの会議の後に、ソ連は米国に対するプロパガンダや破壊活動を控えるとの約束を破ったと米政府に伝えた。「ソ連と他国との間の正常な関係を語ることは、存在せず存在しえないものを語ることであるというのは、完全に明らかだ」と書いた。この時、ブリットは、ソビエト体制の本質そのものが、モスクワとの通常の外交関係を米国が得ることを妨げようとしたと感づいたようだ。

 

1935年7月、ブリットはさらに悲観的になり、ソ連外交政策を次のように要約した。

共産主義の視点から、欧州戦争は、避けられないし結局のところ望ましいと見なされている。ソビエト連邦は準備ができていないし、今年か来年の欧州戦争は、ドイツ・ポーランド・日本によるソビエト連邦への同時攻撃を伴って世界大戦に発展する恐れがあるので、ソビエト政府は・・・現在のところ戦争を恐れている。当然、日本との戦争の一翼をアメリカが担おうとすることは、ソビエト政府の心からの願いである。・・・ソビエト政府の目標は世界革命を生み出すことであるうえ、その目標は維持されるだろう。この革命の第一歩は、ソビエト連邦の防御力と攻撃力とを強化することでなければならないと、ソビエト首脳部は考えている。・・・現在の平和を維持すること、欧州諸国を分断すること、日米間の対立を助長すること、クレムリン共産主義教皇の指示をうけて彼らを自国政府に反抗させるため、あらゆる国の共産主義者の盲目的な献身と服従を得ること、はスターリンの政策の総体である。

 

同年、ワシントン宛の別の手紙で、ブリットは「欧州諸国がお互いに戦争をやめるか、15年以内にソ連が戦争で打ち負かされなければ、ソ連は、大陸を席巻できるジャガーノートになるであろう」と警告した。彼は、欧州の国(ドイツとフランス)を「つまらない口論をしているギリシャ都市国家」(アテネとスパルタ)に例えて、ピリッポスのマケドニアの役割を演じているスターリンのロシアを、その立場から地政学的優位を手に入れようとしていると例えた。1935年8月、ハル国務長官に、「この十年間で、ソ連は、欧州と極東からの攻撃の中心地になるか、世界で最大の有形の軍事力のひとつへと急速に発展するだろう」と予言した。

 

ブリットは、1936年・ソ連大使としての最後の年までに、スターリン政権と適切な外交関係を確立する希望をすべて諦めた。1936年4月、ハル国務長官に書いた。「我々は、ソビエト政府や共産党共産主義者と、真に友好的な関係を確立することが可能であるという錯覚を、一瞬でも心に抱くべきではない」。この問題は、スターリンの個性を超越し、本質的に組織的なものであるとブリットは説明した。「したがって、ソビエト政府との関係の問題は、世界革命を生み出すことを決定した闘争的な信念や、全ての信じない者の『清算』として、共産主義によって描かれたという問題の従属部である」。彼は、ソビエトの「秘密警察」は共産主義政権に忠実であり、赤軍は強いと指摘した。

 

けれども、米国は、モスクワに外交的存在感を持つ必要があると、ブリットは信じた。ソ連は大国の一つであるし「ソ連と、欧州・中国・日本との関係は非常に重要であるので、モスクワで何が起きているのかがわからないと我々は知的に対外関係を処理することはできない」。しかし「我々は(ソ連から)多くを得ようと期待すべきでないし、何もかも得ることを諦めるべきでもない」と彼は書いた。さらに説明して「我々は、心の広い友情の告白に直面しても無感動のままでいるべきであるし、ちょっとした陰険な妨害に直面しても狼狽すべきでない」。ソ連との取引は一度も「安定したり永続」することはないかもしれないと意見を述べた。ソ連に融資や長期貸付をしないよう米国政府に助言した。また、米国における共産主義者潜在的な危険についても警告した。

 

1936年5月、ブリットはモスクワを去り、まもなく駐ソ大使を辞任した。その18年前、彼は、新ボリシェヴィキ政権と外交関係を樹立するようウィルソン大統領に助言し、その目的を達成するためにレーニンをはじめとするソビエト政府高官と秘密裏に会談した。1933年、ホワイトハウスルーズベルトの一員として、米ソ間の外交関係を得るための道を開く手助けをした。大使という彼の役割において、外交関係のための盤石な基盤を確立しようと努めた。だが、ソ連政権の残忍な性質(ウクライナおよび周辺地域における国家が作った飢饉、大粛清、強制労働収容所の発展によって明白に示された)とコミンテルンを通じた世界革命を推進するための継続的活動・・・これらは両大国間の友好関係をめざしたブリットの希望を打ち砕き、彼を熱烈な反共主義者に変えた。

 

しかしながら、ブリットのモスクワでの在職期間は、米国に2つの利益をもたらした。第一に、ジョージ・ケナン、ロイ・ヘンダーソン、チャールズ・ボーレンをモスクワの大使館員に選定したことで、効果的に、時には華々しく、外交任務をこの先何年にもわたって遂行してきた三人の経歴を立ち上げた。第二に、ソ連体制の性質という厳しい現実は、FDRの腹心の友のウィリアム・ブリットを、洞察力に富み予言的な、ソ連の動機と意図の分析者へと変えた。

 

1936年8月25日、FDRはブリットを駐仏米国大使に任命した。その後4年間、ブリットは第二次世界大戦の勃発につながったヨーロッパ危機の中心にいた。デイビット・フロムキンが指摘したように、「フランスだけに任命されたにもかかわらず、(ブリット)は、欧州全体の光景を観察するアメリカ人の役割を果たしていた」。10月初めにパリの転任地に到着し、フランスのアルベール・ルブラン大統領に信任状を提出した。「不案内な者としてではなく、フランス文明の偉大な業績を何年も前から知っている者としてフランスにやってきました」。ブリットはフランス国会議事堂でおおいにくつろいだ。弟のオーヴィルが後に書いたように。「彼にとってそれは別荘への幸せな任命だった。彼はフランス人をとてもよく知っていたし、明らかに彼らの秘密をたくさん知っていたので、与党も野党も両方、指導的な政治家達の考えと予想される行動の、最も懇意な詳細を、大統領に渡すことができた」