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Chiang Kai-shek’s “secret deal” at Xian and the start of the Sino-Japanese War
スティーブ・ツァン
Changed priority
拘束されていた間もその後の20年を通じても、張学良と楊虎城の誘拐反乱の実行の背後には共産主義者がいたと、蒋介石は考えていた(record of Zhang’s interview with Kuo Guanying and Tang Degang)。実際、蒋介石は、西安の邸宅で、護衛兵から東北軍の兵士から攻撃を受けていると報告されたとき、張が反乱を企てて率いていると信じることができなかった(蒋介石日記:1936年12月12日)。共産主義者が背後にいると信じていたことは、蒋介石が、自らの苦境を評価し解決策を見出す上で大いに影響を与えた。
西安事件は蒋介石に大きな影響を与えた。彼は反乱兵に発見されるやいなや死の可能性に直面しなければならなかった。捕虜として張学良と初めて面会したとき、ある種の見せしめ裁判の後に処刑される可能性を否定できないと感じた。その時の蒋介石は知らなかったけれども、中国共産党が、翌12月13日に開いた政治局会議で望ましい結果として決定したものがそれであった(杨奎松:西安事变新探)。もし蒋介石が処刑の可能性を考慮しなかったのであればそれは異例のことだ。対照的に、自分を射殺するか尊厳と敬意を持って扱うべきだと逮捕者にたびたび要求したのは、ほぼ確実に、道徳的権威を主張することと、事態を制御できなくなって交渉することがあれば自身の立場を強めることを意図していた。出版された彼の事件説明に暗示されているように、それらは逮捕者を挑発して射殺させることを望んだものではなかった(実際、蒋介石は、「西安半月记」になった物の中に記録した1937年1月7日付の日記で、張学良に自分を殺すよう挑発したことと、拘束中の自身の道徳的正義と高潔とをとりわけ強調している。彼の身体的危険に立ち向かう勇気と道徳的権威の主張は、彼を護衛した反乱軍兵士によって確認された)。けれども彼の生命への脅威は現実のものであったし、それは平和的解決を求めて12月20日に西安を訪れた宋子文の評価でも確認された(宋子文西安事變日記)。蒋介石は、自分がこれまでにおこなったことと選択しえた代案を、真剣に思案せずにはいられなかった。
また、蒋介石が庇護を与えた元軍閥の中で最も愛国的な張作霖と、「昔からの同志」楊虎城を、何がそのような極端な方法に追いやったのかを考えたに違いない(蒋は、その日の出来事を回顧して書いた記録の中で、張が楊を巻き込んだと考え、楊を「昔からの同志」と呼んだ。蒋介石日記:1936年12月12日)(張は並外れて愛国的で責任感のある将軍だった。蒋介石が華北遠征で中国本土の大部分を統一したため、日本は不快感を示したが、張は自発的に満州を蒋介石に加わわらせた。張は北伐で進軍する蒋介石軍と戦っていた時、戦略的に重要な橋を爆破して追撃軍を遅らせることを意図的に拒否し、退却する軍では運ぶことができなかった穀物を地域の貧しい人々に残した。伝えられるところによると、1928年以降、蒋は年下の家族のように張を扱っていた)。蒋介石は、張作霖が日記を読み、日本に抵抗する決意に感動し悔い改めたと主張したが、ほぼ間違いなく、その反対が真実に近かった(蒋介石日記:1936年12月14日)(張は、自由を取り戻した後、西安事件を起こしたことを後悔していないと主張した)。張は日記を読み、日本の侵略に抵抗するとの蒋の決意に気付いたけれども、それが彼に衝撃を与えることはまったくなかった(張学良:Columbia interviews, vol.84)。張の問題は、目的や決意ではなくて優先順位にあったので、蒋が言い張っても張は動かされなかった。日本の侵略にまず抵抗するのか、共産党が根絶されるまで待つのか(record of Zhang’s interview with Kuo Guanying and Tang Degang, June 1989)。張学良が蒋介石を解放し、反乱の結果を直視するため自発的に南京へと護送した後でさえ、最初に提起した8つの条件のうち最も重要な、政府の再編成を履行せねばならぬと蒋に主張し続けた(事略稿本:1936年12月27日)。
西安では、張学良の責任を負う意志と、日本に対抗するため民族統一戦線の指導者になるよう蒋に要求したありのままの誠意が、蒋介石に熟考を強いたに違いない。西安で張学良に対して圧倒的な軍事的優位を保持し「第二革命」の恐れがあった楊虎城に対抗して、12月24日、蒋介石を西安から密かに脱出させようと宋子文と画策したことで張の誠意が確認された(宋子文西安事變日記)。どのように行動を進めるのかを巡って、張学良と楊虎城とが激しく仲たがいするまで時間はかからなかった。張は、西安を管理している楊の部下ではなく、自分の護衛部隊の兵士が蒋介石の身の安全を担当するよう繰り返し努力した(蒋介石日記:1936年12月14,24,25日)。蒋介石が張学良の窮状を考察した時には、張の愛国心と、日本の更なる侵略に断固立ち向かうための国家という明確な願いは、蒋にはわからなかった(張の愛国心と感情は、蒋の副官の一人が観察し記録した)。これは政策の優先順位を逆転させて拘束者の条件を受け入れるよう強いることにはならなかったけれども、政策の優先順位を厳格に守ることが反逆者や共産主義者の手中で死ぬだけの価値があるのかどうか、蒋介石は思案せねばならなかった。彼が殺されることがあれば、日本の対中侵略を助長するであろう内戦に発展することはほぼ間違いなかった(そのような所見は1936年12月の日記には記されていないけれども、事件一周年にあたる1937年12月12日の日記に記されている)。蒋介石は捕らわれの身となった当初、生還できないかもしれないという前途に真剣に向き合わねばならなかった。
身の危険が減ったと蒋介石が感じたのは、投獄されて4日目、南京政府が反逆者を空爆し始めた12月16日になってからだった。というのは、張作霖が「解決策を練るには4~7日の平穏を要する」と言ったのは、張がモスクワからの指示を仰いでいることを意味したからだ。「ソ連は、彼らの反抗的な振る舞いを支持することができないし、張をまともに相手にしたことがなかったので、余の気持ちは落ち着いた」と日記に記した(蒋介石日記:1936年12月16日)。翌日、反逆者が具体的な要求を8つから4つに減らしたとき、これをコミンテルンの指示によるものだと蒋介石は考えた(蒋介石日記:1936年12月17日)。どちらについても、モスクワからの指示のためというのは見当違いだったので、蒋介石の分析は誤っていたというのが事実だった。決定的に重要だったことは、反逆者が最終的にスターリンの指示に従うはずだと蒋介石が信じていたことであった。蒋介石はまだ捕らわれの身であったが、12月22日、釈放を求めて西安に行った妻に、この鍵を握っているのは彼女がよく知っている張学良ではなく、共産党であると打ち明けた(事略稿本:1936年12月23日)。
彼の日記や1930年代の文書から、蒋介石が、日本の侵略に抵抗する決意を固め、膨大な物資を投じ、やがて来る対日戦に備えていたことが今ではわかっている。実際、西安事件が起こる前、蒋介石は、中国共産党の政治的解決と引き換えに、日本の侵略に対する中国の抵抗のためのソ連の支援を、およそ一年間、ソ連と交渉していた(刘维开:国难期间应变图存问题之研究、509-510頁。西安事変の前の段階おける蒋介石の最優先事項が共産党残党の掃討であったとすれば、軍閥部隊に命ずるのではなく、ドイツに訓練された機甲部隊を派遣してその任務を遂行することができたし、そうしたであろう。軍閥部隊を配置することにより、蒋介石は、そのような部隊の消耗を引き起こすことができたし、ソ連との対日防衛条約交渉の扉を閉ざすことなくして共産党、ひいてはソ連に圧力をかけることができた。共産党が完全に「根絶」されると、蒋介石は、スターリンと交渉する際に使用する強力な賭け金を一つ減らすことになる)。中国政府はソ連と相互防衛条約を結ぶことを望んでいたが、ソ連は不可侵条約を望んでいた(Garver J W:The Soviet Union and the Xi’an Incident)。ソ連の相互防衛条約の調印拒絶は、もし日中間で全面戦争になった場合には中国を支援するというソ連の約束に疑問を投げかけた。
西安事変の前、蒋介石はスターリンとの相互防衛条約を締結することができなかったので、もし日本との戦争が起こった場合にはソ連の兵器と支援の確保に焦点を合わせる必要があった(陳守中:劫蔣者之夢)。そのような交渉が行われていたという事実は重要だった(ソ連との交渉の結果、蒋介石は1936年11月、ごく内密に共産党とも協議した。
けれども蒋介石も共産党も、表裏のある行動を取っていた。彼らは交渉すると同時に代替案を検討していた。蒋介石にとっては共産党に対する別個の攻撃の開始、共産党にとっては張学良・楊虎城との同盟の形成。秘密交渉については刘维开:国难期间应变图存问题之研究、515-520頁を参照)。一年にわたるスターリンと蒋介石の秘密交渉において、両者は実利的かつ打算的なアプローチを取り、「お互いに相手の意図を警戒した」(Garver J W:The origins of the second united front)。西安で捕らわれる前、蒋介石は、彼の政府が日本と戦争になった場合、ソ連が彼の政府を支援するかどうか確信していなかった。この重大時に蒋介石は、スターリンの介入が彼の解放に不可欠であると信じていたので、スターリンからのメッセージや思わせぶりなしぐさを、どのようなものであっても真剣に受け止めたことだろう。
そのようなしぐさは現実のものとなった。拘束されている間、蒋介石は、1925年にソ連に留学し、その後ソ連で人質にされていた息子の蒋経国が、間もなく中国への帰国を許されると周恩来から知らされた(蒋経国の解放の提案は、蒋介石日記や他の公式記録には記載されておらず、それがいつ、どのように蒋介石に伝えられたのかを正確に知ることはできない。これが伝えられたという事実は、異なる情報源に基づいて、张国焘:我的回忆とTaylor J:Chiang Kai-shek and the Struggle for Modern Chinaに記されている)。帰国が言及されるやいなや、蒋介石は、あいまいな方法ではあるものの、本当はスターリンと取引していたという彼の分析の正しさの確証としてそれを見て取ったことだろう。周恩来はそれを明言したかもしれないが、蒋介石は、共産党ではなくスターリンだけが蒋経国の解放を約束できることを理解し損ねることはなかった。実際のところ蒋経国の釈放問題は、この10年間、交渉材料として利用されてきた。1931年6月、コミンテルン極東支局の事務官であるイレール・ヌーランが、彼のことを極東支局長と勘違いした蒋介石政府に逮捕された。ソ連はヌーランとその妻の解放の引き換えに蒋経国を返還すると申し出たが、蒋介石はこれを拒否した(楊天石:蔣氏秘檔與蔣介石真相)。中国共産党はこの交渉に関与しなかった。そういうわけで蒋経国の近々の釈放を知らされた時、蒋介石はそれをスターリンからの重要なメッセージと見ざるを得なかった。スターリンがどのような人物かを考えたとき、 蒋介石としては、スターリンは西安事件を解決するためには大局を見なければならないと言っていると考えるのが妥当であろう(1945年5月5日付けの日記で、真の意味で自分を理解したのはスターリンだけであるし、スターリンを理解したのは自分だけだったと蒋介石は記した。1936年12月にも同じように感じていたかどうかは定かではないが、その後の彼の日記によると、1936年などにおけるスターリンを、とてもよく理解していると蒋介石は考えていたかもしれない)。
スターリンが具体的に何を望んでいるのか推測するほかなかったので、実際にスターリンを代理しているかどうかを問わず、周恩来とは直接交渉しないことを蒋介石は選択した。蒋介石の視点からすると、スターリンが望むのはソ連の戦略的利益に合致するものであるはずだった。日本がソ連に注意を向けることができないように、あるいは少なくとも、ソ連の支援を受けた中国軍で日本を中国内に拘束するため、自分が生きて、日本の侵略に抵抗するよう中国を導くことをスターリンは望んでいる、と蒋介石は合理的に結論づけることができた。蒋介石が譲歩しようとしたものは、統一戦線を形成するために共産党との交渉を開始(どちらかというと再開)することであり、それについて彼は共産党と並行交渉を一年間おこなってきた(Rana Mitter:China’s War with Japan 1937–1945)。その見返りとして、戦争の際に、日本に対する彼らの抵抗を支援するとのソ連の暗黙の約束を、蒋介石は望んでいた。蒋の代理人が、ソ連および共産党と並行しておこなった秘密交渉に照らすと、蒋にとって、それは不合理な仮定ではなかった。当然のことながら、蒋介石は、西安での監禁のもとではなく、解放後に協定を交渉することを好んだけれども、合意に達する方法を見出すことの道徳的な約束をした。
[ 参考資料・PDF ]
岩谷 將 1930年代半ばにおける中国の国内情勢判断と対日戦略
[ 参考情報 ]
「 日中戦争と中ソ関係:1937年ソ連外交文書邦訳・解題・解説」86-87頁
1937年7月31日。ソ連外務人民委員M.M.リトヴィノフの中華全権代表D.V.ボゴモロフ宛電報。・・・現在、相互援助条約を締結することは、今まで以上に不都合である。なぜなら、その種の条約は、直ちに日本に宣戦布告するのと同義だからである。・・・