レイテ沖海戦

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

Interrogations of Japanese officials V.1. 32頁~

 

東京。1945年10月16、17日

1944年6月から10月の戦闘で第二艦隊総司令官を務めた栗田健男中将の尋問。
ラルフ・A・オフスティ少将(海軍)、J. A. Field, Jr.少佐(海軍予備役)による。

 

概要

1944年6月に米軍がマリアナ諸島に上陸したとき、日本艦隊はガダルカナル戦役以来はじめて戦闘を提供した。フィリピン海の戦いでは、日本軍は三隻の空母が沈没し、一隻が深刻な被害を受けたほか、三の航空戦隊の航空部隊が事実上全滅した。

1944年10月、米軍のレイテへの上陸により、荷揚げを撃退すること、フィリピンを保持することで戦争の継続を可能とすることを目指し、日本軍は我が軍に対し、残余の海軍全体を絶望的な三方面からの攻撃へと派遣した。 栗田提督は戦艦と巡洋艦の中央部隊を指揮し、激しい攻撃のなかフィリピンへの侵入に成功し、護衛空母と交戦し、ほとんどレイテ湾の入り口まで到達したが、成功が彼の手に届いたと思われたその時に撤退する結果となった。

栗田提督はこれら作戦計画とフィリピン海の戦いにおける彼の役割について簡単に説明する。日本の計画が失敗した理由、湾に入ることなく撤退した彼自身の理由とともに、レイテ沖海戦における日本の中央部隊の役割がかなり詳しく分析されている。
彼は太平洋戦争のさまざまな特徴についての種々のコメントも提供する。

 

(中略。44頁中段から)

Q.とはいえ、この攻撃の後、あなたはまだ湾に入るつもりだったのですか?
A.二回目の爆撃を受けるまで、私はその意志を持っていた。

Q.それは何時だったのですか?
A.思い出せない。

Q.二回目の爆撃攻撃は空母との交戦をやめてからどのくらい後でしたか?
A.10時頃、最初の爆撃攻撃を受けたとき、我が艦隊は隊形を組んでいた。艦隊が集まって私が輪形陣の合図を上げたときに最初の攻撃があった。

Q.その攻撃は激しかったですか?
A.攻撃は大規模だったが被害は小さかった。

Q.具体的にはどのような被害でしたか?
A.損傷の程度は船の能力を妨げるようなものではなかった。当時、被害の詳細を受け取らなかった。被害が大きかったときに受け取った情報は、石油タンク、ガソリン、舵制御などの破損だったけれども、私は最初の攻撃でそういう情報を受け取らなかった。

Q.その攻撃が行われたとき、あなたはまだ湾に向かって西または南西の針路をとっていましたか?
A.私はレイテ湾の方向に進んでいた。 昼間の砲撃と対空射撃から得た結論は、より激しい航空攻撃を受けるであろうレイテ湾の内部に進んだとすれば、無力で効果のない立場に置かれると信じさせた。 だから私は北に行き、小沢提督に加わって、北の機動部隊に対する協調行動をとると判断した。

Q.この決断をして北に向かい始めたのは何時頃ですか?
A.10時か11時くらいだと思う。その時から私は北へと移動した。

Q.それでは、その場の空母への攻撃を打ち切り、最終的に北に向かったのはおよそ2時間後だったと思いますか。それで間違いありませんか?
A.2時間くらい。とにかく3時間未満。正確な時間はわからない。

(45頁)

Q.湾内で非常に激しい空襲が予想されたとおっしゃった。どのような原因で?
A.レイテ島の陸上航空機から。

Q.当時、レイテ島から軍事行動をおこなっている米軍機があると考えたのですか?
A.我が艦隊への攻撃ののち、貴軍の飛行機はレイテ島に向かったと確信した。したがって、我々が湾に入ると、それらが我々を激しい攻撃にさらすだろうと予期した。そこに地上配備の飛行機があるかどうかはわからなかったけれども、そこに平野があることは知っていたので、あったのかもしれない。

Q.この地域の他のアメリカの空母、つまり、あなたが既に交戦したものを除いた空母について知っていることはありましたか?
A.付近に他の空母がいるのではないかと推測した唯一の機会は東にマストを見たことだった。南方向は何も知らなかった。当時、最初の戦闘の開始時に、我々は貴軍の通信を聞いていた。「日本艦隊の攻撃を受けている、至急支援を」というメッセージを傍受し、2時間は役に立たないとのメッセージを聞いた。呼び出された支援部隊から、支援するのに2時間かかるという返事を我々は聞いた。

Q.どのような種類の支援が照会されたと思いましたか?
A.支援がどこに居たのかわからなかったけれども、メッセージから、それが航空支援であるとわかった。

Q.湾内で貴軍を襲うとあなたが予想した2時間と約束されたこの支援は、あなたが湾に入らなかった理由の一部でしたか?
A.はい、それが理由のひとつ。とても遅延してもいた。つまり、交戦のためにスケジュールが大幅に遅れた。

Q.燃料と弾薬に関しては、湾に入るのに十分な状態でしたか?
A.燃料についての考慮はなかった。帰還する方法についての考慮はなかった。十分な弾薬があった。

Q.これら艦隊を引き受けるため、あなたの期待に沿う量の物資はありましたか?
A.はい。

Q.その日の朝の交戦の過程で、西村提督か小沢提督から何か情報を受け取りましたか?
A.情報はなかった。

Q.それでは、北に針路を変えたとき、前夜のスリガオ海峡で起こったことを知らなかったのですか?
A.知らなかった。無線情報や諜報は無かった。そこで、スリガオ海峡を越える飛行機と北を偵察する飛行機の二機を大和から派遣した。どちらも情報をもたらさなかった。

Q.飛行機は戻ってきましたか?
A.二機は陸に着陸し、一度も船に戻っていない。情報無し。北に向かった機からは何も見なかったとのメッセージがあった。スリガオ海峡を通過した機からのメッセージはなかった。

Q.小沢提督の北方での作戦について、他の誰かから何か情報はありましたか?
A.いつかは覚えていないが、日中、小沢提督から知らせがあった。メッセージは小沢からではなかったけれども・・私はその情報源を知らない・・小沢提督が交戦して損傷し、貴軍の編隊に夜間魚雷攻撃を仕掛けようとしているとの情報を無線で受け取った。
彼は旗艦を変更しようとしていたけれども船名を明かさなかった。小沢艦隊が受けた被害の程度は私にはわからなかった。

Q.あなたが受け取ったこの情報が北に行くのが最善であると結論付けたかどうか、それともその後か、覚えていますか?
A.私が針路を北に変更した後。

Q.それでは北に進路を変えた理由は、湾に入った場合には激しい空襲の恐れがあったということで間違いありませんか?
A.破滅の問題ではなかった、それは取るに足りないこと。私が湾内でどのように役に立つことができるかの問題だった。空母や陸上からの飛行機の激しい攻撃の下では、効果的でないと結論付けた。したがって、私自身の判断で、北に行って小沢提督に加わるのが最善であると結論付けた。

(46頁)

Q.この代替案は当初の計画に規定されていたのか、それともその時だけの決定だったのですか?
A.決定は一時的なものだった。 北に針路を変えたので、小沢提督が実施しようとしていると別の情報源から知った、駆逐艦の夜間魚雷攻撃と調整できるだろうとの報告を小沢提督に送った。

Q. 小沢提督がそのような攻撃をする意図があったのは確かですか?
A. 小沢提督からではなかったけれども、そのような攻撃が意図されているとの知らせを受け取った。私は小沢提督が夜襲を始めようとしているとの明確な印象を持っていたので、北に向かい、支援することと、ここで何も見つからなければサン・ベルナルディノ海峡を通じて撤退すること、を私自身が決定した。

Q.この北の旅で、その地域の機動部隊から激しい攻撃を受けるだろうとは感じませんでしたか?
A.北から何が来ようとも、やってやろうと決意していた。

Q.ええと、ここでの空襲とそこでの空襲を区別したかったのです。なぜこちらを選んだのですか?
A.どちらの場合も同じ攻撃を受ける。しかし、北の進んだ先で協調して支援するかもしれないのに、ここに居ては良くないだろう。

Q.湾内の侵入輸送船を攻撃するよりも、機動部隊を攻撃する方が有益だと感じたということですか?
A.レイテ湾の狭い海域では、船が操縦できるという利点を生かすことはできなかったけれども、同じ攻撃を受けても外洋で操縦できるという利点があれば、より有用な戦力となるだろう。

Q.はい、では取り組んだターゲットの選択はありましたか?
A.この問題が持ち上がるまで、貴軍の上陸が確認されていたのでそれは以前ほど重要ではないと考えていた。

 

(途中で大前敏一大佐が加わる。50頁まで中略)


Q.提督、あなたの意見では、この作戦のための全体的な計画、日本の計画は、当時利用可能な戦力で作成できた最高のものでしたか?
A.それは我々が適用できる最高の計画であったが、最高の理論的計画ではなかったと思う。あなたの質問に従うと、その条件の下では最良の計画だったと思う。

(51頁)

Q.今朝、この作戦では船の50%の損失を受け入れる準備ができていたとおっしゃった。その50%と引き換えに何を得ようと思っていましたか?
A.私の胸中の意図は、その代償で、レイテ湾にいる貴軍の船の半分に損害を与えることに成功することにあった。

Q.完了する前に上陸を止めたり、補給艦を破壊して部隊を浜に孤立させたり、戦闘艦を破壊することを期待していましたか?
A.上陸を2、3日遅らせるためだけ。上陸の進捗を一時的に遅らせるためだった。

Q.この遅れをどう利用するつもりだったのですか?
A.その時は目標が限られており、その特定の上陸を2、3日遅らせることだった。戦力不足でその後の上陸につき何もできなかった。

Q.あなたの目的は、戦闘艦よりも、上陸用舟艇、輸送船、貨物船を攻撃することでしたか?
A.両方。

Q.他に選択肢は?
A.戦闘艦。もし両方があれば戦艦と交戦するだろう。

Q.この作戦が失敗した原因は何だと思いますか?主要な原因は何でしたか?
A.総合的に見て飛行機の不足、捜索機、攻撃機どちらも。

Q.作戦に着手したとき、その不足は事前にわかっていましたか、それとも十分な飛行機があると思っていましたか?
A.当初から、計画が実行される前から、十分でないとわかっていた。

Q.作戦を開始するにあたり、どの程度の成功の見込みがあると思いましたか?
A.陸上部隊に幸運があれば役に立つだろうと思った。
大前敏一大佐:この計画全体が東京にあった時、我々はあまり見込みがないと思っていたけれども、何もしなければフィリピン全体が占領されてしまう。だから我々は何かをしなければならず、最善を尽くした。今一つ良くない機会だったけれども最後の機会だった。

(後略)