Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

ヒロシマは必要だったのか?(その3・完結)

 

Mark Weber氏 Was Hiroshima Necessary? の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Critical Voices
世間一般の熱狂の喧噪の中、厳粛な懸念を抱いた者もいた。ニューヨーク・タイムズ論説委員のハンソン・ボールドウィンは「我々はチンギス・カンや、戦争で徹底的な無慈悲を用いることを正当化した歴史上のすべての人物の外套の相続人である」と書いた。ノーマン・トーマスは長崎を「とても残酷な戦争の中の、単一の最大の暴虐」と呼んだ。大統領の父親、ジョセフ・P・ケネディも同様に嫌悪感を抱いた。

 

アメリプロテスタントの代弁者、クリスチャン・センチュリー誌は爆撃を強く非難した。1945年8月29日号の「アメリカの原子力による暴虐」と題する論説は、読者に語った。

 

――日本は海軍が沈み、事実上空軍が壊滅し、国土が取り囲まれ、補給が断ち切られ、かつ我が軍が決定的な打撃を与えることができる態勢のときに原爆が使用された。・・我が指導者達は内包する倫理的な考慮事項を検討しなかったようだ。爆弾が完成するやいなや前線に急送され、二つの無力な都市に投下された。・・原子爆弾はまさしくキリストの教えを攻撃したと言える。・・アメリカ教会とその教義は、アメリカ政府のこの非人道的で無謀な行為との関係を絶たねばならない。――

 

アメリカトリックの代弁者、コモンウィール​誌も同様の見解を示した。広島と長崎は「アメリカ人の犯罪と不名誉の別称である」と論じた。

 

ピウス12世も、伝統的なローマ・カトリックの立場を踏まえた見解を表明しつつ、同様に非難した。「住民がいる都市の全体または広範囲にわたる無差別破壊を対象とするあらゆる戦争行為は、神と人類に対する犯罪である」。バチカンの新聞、オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙は、1945年8月7日付で批判した。「この戦争は悲劇的な結末をもたらす。信じられないことに、我々が歴史からほとんど何も学んでいないということを知る、この破壊的な兵器は、後世にとって誘惑の魔手として存続する」。

 

Authoritative Voices of Dissent
事実を知る立場にあるアメリカの指導者達は、当時かその後のいずれかに、戦争を終わらせるために原子爆弾が必要だったとは信じなかった。


1945年7月中旬、ヘンリー・スティムソン国務長官から原子爆弾使用の決定を通告されたとき、ドワイト・アイゼンハワー将軍は深く心配した。彼は1963年の回想録(The White House Years: Mandate for Change, 1953-1956 [312-313頁] )でこの新兵器の使用についての強い内心の懸念を明らかにした。

 

――彼(スティムソン)が関連する事実を読み上げている間、私は憂鬱な気持ちになり、そうして私の厳粛な不安を彼に述べた。ひとつは日本はすでに敗北しており、その爆弾の投下はまったく必要がないとの私の信念に基づいて。次に、アメリカ人の命を救うための手段としてもはや必須ではないと思われた武器を使用することで、国際世論に衝撃を与えることを避けるべきだと考えにより。日本は、まさにそのとき、「面目」の喪失を最小限に抑えて何とか降伏する方法を模索していたというのが私の確信であった。――

 

「日本は降伏の準備ができており、あのひどいもので彼らを攻撃する必要は無かった・・。我が国がそのような兵器を使用した最初の国になって残念に思う」とアイゼンハワーは1963年に述べた。

 

太平洋戦争が終結した「対日戦勝日」の直後、ボナー・フェラーズ准将はマッカーサー将軍のためにメモにまとめた。「原子爆弾ソ連の参戦も日本に無条件降伏を強いていない。日本はこれらの出来事が起こる前に敗北していた」。

 

同様に、ルーズベルト大統領とトルーマン大統領の参謀長、リーヒ提督も後に語った。


――私の意見では、広島と長崎での野蛮な兵器の使用は、我が国との戦いにおいて物質的な助けにならなかった。・・日本はすでに敗北し、効果的な海上封鎖と従来の武器による爆撃の成功という理由のため降伏する用意ができていた。・・アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる、というのが私の感情だった。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない。――

 

もしアメリカがじっくり待つつもりさえあれば、「効果的な海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品や他の必需品が不足し、 日本人は窮乏して降伏せざるをなくなった」とアーネスト・キング海軍作戦部長は述べた。

 

原爆の開発に大きな役割を果たしたハンガリー生まれの科学者レオ・シラードは、その使用に反対して論じた。「日本は本質的に敗北している」し「原子爆弾が単なる別の軍事兵器であるかのように、原爆で都市を攻撃するのは間違いである」。1960年の雑誌にシラードは書いた。「もし我々の代わりにドイツが都市に原爆を投下していたなら、我々は都市に原爆を投下することを戦争犯罪として定義したであろうし、ニュルンベルク裁判でこの罪を犯したドイツ人に死刑を宣告して吊るしたことであろう」。

 

US Strategic Bombing Survey Verdict

この問題を詳細に調査した後、米国戦略爆撃調査団は、原爆が理由で日本が降参したとの理解を拒否した。信頼すべき1946年の報告書で調査団は結論付けた。


広島と長崎の原子爆弾は日本を敗北させなかったし、戦争を終結した敵の指導者達の証言によると、日本に無条件降伏を受け入れるように促したこともなかった。天皇内大臣、総理大臣、外務大臣海軍大臣は、たとえ連合国側の条件での敗北の受諾を意味するとしても戦争を終わらせるべきであると、早くも1945年5月に決定していた。・・

 

1945年4月7日に任命された鈴木政権の任務は和平を結ぶことであった。まだ最後の武士道の防衛を決意していた軍人や官僚がいたし、個人への危害や内部の障害を最小限にして和平を結ぶ自由を得ることが恐らくより重要だったので、無条件降伏よりも負担が少ない条件を得るための交渉の外観が維持された。けれども調停者が瀬戸際で講和を得ようとしたことと、どんな条件の講和でも受けようとしたことは明らかなようだ。これは Jushin [重臣?]による裕仁への助言の要点であり、4月に木戸が申し立てた結論であり、4月の小磯内閣の崩壊の根底にある理由であり、鈴木が首相になったときの彼に対する天皇の特定の命令は内閣閣僚全員に知られていた。・・

 

ロシアに対する仲介交渉は1945年5月の初め、東京とモスクワで始まった。ソ連への使者を意図した近衛は、表面上は交渉する予定であったけれども、過酷といえども、いかなる代償を払ってでも和平を実現するよう天皇から直接かつ内密の指示を受けた、と本件調査に述べた。・・


日本の降伏のタイミングを決し、いかなる侵入の必要性をも不要にした主要な要因は、絶対航空優勢と、その日本本土を覆う搾取であったことは・・明らかなようだ。

 

一切の事実の詳細な調査に基づき、また生き残った日本関係指導者の証言をも参考にして、調査団は次のような見解に到達する。すなわちたとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、たとえロシアが参戦しなかったとしても、さらにまた上陸作戦が計画もされず企図されなかったとしても、1945年12月31日以前に必ずや、そしてまず間違いなく1945年11月1日[アメリカの侵入が計画された日]以前に、日本は降伏したであろう。

 

Historians' Views
歴史家でジャーナリストのエドウィン・P・ホイトは「世界中の善意の人々によって恒久化された、原子爆弾が日本を降伏させたという大きな作り話」を暴いた。Japan's War: The Great Pacific Conflict, 1853-1952 の420頁で彼は説明した。

 

――日本の軍国主義者の考えとしては、原爆は単なる別の兵器であった、というのが事実である。広島と長崎の二個の原子爆弾は飾り[装飾]であって、日本の都市爆撃ほど大きな被害をもたらさなかった。B-29焼夷弾作戦は三百十万の家屋を破壊し、千五百万人の住居を奪い、およそ百万人を殺害した。戦争を終結する決断を裕仁に促したものは、無慈悲な焼夷弾、そして「無条件降伏」を達成するために必要ならば、連合国は日本を完全に破壊し全ての日本人を殺すであろうとの彼の認識であった。原子爆弾は確かに恐ろしい兵器だが、今日に至るまで神話が存続するにもかかわらず、それは日本の降伏の原因ではなかった。――

 

鋭い新刊 The Decision to Drop the Atomic Bomb (1996) で、歴史家のデニス・ワインストックは、原爆は不必要であっただけでなく、アメリカの利益を実際に害した復讐政策に基づいた、と結論づけた。彼は書く(124,132頁)。

 

――1945年4月までに、日本の指導者達は戦争に敗北したと認識した。無条件降伏に基づくアメリカの主張が、彼らの降伏への主たる障害であった。彼らは特に、裕仁皇位にとどまることをアメリカが認めるかどうかを知る必要があった。アメリカが、彼を退位させ、戦争犯罪者として彼を裁き、あるいは処刑することを彼らは恐れていた。・・

 

無条件降伏は復讐の政策であり、それはアメリカの国家的利益に損害を与えた。それはヨーロッパと東アジアの戦争を長引かせ、それらの地域でのソ連の支配力の拡大に役に立った。――

 

米太平洋陸軍司令官、ダグラス・マッカーサー将軍は、生前、軍事的視点からは原子爆弾は全く必要なかったと数多くの機会に述べた。「日本は崩壊と降伏の間際にあるということに、私のスタッフは皆同意した」。


ドイツと日本の精密爆撃を率先したカーチス・ルメイ将軍(後に戦略航空軍団司令や空軍参謀総長を務めた)は、それを最も手短にした。「原爆は戦争終結となんら関係がない」。

 

 

ヒロシマは必要だったのか?(その2)

 

Mark Weber氏 Was Hiroshima Necessary? の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Peace Overtures
1945年の4月と5月、日本は中立のスウェーデンポルトガルを経由して戦争を平和的に終結しようと三度試みた。4月7日、重光葵外務大臣は Widon Bagge スウェーデン大使と東京で面会し、「米英がどのような講和条件を考えているのか確認する」ように依頼した。しかし彼は、無条件降伏は受け入れることができず、「天皇に触れてはならない」と強調した。Bagge 大使はこのメッセージを米国に伝えたが、ステティニアス国務長官は「関心を示さないか、問題を追求するいかなるイニシアチブも取らない」ように在スウェーデンの米国大使に命じた。5月7日のポルトガル、10日のスウェーデンを通した同様の日本の和平の信号は、同じく実を結ばないと判明した。


6月中旬までに最高戦争指導会議の六人の構成員は、「できれば9月までに戦争を終結することを目指して」ソ連の指導者に近づくという任務を、東郷茂徳外相に秘密裏に命じた。6月22日、天皇は、首相や外相、主要な軍人を含む最高戦争指導会議を招集した。裕仁天皇は語った。「最後の一兵まで戦い抜くという決意は充分に聞いてきた」「この際、いままでの観念にとらわれることなく、戦争終結についてもすみやかに具体的研究をとげて、これが実現に努力することを望む」。


7月初めまでにアメリカは、天皇自身が和平の取り組みに一役担っていることを示し、ソ連に戦争の終結を依頼するよう指示した、東郷からモスクワの駐ソ大使・佐藤尚武へのメッセージを傍受した。戦争を終結させる上での主要な障害は、あらゆる交渉を排除する要求「無条件降伏」のアメリカの強要であると、米当局者もわかっていた。半神的な天皇を引き渡すことを除き、日本はほぼすべてを受け入れる準備ができていた。二千六百年の王朝の後継者、裕仁は、国家を象徴した「現人神」として国民から尊重された。(8月15日のラジオ放送での降伏発表まで、日本国民は彼の声を聞いたことがなかった。)アメリカ人が天皇に恥をかかせたり、戦争犯罪者として彼を処刑することを、日本人は特に恐れていた。

 

7月12日、天皇は1940〜41年に首相を務めた近衛文麿を召喚した。天皇は「遅滞なく戦争を終結させる必要がある」と説明し、ソ連を通じて米英と和平を実現したいと近衛に述べた。近衛公爵が後に回想したように、天皇は「過酷といえども、いかなる代償を払ってでも和平を実現する」ことを彼に命じた。


翌7月13日、東郷外務大臣はモスクワの佐藤尚武大使に電報を打った。「モロトフ[ソ外相]がポツダムに出発する前に彼と面会せよ・・戦争終結を実現するとの陛下の強い願いを伝えよ・・無条件降伏は平和への唯一の障害である・・」


7月17日に傍受された別の日本のメッセージは、日本の指導者達は、無条件降伏の方式は容認できない不名誉を伴うと感じており、「時代の要請」が戦争を終結させるソ連の仲介を絶対的に不可欠なものにしたと確信していることを、明らかにした。さらに外交メッセージは、日本が求めるただ一つの条件は「我が政府の形態」の保全であることを示した。唯一の「困難な点は無条件降伏という形式」であると、7月25日のメッセージは明らかにした。


東郷と佐藤との間のメッセージを要約して、日本の指導者達は「無条件降伏の用語に難色を示しているけれども」戦争に敗北したと認識し、「大西洋憲章[1941年]に基づく平和の回復に異議がない」ところまで達していると、米海軍情報局は述べた。メッセージにつき海軍次官補のルイス・ストラウスは「実際に日本の皇室の完全性の保全だけを要求した」と述べた。海軍長官ジェームズ・フォレスタルは傍受されたメッセージを「日本が戦争から離脱したいと望んでいる物的証拠」と呼んだ。歴史家アルペロビッツは特筆した(117頁)。

――これらのメッセージを傍受して、日本の意図についての現実的な疑念はもはや何もなかった。その巧妙な処置は明白で明示的であり、何より公的行為であった。内大臣天皇の側近であった木戸幸一は後に断言した。「この戦争から脱する方法を探し求める我々の決断は、原子爆弾の投下やソ連が参戦するよりも前の六月上旬になされた。それは既に我々の決意であった」――

 

それにもかかわらず、7月26日、米英首脳は容赦ない最後通牒を含んだポツダム宣言を発表した。「我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」。

 

この苛酷な二者択一の宣言を論評して、英国の歴史家ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは書いた。「十分なプロパガンダを与えられたアメリカの大衆が許容できないであろうから、天皇に関する言及は一言もなかった」(A Military History of the Western World [1987], 675頁)。

 

アメリカの指導者達は日本の絶望的な状況を理解していた。天皇が酷遇されない限り、いかなる条件でも戦争を終わらせる用意が日本にはあった。もし米国の指導部が無条件降伏を主張していなかったならば・・つまり、天皇を変わらぬ地位に残す意志を彼らが明確にしていたならば・・日本はすぐに降伏していた可能性が高く、したがって何千人もの命が救われた。


実際に進展したとおり、アメリカの指導者達が威信と連続性の象徴として天皇を留め置くと決定したことは、悲しむべき皮肉である。彼らは戦後の日本における占領権の名目上の長として裕仁が有用であったことを正しく認識した。

 

Justifications
トルーマン大統領は、戦争を迅速に終わらせることによって「何百万という命を救った」と主張しつつ、原子爆弾の使用を断固として擁護した。トルーマンは自身の決定を正当化しつつ、「世界の人々は、最初の原爆が軍事基地の広島に投下されたことに注目するでしょう。それは、この最初の攻撃において、可能なかぎり民間人の殺戮を避けたいと思ったからであります」とまで宣言した。

 

これは荒唐無稽な声明であった。事実、犠牲者のほとんどは一般市民だったし、米国戦略爆撃調査団は公式報告(1946年発行)で述べる。「広島と長崎は活動と人口の集中のため標的として選ばれた」。

 

もし新兵器の莫大な破壊力を日本の指導者に印象付けるために原子爆弾が投下されたのであれば、孤立した軍事基地に使用することでそれを達成できたはずである。大都市を破壊する必要はなかった。それに、どのような正当化が広島の爆破になされようとも、第二の長崎爆撃を擁護することははるかに難しい。

 

それでも、アメリカ人の大部分は爆撃についての公式の弁明を受け入れたし、受け入れ続ける。人間以下の獣「ジャップ」という粗悪なプロパガンダ描写に慣れた1945年の大多数のアメリカ人は、嫌われたアジア人を一掃し、日本の真珠湾攻撃に対する復讐を助ける新兵器を心から歓迎した。激しい戦闘で日本人と戦っていた若いアメリカ人は「神よ、原子爆弾に感謝します」という考えだった。彼らはほとんど全員、戦争を終わらせたように見え、彼らに帰郷を与えた兵器に感謝した。

 

1943年7月のハンブルクの火災旋風での破壊、1945年2月中旬のドレスデン大虐殺、東京その他の日本の都市への焼夷弾攻撃の後、アメリカの指導者達は、レズリー・グローヴス陸軍将校が後に批評したように、「概して民間人の大量殺戮に慣れた」。ハリー・トルーマン大統領にとっては、日本の民間人数万人の殺害は、原子爆弾を使用する決定において、単に考慮すべき事柄ではなかった。

 

 

ヒロシマは必要だったのか?(その1)

 

Mark Weber氏 Was Hiroshima Necessary? の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Was Hiroshima Necessary?
Why the Atomic Bombings Could Have Been Avoided

By Mark Weber

 

1945年8月6日、核の時代が劇的に到来した。警告も停止条件もなしに、米航空機が日本の広島市に一発の核爆弾を投下した。爆発は市内を4平方マイル以上にわたって完全に破壊した。およそ九万人が即座に死亡し、四万人が負傷した・・その多くは放射線病による苦痛の中に死亡した。三日後の長崎市へのもうひとつの原子爆弾攻撃は、およそ三万七千人を殺害し四万三千人を負傷させた。二つの爆弾を合わせると、最終的に日本の市民を二十万人殺害したと推定されている。


二つの空爆の間にソ連アメリカの対日戦争に加わった。アメリカの強い催促の下、スターリンは1941年の東京との不可侵条約を破った。長崎の破壊と同じ日、ソ連軍は満州流入し始め日本軍を圧倒した。ソ連の参戦は、ほとんど、あるいは全く、戦争の軍事的な結果を変更しなかったけれども、モスクワは争いに加わることで莫大な利益を得た。


翌8月10日、日本政府は東京発の放送で、米英共同のポツダム「無条件降伏」宣言を、「天皇統治の大権を変更する要求が含まれていないという了解の下」に受け入れる用意があると公表した。


翌日のアメリカの回答には、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施のため其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かれる」との記述が含まれていた。ついに8月14日、日本はポツダム宣言の条項を正式に受諾し「停戦」が宣言された。9月2日、東京湾の米戦艦ミズーリの艦上で日本の使節らは降伏文書に署名した。

 

A Beaten Country
内包する道徳的な問題は別として、原子爆弾は軍事的に必要だったのだろうか?合理的な尺度からすると必要なかった。1945年6月までに、日本は既に軍事的に敗北していた。かつて強大だった帝国海軍にはほとんど何も残っておらず、日本の空軍は完全に破壊されていたも同然であった。わずかな抵抗の兆候に対して、アメリカ軍用機は思いのままに全土を飛行し、爆撃機は破壊を雨のように都市に落として、着実にそれらを瓦礫へと変えた。


残された日本の工場や作業場は、不十分な原材料から武器や物資を途切れがちに生産しようと苦労した。(4月以降、石油の供給を受けられなかった)。7月までに、日本の全家屋の四分の一が破壊され、輸送システムはほぼ崩壊していた。食糧が非常に乏しくなっていたので、大部分の日本人は半ば飢饉の食事で生きていた。


1945年3月9-10日の夜、アメリ爆撃機、三百機の波が東京を襲い、十万人が死亡した。軍用機は1,700トン近くの爆弾を投下して首都の大半を破壊し、16平方マイルを完全に焼き払って百万の建造物のうち四分の一を破壊した。百万の住人が家を失った。

 

11週間後の5月23日、520機の巨大なB-29「スーパーフォートレス」爆撃機が既に破壊された日本の首都の中心に4,500トンの焼夷弾を浴びせた、太平洋戦争最大の空襲が起こった。焼夷弾の爆発は強風を引き起こし、東京の商業施設や鉄道の車両基地を完全に破壊し、歓楽街の銀座を焼き尽くした。2日後の5月25日、「スーパーフォートレス」502機の二回目の襲撃では、東京の低空を轟音を立てて飛び約4,000トンの爆発物を投下した。これら二回のB-29の空襲は、日本の首都を56平方マイル破壊した。

 

広島への攻撃前ですら、アメリカの空軍大将カーチス・ルメイは、アメリカの爆撃機が「奴ら(日本)を石器時代に戻しているところだ」と豪語した。陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルドは1949年の回顧録に「常々、原爆でも原爆ではなくとも、日本はすでに崩壊寸前だったと我々には思えた」と書いた。これは日本の元総理大臣、近衛文麿によって裏付けられた。「基本的に、B-29による長期にわたる爆撃が講和の決断をもたらした」。

 

Japan Seeks Peace
戦争終結の数ヶ月前、日本の指導者達は敗北は不可避であると認識した。1945年4月、戦争を終結させるとの任務を負って鈴木貫太郎が率いる新政権が就任した。5月初めにドイツが降伏したとき、日本は、英米は今や恐るべき軍事力の猛威を一手に彼らに向けてくることを理解した。


随分前から日本の暗号を破っていた米国の当局者は、傍受したメッセージから、国の指導者達は可能な限り有利な条件で戦争を終わらせようとしていると知っていた。これらの努力の詳細は、東京の外務省と在外外交官との間の秘密通信の解読から知られていた。

 

歴史家のガー・アルペロビッツは1965年の著作 "Atomic Diplomacy : Hiroshima and Potsdam"  に書いた(107-108頁)。

 

――早くも1944年9月には日本の和平工作者が派遣されていたけれども(そして蒋介石は1944年12月に降伏の可能性に関して接触してきた)、戦争終結への真の努力は1945年春に始まった。この努力はソ連の役割を強調した・・


1945年4月中旬、米国合同情報委員会は、日本の指導者達が戦争を終わらせるために降伏条件を緩和する方法を模索していると報告した。天皇は戦いを止める方法を積極的に模索していると、国務省は確信していた。――

 

A Secret Memorandum
アメリカ国民が争いを終わらせるための日本の努力について知ったのは戦後になってからであった。例えばシカゴ・トリビューン記者のウォルター・トロハンは、戦時下検閲のため、戦争の最も重要なストーリーのひとつを七か月間、余儀なく差し控えた。


結局1945年8月19日、シカゴ・トリビューンとワシントンタイムズ・ヘラルドの一面に掲載された記事で、スターリンチャーチルとのヤルタ会議に出発する二日前の1945年1月20日、日本政府の高官達からの五つの別個の降伏の申し入れについて概説した40頁の連絡書を、ルーズベルト大統領はダグラス・マッカーサー将軍から受け取ったと、トロハンは明らかにした。

 

9月2日の降伏文書調印式でアメリカによって最終的に受け入れられたものと実質的に同一の降伏条件を日本が申し入れていたことを、このメモは示した。すなわち、天皇を除いた全面的降伏。具体的に、和平申し込みに含まれていた条項は。


・本国、占領している島や国にある、日本軍と武器すべての完全な降伏。
アメリカの指揮下にある連合国軍による日本の占領と占拠。
・戦争中に奪ったすべての領土、ならびに満州、韓国、台湾の放棄。
・武器、その他の戦争の道具の生産を停止するための日本の産業規制。
・すべての戦争捕虜と被収容者の解放。
・指名された戦争犯罪者の引き渡し。

 

この連絡書は真正だろうか?大統領付参謀長のウィリアム・リーヒ提督からトロハンへと漏洩したと推定される。(Arthur Goddard編 "Harry Elmer Barnes : Learned Crusader" [1968] 327頁を参照せよ)。歴史家のハリー・エルマー・バーンズが関係した("Hiroshima: Assault on a Beaten Foe," National Review, 1958年5月10日)

 

――トロハン記事の信憑性は、ホワイトハウス国務省によって決して挑戦されたことがなかったし、もっともな理由があった。マッカーサー将軍が1951年に韓国から帰国した後、ワルドフ・タワーズ・ホテルの隣人、ハーバート・フーバー元大統領はトロハンの記事を将軍に渡し、マッカーサーは無条件に細部までその正確さを確認した。――

 

 

書籍の紹介

 

私は第二次世界大戦、およびそれに至るまでの歴史に関心を持っていると自負しておりますけれども、格別、読書量が多いわけではないことも事実です(amazonの「欲しいものリスト」に登録しつつも購入に至っていない書籍の数は膨大です)。それでもなお「平均的な方々」よりは第二次大戦に関する書籍を読んでいることだろうとの思い上がりから、本記事を作成することにしました。まったく当てにならない書籍紹介(プラスおまけ)ですけれども、もし何らかの参考になりましたら望外の幸せです。

 

 

 

『裏口からの参戦 : ルーズベルト外交の正体1933-1941』

 チャールズ・カラン・タンシル (著)

第二次世界大戦の背景を探るうえで私にとって最良の一冊でした。本著はドイツ・イタリア・日本が戦争に至るまでの背景を三国分けて描写しています。「裏切られた自由」よりもストーリー性があり、脚注もしっかりしています。日本に関する記述はすらすら読めたのですが、私に前提知識が欠けていたため、ドイツ・イタリアに関する記述は一読しただけでは消化しきれませんでした。換言すれば、私個人にとっては、本書は新たな・知らない情報の宝庫でした。やや高価であることが本書の唯一の欠点であろうと思われます。

 

 

『裏切られた自由 : フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』

ハーバート・フーバー (著)

本書も格別重要な一冊でしょう。編者:ジョージ・ナッシュ氏の序文にあるとおり「フーバーは自身の意見を原稿から外した。(中略) 意見ではなく当時の指導者自身の言葉や行為を示すことにした」ため、優れて客観的である反面、ストーリー性に欠けていることは否めないと思われます。読了後、当時を生きたフーバー氏の"言葉"をもっと聞いてみたかったと私には感じられました。脚注が極めて充実しているので本書の描写を超えて情報を集めることもできるでしょう。もう少し安価に入手できるのであれば、よりお勧めできるのですけれども。

 

 

ルーズベルトの開戦責任』

ハミルトン・フィッシュ (著)

学術書的な上記二冊とは異なり、どちらかというと本書は著者の経験・意見で構成されているので、比較的読みやすいことでしょう。WW2の背景に関する興味深い記述が溢れているにも関わらず、文庫版が出版されておりコストパフォーマンスに優れた一冊です。

 

 

ルーズベルト秘録』

産経新聞ルーズベルト秘録」取材班 (著)

本書は主に、WW2当時の米政府高官らの手記・回顧録・日記等で構成されています。したがって「回顧録には確かにそのように書かれているのだろうけれども、鵜呑みにして良いのだろうか?」と疑問を感じるような記述がいくらか混じっているようにも感じられます。ですが興味深い記述がそれ以上に多く含まれていることでしょう。本記事の作成時点ではamazon等で中古品を安価に購入できます。

 

 

満州国は日本の植民地ではなかった』

黄 文雄 (著)

本書は明らかに脚注(出典)が少なく、そのため記述の確からしさの点で見劣りすることは否めないでしょう。とはいえ現在までに私個人が入手したいくつかの情報と、本書の記述の一部とが一致していることも確かです。そのような弱点があるものの興味深い記述が複数含まれており、本記事作成時点で中古品を安価に購入できる点を加味して本書をお勧めします。

 

 

『歴史問題の正解』

有馬 哲夫 (著)

本書を一言で述べると、著者の自説を羅列した本です。反対説の検討が少なく記述が簡潔なため、読みやすい反面、著者の論述の確からしさに一抹の不安を感じざるを得ません。それでも私が本書をお勧めする理由は、その注釈(引用)の充実にあります。巻末を見ると William D. Leahy Papers や Henly L. Stimson Diaries などの文字列が。文庫(新書)とは思えないような引用が多々ありますので歴史好きには興味深い一冊ではなかろうかと思われます。

 

 

 

おまけ

オンラインで無料で入手できる、ブログ主が興味深く読んだWW2関連の論文を紹介します。

 

経済封鎖から見た太平洋戦争開戦の経緯
経済制裁との相違を中心にして―
高橋文雄

http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/201103/05.pdf

 

日中戦争期の中国におけるドイツ軍事顧問

フライブルク大学教授 ベルント・マーチン (進藤裕之訳)

http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200103/10.pdf

 

現代世界経済秩序の形成とアメリカ海軍の役割 : 世界史の全体構図から見た「太平洋戦争」の歴史的意味とその教訓

鹿野忠生・橋本金平

第5章 真珠湾アメリカにとっての「戦争突入への最善の方法」

https://home.hiroshima-u.ac.jp/~heiwa/Pub/33/Part2-3.pdf

 

 

満州事変の背景(その2・完結)

 

チャールズ・C・タンシル著 Back door to war; the Roosevelt foreign policy, 1933-1941. p.93-97の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

なお本書の全訳が『裏口からの参戦 : ルーズベルト外交の正体1933-1941』(渡辺惣樹 訳)のタイトルで8月23日に出版されるそうです。

 

 

(4) ANTI-JAPANESE EDUCATIONAL PROGRAMS IN CHINA
日本政府は、中国国民政府が吹き込んだ反日教育計画に深く悩まされた。計画は両国間の苦味を増大するのみならず、結局戦争を招くだろう。この敵対計画が満州で精力的に押し進められたことに格別いらいらしていた。上海の小学校では生徒は次の方法で教え込まれた。(a)作文:子供達は反日のエッセイや詩を書く必要がある。(b)書道:子供達は反日スローガンを複写することを求められる。(c)作画:日本人が済南で犯した残虐行為の悲劇的な場面を表す絵を子供達は描かなければならない。


宣伝(プロパガンダ)に関連して次の訓令が命じられた。(a)教師と生徒は、野外演説を行うため、5名単位の抗日愛国宣伝団体を組織するものとする。(b)大衆は、日本を、生涯の、かつ最大の敵であると考えるように教えられるべきである。(c)大衆は、国家の恥をそそぎ、国を救うために働くと誓うよう、求められるものとする。

 

1930年から40年の間、この反日プログラムは猛烈に押し進められ、日本の政治家は日中関係改善のための要求リストのうち極めて重要な項目を一つ保留した。リストを受領した中国は、それをほとんど考慮しなかった。

 

 

(5) THE LEGALITY OF THE TREATIES OF MAY 25, 1915
1915年5月25日に調印された条約を適法なものとして受け入れることを中国国民政府が拒絶したことは、1931年9月18日の戦争の勃発[満州事変/柳条湖事件]を最終的にもたらした深い苦味の根本的原因であった。21カ条の要求に由来するこれらの条約は、満州における日本の利益に確固たる根拠を与えた。南京[国民政府]は、袁世凱政権が強要されて署名したものであるから無効であると主張した。東京は合法性を主張し、ヴェルサイユは命令された条約であるとするドイツの憎しみは過酷な条文を無効にしなかったと、説得力を持って主張した。


日本にとっては、防衛の砦として、経済構造の要石として、満州が不可欠であることが明らかであった。米国にとってのカリブ海地域と同様に、北支が日本にとって重要であることを、国務省が認識することを日本の政治家は望んでいた。アメリカ政府はアメリカの欲求に反応する政府を樹立する目的でハイチとドミニカ共和国に軍隊を送った。この武装介入はごく最近であり、とても効果的だったので、北京のアメリカ代理公使は意義深い注釈で締めくくられた特電をケロッグ国務長官に送付した。「我々が、重要な地域、カリブ海で執り行った施策という観点から、倫理的に、満州における日本の計画に反対することはできない」。


1931年、日本は、奉天と南京の愛国主義者達によって窮地に追い込まれつつあると感じた。1915年の条約を反故にするため、協力した企てが行われていた。それらの条約は満州における日本の莫大な利益を守る上で不可欠であり、日本はそれをあきらめるよりも戦うであろう。どれほど衝突が切迫していたか、日本は気付かなかった。


1930年には日本の輸出貿易の大きな割合(17.7%)が中国に向かったので、この貿易の妨害は日本帝国の国家経済に深刻な影響を及ぼすであろう。1923年、1925年、1927年、1928年、日本に対する不買運動が宣言され、1931年夏の終わりの満州事変の後にも不買運動が開始された。これら不買運動の背後にあった組織勢力は、あらかた、反日宣伝を有効に活用した国民党であった。リットン報告書によると、日本との貿易が禁じられた時期に、多数の「違法行為」が中国人によって行われた。国民党と中国政府は大部分が同一であるため、日本は帝国に及んだ経済的圧力について、蒋介石とその顧問が実際に責任を負っていると主張した。


不買運動に関する証拠を検討する中で、リットン調査団は「日本商品の購入や、日本の銀行・船舶の利用、日本企業で働くこと、を個々の中国人が拒否する権利」を否定しなかったけれども、これらの経済兵器の使用が「友好関係と一致する」かどうか疑問を示した。日本に対する中国の経済的報復が両国間の不和を拡大するのに役立ったことは確かである。

 


(6) THE MURDER OF CAPTAIN NAKAMURA

敵対的な雰囲気が進展した1931年の夏は、火花が飛べば爆発が起こる状況であった。1931年6月27日の中村大尉の殺人によってこの火花がもたらされた。大尉は3人の通訳と助手を伴い、1931年の夏の間、軍事任務を負って満州に派遣された。中国当局にパスポートを検査されたハルビンで、彼は農業の専門家であると詐称した。東清鉄道でいくらか先に進んだ後、彼は Reclamation Army [開拓軍?] 第三連隊司令官、関玉衝の配下の中国兵に抑留された。6月27日、彼と仲間達は中国兵に撃たれ、その身体は行為の証拠を隠すために火葬された。

 

日本は主張した。
中村大尉とその仲間を殺したことは正当化されず、日本軍と日本国に傲慢な無礼を示した。満州中国当局は状況の公式調査の開始を遅らせ、事件の責任を引き受けることに消極的であり、事件の事実を確かめるためにあらゆる努力をしていると主張し、不誠実であった。

 

「事件の事実を確かめ」ようとする時に長い遅れが生じたことは確かであり、「日本人の忍耐に酷く負担をかけた」ことに疑いは無い。この中村事件は「他のどんな事件よりも、日本人の憤慨と、満州に関する未解決の日中間の困難について解決をもたらす力ずくの手段を支持する扇動を大幅に悪化させた」ことも事実である。

 

リットン調査団は中国の状況を研究していたけれども、共産勢力の増大の懸念を書き留めた。1930年、国民政府の軍隊は共産主義勢力に対する作戦に失敗し、そして翌年、満州事変が発生した時には、蒋介石共産主義者を追い払っているところで、共産主義者福建省方面に全面撤退すると報じられた。けれども彼らは機転がきき上手く逃げる相手だった。1931年の秋、彼らが攻勢を再開して間もなく「福建省江西省の大部分、そして Kwantung [広東省?]の一部は完全にソビエト化された」と報じられた。


この赤潮が中国の大部分を飲み込みかねない危険性を、日本は十分に認識していた。1932年、リットン調査団に提出した文書は、この共産主義の脅威と、中国国民政府がそれを制御できないことの明白さに重点が置かれた。日本の北支における利益が、中国のナショナリズムとロシアのボルシェビズムとの間の重圧に押しつぶされようとしている、と東京には思われた。国際連盟へのアピールはほとんど何も達成しないだろう。中国のナショナリズムは西側列強に同情的な聴衆を見い出した。彼らの大半は、南京政府が主張した虚構や疑わしい主張を受け入れる傾向があった。北支における日本の要地は、赤に浸透されるか、愛国心が「憎しみの炎」に転じた熱烈な中国人ナショナリスト達に首尾よく攻撃される、深刻な危険に直面した。

 

日本が直面したジレンマは、1931年に中国と日本の仲介者として働いたジョージ・ソコルスキーが、明確かつ適切に述べた。

 

ここで、1931年に中国と日本を和解させるための最後の努力がなされたことを思い起す必要がある。実際のところ、私は、幣原男爵や外務省らと会合するため中国から日本へと向かう、和解を試みる手先であった。日本の態度は懐柔的だったが中国人は概して敵対的だった、といえる。

 

・・・中国と日本を仲違いさせ続けるため二つの勢力が働いていた。ソビエトロシアと国際連盟ソビエトロシアは1924年以来、中国国民の間で、ロシア人を除くすべての外国人、とりわけ英国人と日本人に対する憎悪を煽動する活発な計画に従事していた。国際連盟事務局は、中国で、広範な分野の活動を代理人・・中国で多くの時間を過ごしていたルドヴィク・ライヒマン・・を通じて展開していた。日本は連盟の一員であり、ライヒマンは連盟の被雇用者であったけれども、ライヒマンは激しい反日だった。ライヒマンはポーランド人で、今は国際連合と関係がある。