Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

外交政策と和平

 

1941年3月15日付。ロシュリン・クリーからルーズベルト宛ての報告書から一部を翻訳しました。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

Foreign relations of the United States ... 1941 v.4.| HathiTrust Digital Library p.90-92

 

 

 

XI—Foreign Policy and Peace.
蒋介石総統は、アメリカとソビエト連邦との関係がより緊密になることへの希望を表明した。彼の見解として、ロシア人は外交によって影響を受けたり意見を動かされることはないけれども、自分の利益に関して真剣に欲しい物があれば、彼らは通常それを手に入れる方法を見つける、と彼は示した。ロシア人はドイツとの必然的な衝突のために準備しており、アメリカの科学技術を必要としていると彼は感じた。したがって、ロシアはアメリカとのより緊密な関係を確保する努力をするであろう。

 

中国とロシアとの関係について、私は蒋と孫科から興味深い付帯的な情報を受けた。共産主義者孫文の中国での三民主義の訴えを制限することで、孫文とレーニンは合意に達した、と蒋は語った。その時以来、特に1935年以来、国民政府に対するロシアの態度は念入りに礼儀にかなっていた。ソビエト政府は皖南事変を純然たる内政問題とみなすことを明らかにした。だが彼はソビエト政府と第三インターナショナルとを鋭く区別し、後者が中国共産党の方針を決定していると主張する。ソビエト政府は単独で、日本と戦う目的のために多くの援助を提供したが、非軍事目的には一銭も提供していないと彼は述べた。

 

ロシア特使として務めている孫科は、1937年初期にロシア大使が、その後に相互援助条約を伴うであろう不可侵条約を提案したと述べた。中国政府はこの提案を利用しなかった。日本の侵略の後、孫科は相互援助条約案を復活させるためモスクワに派遣された。スターリンは彼に状況が全面的に変わったことを告げた。相互援助条約の本質は侵略を防止するためであったが今や侵略が発生し、そのような条約の締結はロシアが日本に宣戦布告するも同然であろうし、そしてロシアは行動する準備ができていない。とはいえ彼は不可侵条約を締結し、融資を行う準備ができていた。それからスターリンは、国連連盟に問題を提起するように、そして、もし連盟の主要な列強が経済制裁を用いる準備ができているならロシアは軍事制裁を適用するだろう、と彼に告げた。1938年6月、ロシアは与信枠を5千万ドルに拡張し、これは9月に5千万ドルがさらに追加された。この1億ドルは、1000機の航空機、航空スタッフ、野戦砲やマシンガンを獲得する目的に大部分が使用された。1939年9月に拡張された1億5千万ドルの最後の与信のうち、相当な金額がまだ消費されていない。

 

ソ連政府と中国共産党との関係について、スターリンは、国民政府と中国共産党との紛争は純粋に内政問題と考えていると述べた。1935年と1936年に、スターリン中国共産党に、国民政府との統一戦線を作り日本に対抗して備えることを力説した。彼は以前からずっと、ロシア型の共産主義について、中国は準備ができていないか賛成しないと考えていた。スターリンは中国内に領土的野心を持っていないこと、そして国民政府が外モンゴルで適切な権限を主張する立場になれば、すぐさまロシア人は外モンゴルの後見を手放すであろうことを、孫科に保証した。1935年のいつ頃か、日本人の傀儡になる準備ができているイスラム教徒の指導者との対立において、中国の軍服を着た2個師団の形式で、ロシア人は新疆の中国人指導者を支援した。これは国民政府を除き、ロシアが取引をした唯一の機会だった。第三インターナショナルは現在かなり不活発であると孫科は確信していた。蒋は、日本人はいつも、どのような弱さの兆候でも利用しようとし、決然とした挙動に遭遇した時には手を引くという見方の熱心な支持者であった。アメリカが極東に適切な基地を持っていれば、日本の南方への行動の危険はないであろうと彼は確信していた。彼はグアムの強化を熱心に提案し、もちろん中国から日本への爆撃による抑止効果を大いに強調した。日本で訓練を受けたことがあったり日本人を知っていると主張する者は皆、日本はあえて蘭領東インドを占領するよりも先にシンガポールに着手するだろうし、それはインドシナ半島とタイにおける彼らの立場を強化して空軍基地と供給基地を建設してからであろう、と理路整然と話した。

 

和平または宥和政策に関しては、私は他人を介さずに直接聞いた事柄はない。通訳を務め、私と親密になった情報担当副大臣の董顕光は、「戦争にうんざりしていた」人々が政府にいたが、その線に沿って敢えて蒋介石と話をした者はいない、と私に語った。蒋介石自身は、どれほど魅力的な申し出であろうとも、日本と別個の和平をなすことはないと私に保証した。彼が参加する唯一の和平は、アメリカ人の招集の下で、アメリカ、英国、ソビエト、中国、日本によって取り決められたものになるであろう。和平の主目的は100年の平和でなければならない。彼はこの目的[結末]を達成するため、報復的ではなく寛大であるよう準備ができていた。挿話として、彼が各将軍に示す彫刻された儀式用の短剣が、このようなものを動かす処世訓であることを述べるだろう。「中国の領土が外国の支配下にある限り、軍人ににとって恥辱である」。

 

私はアメリカからのわずかな気配りと配慮に即応して、蒋介石を保持することができると思う。アメリカに対する彼の態度には、感情と利己主義が部分的に混ざっている。彼は熱烈にアメリカを、そしてとりわけあなたを賞賛する。対等ないし同盟国として扱われることは彼にとって大きな意味を持つであろう。私が到着する少し前、彼はクラーク・カーに、イギリスは中国を同盟国として扱ったことがなく、トルコに与えられた待遇でさえ中国には与えられていないと非難した。中国が民主主義国の共同の世界闘争に参加することで、中国が「民主主義」とみなされることを彼は最も懸念している。利己主義の観点から、彼は戦後復興の大事業においてアメリカの援助にほとんど全面的に頼っている。彼はこの話題に何度も戻った。彼はイギリス人に対してより強く憤る。

 

物質的な援助を与えることに加えて、中国について良いことを言うように尽力することと、現在イギリスに使われているのと同じ表現で中国に話すことが最も重要だと思う。また、心に留めておくべきこととして、戦後解決において上海国際租界の権益を放棄することは、中国の親善を劇的に向上させるであろう。蒋は条約港に深く憤慨する。


この見出しの下、もう1つの話題に言及できよう。中国行きの貨物を運ぶ船舶への封鎖を拡大するため、日本が交戦権を発動するかもしれないことを蒋は恐れている。そのような状況において、あなたがそのような権利を認めないこと、あなたが日本への禁輸を準備しようとすること、輸送のために中国に護送船団を供給すること、を彼は希望する。この問題は私の職分の範囲外であるけれども、日本が交戦権を発動するならアメリカは可能な報復措置を検討するであろうという趣旨の、賢明な「リーク」には有益な抑止効果があるであろうことを思いついた。この可能性はまた、インドとラングーンへの物質輸送の集中が望ましいことを示唆する。

 

 

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I am a juggler

 

 

1936年8月10日付 ルーズベルトから海軍作戦部長

"One obvious thought occurs to me—that every Japanese citizen or non-citizen on the Island of Oahu who meets these Japanese ships or has any connection with their officers or men should be secretly but definitely identified and his or her name placed on a special list of those who would be the first to be placed in a concentration camp in the event of trouble."

(ネット上にあった翻訳)

わたしに明確な考えが浮かんだ。日本船舶・乗組員に接触するオアフ島日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ。

 

 

1942年5月15日 ルーズベルトの発言

"You know I am a juggler, and I never let my right hand know what my left hand does…I may have one policy for Europe and one diametrically opposite for North and South America. I may be entirely inconsistent, and furthermore I am perfectly willing to mislead and tell untruths if it will help win the war."

(ネット上にあった翻訳)

私はジャグラー(曲芸師)なのだ。右手と左手が全く別々の動きをする。 たとえば欧州向けに特定の政策があっても、 北米や南米では全く正反対の政策を平気で実施することができる。 私は矛盾だらけで、ミスリードだってする。戦争に勝つためなら嘘だってつく。

 

 

America's Retreat From Victory : Internet Archive p.44

The government at Chungking was our ally. We had come through a long, hard war together. It was we who had encouraged Chiang to resist, to treat with scorn the entreaties of the Japanese that China fall out of the war so that the combined forces of Asia could fall upon the Americans in the Pacific and the Far East. We owed much to Chiang.

(本原俊裕訳『共産中国はアメリカがつくった』p.137)

重慶政府は私たちの同盟者だった。私たちは長く辛い戦争をともに戦った。蒋介石に対して、アジアの兵力を結集して太平洋や極東の米軍をたたくために中国は戦争をやめるべきだという日本の申し出に抗い、無視せよと勧めたのは私たちだ。私たちは蒋介石に大きな借りがある。

 

 

ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し兵士訓練も  - Yahoo!ニュース

1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。

Project Hula - Wikipedia

 

 

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機密のポーランド文書(その12・完結)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

President Roosevelt's War
1941年4月、ノースダコタ州のジェラルド・ナイ上院議員は、いつか第二次世界大戦ルーズベルトの戦争として記憶されるだろうと予言した。「この戦争に我々がいつか関わることがあれば、将来の歴史家によって”大統領の戦争”というただ一つの題名でそれが呼ばれることであろう、なぜなら彼のシカゴでの隔離声明[1937年10月5日]以来、あらゆる面において戦争に向かっているからだ」。

 

偉大なアメリカの歴史家であるハリー・エルマー・バーンズは、ルーズベルトの干渉がなかったならば、戦争はおそらく1939年に予防されたかもしれないと信じた。「実に、ルーズベルト氏の、イギリス・フランス・ポーランドへの圧力が、そして1939年9月以前のそれらの国、とりわけイギリスに対する彼の約束が、そして彼の手先の工作員ウィリアム・C・ブリットの無責任で奇怪な行為が無かったなら、おそらく1939年には世界大戦が・・あるいは、おそらくその後何年にもわたって・・起こらなかったであろうことの、まさしく決定的な証拠がある」。

Revisionism: A Key to Peace にバーンズは書いた。

 

――欧州での戦争の勃発に対して、直接的にも間接的にも、ルーズベルト大統領には主要な責任がある。彼が1936年のキャンペーンにおいて熱心な孤立主義の演説をした数か月前・ドイツがラインラントを再占領した1936年3月に、早くも彼はヒトラーに立ち向かうようフランスに圧力をかけ始めた。フランスとイギリスへの圧力は、まさに1939年9月に戦争が始まるまで続いた。1937年10月の隔離演説の後、その音量と勢いが増した。ミュンヘン会談と戦争勃発との間の危機が近づいた時には、ルーズベルトは、ドイツのいかなる要求にも強硬に立ち向かうようポーランド人に圧力をかけ、ポーランド人を断固として支援するようイギリスとフランスに力説した。

もしも、ルーズベルトの激励や、戦争が起こった場合には彼が合衆国の世論を思い通りに処理できれば合衆国はすかさずイギリスの側で参加するだろうとの彼の保証がなかったならば、1939年9月にイギリスが戦争を始めただろうということには重大な疑念がある。

ルーズベルトは戦争が勃発した1939年の前においてでさえ、すべての中立性の外観を放棄し、反干渉主義のアメリカ世論を前にして、欧州の紛争にこの国を関与させるため、できる限り安全かつ可能な方法で迅速に行動した。――

 

フランクリン・ルーズベルトの歴史上の立ち位置について最も知覚の鋭い評決の一つは、スウェーデンの偉大な探検家であり作家であるスヴェン・ヘディンの筆から来たものだ。戦争中に彼は書いた。

 

――新たな世界大戦が起こった経路についての疑問は、1919年の平和条約によって造られた基盤のため、第一次世界大戦後のドイツと同盟国への抑圧のため、またはイギリスとフランスの古くからの政策の延長のため、という原因だけでは解明されない。決定的な圧力は大西洋の反対側からきた。

ルーズベルトは民主主義を語り、それをとめどなく破壊する。彼は、アメリカの生活様式保全や平和の名の下に彼に忠告する者を、非民主的でアメリカ風でないと中傷する。彼は民主主義を、模範というよりむしろ、風刺画に作り変えた。彼は言論の自由について語り、彼の意見を支持しない者を沈黙させる。

彼は信教の自由について語り、ボルシェビキの政策と提携する。

彼は貧困からの解放について語るが、1000万の自国民に、仕事、パン、収容所を提供することができない。彼は戦争の恐怖からの解放について語る一方で戦争のために働き・・枢軸国が彼らと協力していたかもしれない時に、それに対抗して彼の国を煽り立てることで、自国民のためのみならず世界のために働き、そして彼はそれによって数百万を死に追いやった。

この戦争はルーズベルト大統領の戦争として歴史に残るであろう。――


表向き巧みに編成した平和の偉大な人物としてのルーズベルトへの称賛は、1939年に欧州を戦争に陥れたという彼の重大な役割を永遠に隠すことはできない。

 

********


ここに記載された出来事が起こってから今や40年以上経っている。多くの人にとって、それらは忘れたほうがよい過去の、関係の無い部分だ。しかし、フランクリン・ルーズベルトがいかにして欧州の戦争をたくらんだのかの話は極めて関係している・・ 特に今日のアメリカ人にとって。この原子力の時代よりもその過去の教訓が重要であったことはかつてない。少なくとも理解のある少数者が、なぜ・どのように戦争がつくられるのかを理解しない限り、我々は、我々の時代の戦争屋達を抑えるのに無力のままであろう。

 

 

*原文にはこの他、脚注・参考文献・さらに読むための文献が記載されています。

 

 

機密のポーランド文書(その11)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

Betrayal, Failure, Delusion
ポーランド・イギリス・フランスを、ドイツと戦争させるルーズベルトの努力はあまりにも成功した。その結果は、計り知れない死と悲惨と破壊であった。ルーズベルトが意図し計画してきたように戦闘が始まったとき、ポーランドとフランスの指導者達は、アメリカ大統領は少なくとも戦争の際の支援についての保証を履行することを期待していた。だがルーズベルトは圧倒的多数のアメリカ人の平和感情の深さを当てにしたことはなかった。このように、彼の自国民を欺くことに加えて、彼が支援を約束した欧州の人々をもルーズベルトは失望させた。


ヨーロッパの戦争に関わらないとする、1939年後半のように国民の見解が一致したのは、アメリカの歴史において稀である。1939年9月に戦争行為が始まったとき、ギャラップの調査ではアメリカ人の94%は戦争に関与することに反対した。この数値は12月に96.5%に上昇してから徐々に低下し始め、1941年の秋には約80%だった。(今日において、60〜70%の水準ですら国民の見解の一致をみる問題はほとんどない)

 

ルーズベルトはもちろん、この問題における国民感情の激しさに気付いていた。平和を愛しアメリカは参戦しないとの、彼の決意についてアメリカ国民を繰り返し欺いたと同時に、欧州とアメリカを戦争に陥れるために彼の力であらゆることを行ったのは、それが理由だった。

 

対ドイツ戦争について、合衆国からイギリスへの支援を、大統領が約束したと疑った何百万のアメリカ国民の募る懸念に、ルーズベルト大統領は1940年の大統領選挙運動の主な演説で応えた。根拠の確かなこれらの疑惑は、3月に発表された押収されたポーランド文書に部分的に基づいていた。1940年10月23日の演説は、フィラデルフィアからラジオ放送で全米に放送された。ルーズベルトは可能な限り強調した言葉で、彼が「何らかの方法で外国の戦争への合衆国の参戦を形成」したことを断定的に否定した。

――私はこの国の国民とあなたに最も厳粛な保証を与える。この国をなんらかの戦争・なんらかの目的に巻き込むための、いかなる政府、世界のいかなる国家との、直接あるいは間接的な、いかなる形での秘密の合意は無く、秘密の条約は無い。――

 

もちろん、この敬虔な宣言は、ルーズベルトの厚かましく恥知らずな、アメリカ国民への数々の嘘のひとつにすぎない。

 

ルーズベルトの政策は単なる不誠実を超えていた・・犯罪だった。合衆国憲法は、唯一、議会に戦争をなし和平をなす権限を与えている。そして議会は、欧州で戦争が起こった場合にアメリカの中立性を特に保証するため、いくつかの重要な法律を可決してきた。大統領として憲法を支持する誓約にルーズベルトはたびたび違反した。もし彼の秘密の政策が明るみになっていたなら、国民からの、彼の弾劾請求は止めることができなかった可能性が高い。

 

ウォーターゲートのエピソードは、多くのアメリカ人に、彼らの大統領が犯罪行為をなしうるという事実を深く認識させた。この事件はリチャード・ニクソン大統領に辞任を余儀なくさせ、彼は依然として広く犯罪者とみなされている。彼の名前にちなんで名付けられた学校はなく、彼の名前は、普通はすべてのアメリカ大統領に贈られる敬意を受けることはないだろう。だがフランクリン・ルーズベルトの犯罪と比較すると、ニクソンの犯罪は色あせてしまう。ルーズベルトの嘘と比較すると、ニクソンの嘘はどうだったであろうか?重大な戦争を引き起こすための違法な秘密のキャンペーンと比較すると、犯罪を目的とした不法な建造物侵入を揉み消すことはどうだろうか?

 

ルーズベルトの記録を擁護する人々は、アメリカ国民の利益のため、彼は国民に嘘をついたと主張する・・彼は高尚な原則のために法律を破ったと。彼の虚偽は、原因が崇高であったゆえ許容されると考えられている一方で、ジョンソン、ニクソン大統領の同様の欺瞞は、二例とも、そのように考えられていない。これはもちろん偽善的な二重の基準だ。そしてその主張は民主制度を上手く表現していない。その主張は、自らの最高の利益を理解するには民衆はあまりにも愚かであるのだ、という内容を暗に含む。さらには、その主張は、最良の政府の形態はある種の博愛的な自由民主独裁政権である、と示唆している。

 

ルーズベルトヒトラーに対する憎しみは深く、激しく、熱烈だった・・ほとんど個人的な。彼らの個人的な性格だけでなく、国家指導者としての記録についても、二人の間の多数の対比に根ざした永続的な嫉妬と羨望が、少なからずこの原因であった。

 

表面的にはルーズベルトヒトラーの公的生活は驚くほど似ていた。両者は1933年の初めにそれぞれの国の指導者の地位に就いた。二人とも破滅的な世界経済不況の中、大量の失業者という大変な難題に直面した。歴史の中で最も破壊的な戦争の間、どちらも巨大な軍事同盟における強力な指導者になった。欧州での第二次世界大戦が終わる直前、1945年の4月、お互い数週間以内に、政権を握ったまま、両者は死んだ。だがこの二人の人生における非常に大きな差異は、いっそう注目に値する。

 

ルーズベルトはアメリカで最も裕福な家庭のひとつに生まれた。彼は物質的な悩みから完全に解放された人生だった。彼はワシントンのオフィスから海軍次官として第一次世界大戦に参加した。一方、ヒトラーは地方の質素な家庭に生まれた。若い頃、彼は貧しい肉体労働者として働いた。彼は西の激戦地の地獄の中、前線の兵士として第一次世界大戦に従事した。彼は何度も負傷し勇敢さを受勲された。

 

ルーズベルトの魅力的な物腰・なだめすかすレトリックにもかかわらず、彼はアメリカが直面している大きな課題を克服できなかった。彼の4年の任期の後でさえ、失業した、栄養不良の、貧しい何百万人が、類い稀な繁栄のための、あらゆる資源に恵まれた広大な土地に収容されたままであった。ニューディール政策は労働者と資本家の間の激しいストライキと血まみれの衝突に悩まされた。暴動や武力衝突の中で繰り返し起こった、深刻な、うずまく国内の人種問題を解決する方策を、ルーズベルトは何ら採らなかった。ドイツではそのストーリーは非常に異なっていた。数年以内に、内戦の危機にある経済的に破滅した国土から欧州の大国へとドイツを一変させるという、急進的な計画を背景にヒトラーは国民を結集した。歴史的に並行することなく、ドイツは社会的、文化的、経済的な再生を経験した。ルーズベルトヒトラーの個性の対比は、同時に、二国間の全く異なる社会政治システムやイデオロギーの対比であった。

 

とはいうものの、ルーズベルトを単なる冷笑的な政治家であり、強力な外国人の利益のための傀儡であると描写するのは不正確であろう。確かに彼は、自分自身を邪悪な人間と考えなかった。イギリスとフランスを対独戦争へと圧迫する中で、彼は正しく高貴なことをしていたと本気で信じていた。彼の前のウィルソンやそれ以降の前任者達のように、ルーズベルトは彼自身を比類なく適任であると感じ、そして平等主義、普遍的な民主主義という彼の将来像に従って、世界を作り直す運命によって呼びかけた。彼は、多くのアメリカの指導者たちがそうであったように、世界は、アメリカに続いて再構築されることによって、世界それ自体から救われると確信した。

 

ウィルソンやルーズベルトのような大統領は、共に平和に生活するため、互いに異なる集団的な同一性を相互に尊重せねばならない、さまざまな国や人種、文化の複合体としてではなく、むしろ、地球を道徳的な国と邪悪な国とに分割する、独善的な宣教師の見方に照らして世界を眺める。そのような物事の仕組みにおいては、アメリカは神意による正義の力の不変の指導者だ。幸いなことに、この見解は、合衆国の中で権力を行使する人々の経済的、政治的利益に、期せずして対応することがあるにすぎない。

 

 

機密のポーランド文書(その10)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

President Roosevelt's Campaign To Incite War in Europe

 

 

 

Powers Behind The President
ルーズベルト大統領は、強力な味方からの助けがなければ、ヨーロッパで戦争を扇動することはほとんどできなかった。彼の背後には、利己的な国際金融と、ドイツの破壊を決意したユダヤ勢力が立っていた。真珠湾攻撃に先立ち、欧州戦争へのアメリカの関与のための公衆の支持を呼び集めた主な組織は、巧みに名付けられた”味方の援助によるアメリカを防衛する委員会” [Committee to Defend America by Aiding the Allies] だった。ルーズベルト大統領自身が設立を開始し、主要な政府職員は委員会の指導者と頻繁に相談した。

 

カンザス州の小さな町の初老の新聞発行者、ウィリアム・アレン・ホワイトが、当面はトップであったけれども、実際は、アメリカの巨大軍需産業への抜け目ない投資と、追い詰められたイギリスへの貸し付けからの、途方もない利益に固執した、強大な金融勢力によって委員会は組織された。1940年末、ウェストバージニア州上院議員、ラッシュ・D・ホルトは委員会の詳細な検査を行い、それは、理想主義的な響きのスローガンの背後にある支持母体の勢力を暴露した。

 

――委員会は、銀行、保険会社、金融投資会社、および工業会社との強力な関係を持つ。これらは、大学の学長や教授、同様に新聞・ラジオやその他の報道手段に、次々と影響を与える。グループによって使用された強力な影響の1つは、”400”と社会の趨勢だ。そのあらすじは公益についての背信行為というさもしい描写だ。

強力なJ.P.モルガン勢力は、大英帝国における持ち株を伴って、組織化の計画を助け、最初の費用を寄付した。――

 

委員会で活動する重要人物の一部がホルトによって明らかにされた。

Frederic R. Coudert:第一次世界大戦中の合衆国における英国政府の有給の戦争宣伝者。ロバート・S・アレン:ピアソンとアレンの、多数の新聞に同時配給されていたコラムの人物。ヘンリー・R・ルース:タイム、ライフ、フォーチューン誌の影響力のある発行者。フィオレロ・ラガーディア:性格が激しいユダヤ人ハーフのニューヨーク市長。ハーバート・リーマン:軍需産業における重要な金融上の持ち株を持ったニューヨーク州ユダヤ人知事。フランク・アルツシュール:軍需品・軍用品企業に手広く持ち株を持つ、ユダヤ投資銀行ラザードの役員。

 

もし委員会が合衆国を参戦させることに成功した場合、「アメリカの少年達は、暴利屋、政治家、愛国のために血を流すであろう。もし戦争が起これば、ホワイトの委員会の後援者の手は血塗られるだろう・・不必要な戦争で殺されたアメリカ人の血」とホルトは警告した。

 

1941年3月、委員会の財政的後援者の大部分のリストが公表された。それは、アメリカを欧州戦争に持ち込むことを熱望している力の素性を明らかにした。強力な国際銀行の事業者達が申し分なく示された。J.P.モルガン、ジョン・W・モルガン、トーマス・W・ラモント、その他の偉大なモルガン金融会社が記録された。ニューヨーク金融界からの他の重要な名前には、ポール・メロン夫妻、フェリックス・M・ウォーバーグ、ジェームズ・F・ウォーバーグ、J. Malcolm Forbes。シカゴの百貨店のオーナーで出版業者(訳注:シカゴ・サン紙を含む)のマーシャル・フィールドは寄付者、同様だったウィリアム・アヴェレル・ハリマン、後にモスクワでルーズベルトの大使を務めた鉄道と投資の億万長者。

 

もちろん、ユダヤ人の名前は長いリストのかなりの部分を占めていた。ハリウッド映画のツァー[ロシア皇帝]、サミュエル・ゴールドウィン・スタジオのサミュエル・ゴールドウィンがいた。加えて国際婦人服労働組合の会長、デイヴィッド・ドゥビンスキー。巨大なコロムビア放送のトップによって設立されたWilliam S. Paley財団は、委員会に貢献した。ニューヨーク州知事、ハーバート・リーマンの妻の名前もリストに載っていた。

 

組織化されたユダヤ人集団との親密な関係についての理解がなければ、ルーズベルトの政策はほとんど理に適わない。ユダヤ人歴史家としてルーシー・ダビドビッチは特筆した。「ルーズベルト自身が彼の前後に、その他の会長[社長]よりもユダヤ人を、彼の直接のサークル[団体]に連れてきた。フェリックス・フランクファーター、バーナード・M・バルーク、ヘンリー・モーゲンソウは、彼の親密な顧問だった。ベンジャミン・V・コーエン、サミュエル・ローゼンマン、デイビット・ナイルズは彼の友人であり、信頼できる補佐官だった」。これはおそらく、ルーズベルトの1/8がユダヤ人の家系と伝えられていることに照らすと、さほど驚くべきではない。


リンドバーグの日記、1941年5月1日の記入で、アメリカ人パイロットのヒーローであり平和の指導者である彼は、アメリカ合衆国を戦争へと追い込んでいた提携団体を暴いた。

 

――参戦の圧力は高く、しかも日一日と高まりつつある。民衆は参戦に反対だが、行政府はそれに反して「勝手気ままに振る舞い」、参戦への姿勢を固めた気配が感じられる。この国におけるユダヤ勢力の大半は参戦を支持しており、しかも彼らはわが国の新聞やラジオの大部分と、映画の大半を支配下に置いているのだ。また例の”知識人”とか”イギリスびいき”とか、また自由自在に活動するイギリスの工作員、国際的な金融勢力、その他大勢が控えているのである。――

 

ジョセフ・ケネディユダヤ人勢力についてのリンドバーグの懸念に同調した。戦争が勃発する前、「我々の報道を支配するユダヤ人」と、彼が平和と繁栄の脅威と考えた概して世界ユダヤ人集団に対する懸念を、彼は私的に表明した。戦闘行為の開始直後、ケネディは「報道やワシントンの中の増大しつつあるユダヤ人の影響力が戦争の継続を要求している」と嘆いた。

 

 

リンドバーグの訳は、リンドバーグ第二次大戦日記 (上) 角川ソフィア文庫 p.350 より