Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

オットー・レーマー少将は語る(その2・完結)

 

この記事は 歴史的修正主義研究会 からの転載です。

(原文)An Interview With General Otto Ernst Remer

(引用元)オットー・レーマー少将は語る

 

 

Q:以前、ユダヤ人人民委員について話されていますね?

A:問題は、ドイツ軍やその他の国々の軍隊とは異なって、ソ連軍には、指揮官とともに、命令を発する権限を持つ政治人民委員がいたことです。ほとんどがユダヤ人でした。

例えば、[ウクライナの]リヴォフの東のタルナポリとゾロチェフで、軍事攻勢がすみやかな成功を収めたときの事例をあげておきます。私自身が経験したものです。

われわれはゾロチェフを占領し、2両の戦車が遅れて続いていました。敵の反撃があるのか、それともこのまま攻撃を続けるのかはっきりしていなかったので、わが軍は町外れで休息をとっていました。戦車の到着待っていたのです。この小さな町で、私は幼い子供たちが窓から放り出されているのを目にしました。また、通りに倒れた女性が棍棒で死ぬほど殴られているのを目にしました。彼らはユダヤ人でした。

私は[地元の]女性を呼びつけました。彼女は私の車にやってきて、「私たちがなぜ困難ことをしているのか教えてあげます」と言いました。

われわれは車で地元の刑務所に向かいました。囚人が散歩するための、壁で囲まれた区画がありました。そこには、死体がうずたかく積み上げられていました。まだ、血を流している死体もありました。

2時間ほど前、ソ連軍が撤退するときに、ソ連兵は、投獄されていた地元をウクライナ民族主義者たち全員を機関銃で銃殺したのです。

これをやらせたのがユダヤ人人民委員でした。だから、地元のウクライナ人たちがユダヤ人にポグロムを行なっていたのです。ウクライナ人は、ユダヤ人を見かければ、すぐに殺しました。われわれはこの当時、地元の事柄に影響を与えることがまったくできなかったにもかかわらず、このポグロムの件で非難されているのです。われわれが秩序を回復することができたのはかなりあとのことでした。

 

Q:ウクライナ人によるポグロムは、ドイツ人の名誉を傷つけるために意図的に行われたのですか?

A:いいえ、こうした反ユダヤ主義ポグロムは、人々の怒りの表現でした。彼らはユダヤ人を憎んでいたのです。

ポーランドでも、ポグロムがたびたび起りました。ご存知のとおり、戦後になってからも、ポーランドではユダヤ人に対するポグロムが起りました。東ヨーロッパでは、ユダヤ人たちはいつも上品な人々・良き商人と称してきましたが、彼らに対する人々の怒りは、筆舌に尽くしがたいものです。

 

Q:身近で見るヒトラーはどのような人物でしたか?

A:総統は完璧なホストでした。私は、ヴォルフスシャンツェの総統本営にいたとき、総統が、誰であろうとゲストをスケジュールどおりに出迎えることに特別な関心を支払っていることをたびたび目にしました。

総統は、鉄道の駅でゲストを出迎える前に、本営ではすべての準備が整っていることを確認しようとしていました。

総統は、絨毯と食器がマッチしているかどうかをチェックし、ゲストが快適にすごせるように誰もが配慮するように熱心に促していました。総統は、ゲストのことに心を砕いていたのです。

総統の建築家へルマン・ガイスラーが総統についての本を書いています。[『もう一人のヒトラー、回想』]。素晴らしい本であり、おすすめします。ガイスラーはとても優れた人物で、よく物まね、とくにロベルト・ライ[ドイツ労働戦線指導者]の物まねが上手でした。総統はこのことを知っていたので、ガイスラーにライの演説を真似するように求めました。ガイスラーはユーモアたっぷりに「総統、できません。そんなことをすれば、彼は私のことを収容所に送ってしまいます」と答えました。すると、総統は、「私が連れ戻してやるから」と楽しげにいいました。総統はこのような人物だったのです。そこで、ガイスラーはライの物まねをしました。[レーマーはライの物まねの真似をする。]総統は、目から涙があふれるほど大笑いしました。

 

Q:ヒトラーの恋愛生活はどうでしたか?

A:総統にはそんな時間はありませんでした。総統は、妻に割くような時間はないといつも言っていました。エファ・ブラウンは彼女なりの役目をよく果たしました。二人の関係を知っているものは誰もいませんでした。秘密が保たれていたのです。エファは、ゲストが多くいたときにも、うまく立ち回っていました。

総統が恋愛経験豊富だったとは思いません。首相になるために戦っている時期に、ゲリ・ラウバルという姪がいました。総統は彼女に十分な関心を向けることはできませんでしたが、彼女は総統のことを愛しており、そして自殺してしまいました。ゲリは、総統が本当に愛したたった一人の女性でした。

 

Q:ヒトラーには子供がいましたか?

A:ナンセンスです。総統は子供を望んでいませんでした。

総統は自分のことを国民の代表とみなしており、このイメージと矛盾してしまうようなことを私的生活でも拒んでいました。自分のことを政治家とみなしており、国民が自分に期待しているイメージに一致するようにいつも心がけていたのです。

 

Q:国民は自分たちの総統が子供を持つことを望まなかったのですか?

A:望んでいたかもしれませんが、そのためには、総統は結婚して、夫にならなくてはなりませんでした。しかし、総統は、そのような時間はないといつも言っていました。

総統が、数mのコンクリートで保護された新しいヴォルフスブルクの本営に移動したときにも、私は同行しました。総統が新しい寝室に入ったとき、そこには通常の兵士用のベッドが置かれていましたが、その上にはマットレスが二つ敷かれていました。これを目にすると、総統はそれとなく「兵士は二つのマットレスの上で眠るからか?」と尋ねました。副官が困惑の様子を見せると、総統は、「一つを片付けてくれ」と言いました。総統はこのような人物でした。ご自分のことにはとくに気にかけなかったのです。

総統は本営の周辺の防衛ラインを私費でまかなっていました。政府から1ペニーの給料も受け取ったことはありません。戦争末期まで、費用のかかる6kmの道路も含む防衛ラインを私費でまかなっていました。

総統は、1億部以上も売れた『わが闘争』からの印税によって、金持ちでした。しかし、政府の金は1ペニーも受け取っていません。

 

Q:レーマー将軍、あなたはドイツとソ連との協力を呼びかけてきましたね。そのことについてお話ください。

A:われわれドイツ人はNATO同盟を離脱すべきです。軍事的に自立すべきです。非核地帯を設置すべきです。ロシア人との理解を深めなくてはなりません。すなわち、ロシア人とのあいだで合理的な国境を定めなくてはなりません。そうすることができるのはロシア人だけです。この点ではアメリカ人は影響力を持っていません。

見返りとして、[ロシアの]原材料を購入し、ロシア人と協力して数百のプロジェクトを実行することを約束します。それによって、ドイツの失業問題も解決されます。イデオロギーとはまったく関係ありません。ロシア人は経済的に遅れているので、喜んでこの件に賛同するでしょうし、イデオロギーからも解放されるでしょう。

 

Q:フランス人はどのように反応するでしょうか?

A:フランスはわれわれと協力しなくてはならないでしょう。フランスはドイツよりも経済的には脆弱なので、西側ではドイツと交易しなくてはならないからです。ドイツにとっては、アメリカが死活を賭けたライバルなのです。

 

Q:独ソ同盟は戦争をもたらしませんか?

A:いいえ、逆です。われわれは戦争を防止するでしょう。ロシア人も戦争を望んでいません。ゴルバチョフ提案の意味はそこにあります。戦争を望んでいるのはアメリカです。

 

Q:アメリカは紛争を引き起こそうとしていませんか?

A:ドイツがロシアとの理解に達することができれば、アメリカにとってはそれで終わりです。

率直に言わせてください。アデナウアー[西ドイツの戦後最初の首相]の政府は戦時中のゲッベルスのスタッフすべてを受け入れて、ボン政府の役職に就けました。その結果、ゲッベルス博士の戦時中の反共産主義的世界観――戦時中には適切なものでした――が、現在まで続いているのです。彼らはすべてゲッベルス・チルドレンでした。…誰が今でも共産主義を信じているでしょうか?われわれは心から共産主義に反対しています。

 

Q:ユダヤ人はソ連の中でどのような役割を果たしているのでしょうか?

A:レーニンソ連指導部をまかなっていたのはユダヤ人でした。彼らは2億2000万ドルを使いました。この当時、ルーデンドルフ将軍も戦争を終わらせるためにレーニンに資金を提供していました。これは理解できることです。

この当時、ソ連の指導部の97%がユダヤ人でした。その後、スターリンが権力の座に着き、政治家たちは、ロシアの国益にかなった[非イデオロギー的]製作を追求しました。その中には、「大祖国戦争」[すなわち第二次世界大戦]もあり、スターリンはこれに勝利をおさめたのです。

スターリンは農民のような権力の周辺部にいた数百万の人々を殺しただけではなく、トロツキーも含むレーニンの支持者たち160万人も組織的に銃殺しました。その結果、今日、ロシアは反ユダヤ主義的な唯一の国、シオニストの影響力から解放されている唯一の国とみなされています。われわれドイツ人は、ワシントンとモスクワのライバル関係に感謝すべきです。漁夫の利を得なくてはなりません。

 

Q:第二次世界大戦中のソ連には、そのような種類のユダヤ人の影響がありましたか?

A:戦後、多くのユダヤ人がウラル地方に移送され、ポーランドユダヤ人は逃亡しました。ソ連軍は兵士を必要としており、パルチザンとして使われたユダヤ人もいました。しかし、ロシア人は、ユダヤ人が必要とされていないことを知っていました。ロシア人はユダヤ人と一緒にいても幸せではなかったので、彼らを移送しました。正確にはわかりませんが、戦時中のソ連には180万もしくは200万のユダヤ人がいたと思います。

 

Q:今日のソ連におけるユダヤ人の影響はどうですか?

A:少数のユダヤ人が存在していますが、彼らの影響力は劇的になくなっています。今日の最高会議では、4%以下がユダヤ人です。これに対して、[レーニンの時代には]97%でした。大きな変化が起こったのです。

 

Q:ソ連の専門職ではユダヤ人の影響力はどうですか?

A:あることはありますが、たいしたものではありません。政治的影響力はまったくありません。

 

Q:ロシア人と話したことがありますか?

A:はい、ソ連大使ヴァレンチン・ファリンと話したことがあります。ボンを訪問したときに、彼と会いました。もしくは、ケルンで広報秘書官とともに。彼らは私を歓迎してくれました。私たちは、このインタビューと同じように自由かつ率直に話をしました。政治生活においては、自分の敵と率直に話すのはごく当たり前のことです。

 

Q:ロシア人は本当に協力する姿勢を見せてくると考えているのですか?

A:今のところは、当てにできません。われわれが政治勢力ではないからです。政治的な力を持ったときに始めて、政治的要素として振舞えるからです。

私はパンフレットを執筆し、それをモスクワに送りました。その件についてソ連の大使館員と議論しました。彼ら全員が、もしすべてのドイツ人が私のように考えているのであれば、両国のあいだの政治的関係はもっとわかりやすいものとなるであろう、しかし、対処しなくてはならないのはボン政府であり、ボン政府はNATO同盟の一員、わが国の敵であると言っています。これが、今の状況です。

 

Q:あなたの団体の出版物が『ビスマルクのドイツ』と呼ばれているのはなぜですか?

A:ビスマルクが東方政策を追求し、ロシアとの「再保障」条約のおかげで、44年間の平和を享受できたからです。

 

 

オットー・レーマー少将は語る(その1)

 

この記事は 歴史的修正主義研究会 からの転載です。

(原文)An Interview With General Otto Ernst Remer

(引用元)オットー・レーマー少将は語る

 

 

 

オットー・エルンスト・レーマー将軍とのインタビュー

シュテファニー・シェーマン、M. ウェーバー

 

Q:レーマー将軍、第二次世界大戦ではどのような役割を果たされたのですか?

A:…私は前線指揮官でした。戦争中はずっと戦闘部隊を率いていました。ベルリンでベルリン防衛大隊指揮官としてすごした3ヶ月と、総統の本営で警護隊長としてすごした3ヶ月だけが例外です。

その後、私は将官、師団長となりました。総統の個人的命令で、私の師団は東部戦線のもっとも重要な地区での戦闘に投入されました。そして、私は終戦まで戦闘部隊の指揮官でした。

 

Q:1939年のポーランド回廊をめぐる危機と開戦についてはどうお考えですか?

A:1944年9月、総統の本営の警護隊長であったとき、歩きながら総統とお話しする機会がありました。「総統、率直に少しお話してもかまいませんか?」と尋ねると、「もちろん」との答えでしたので、「なぜポーランドを攻撃されたのですか? 我慢することはできなかったのですか?」と尋ねてみました。

総統が求めていたのはポーランド領を横切る高速道路と鉄道だけでした。また、ダンツィヒドイツ帝国に戻ることも望んでいました。非常につつましい要求でした。もう少し我慢すれば、オーストリアとズデーテンランドがドイツ帝国と統合されたように、これらの要求も達成できたのではないかということです。

総統はこう答えました。「君は間違っている。私は、すでに1939年3月にルーズベルトが世界大戦を決意していること、イギリスがこれに協力していること、チャーチルが関与していることを知っていた。戦争を望んでいないのは私だけだということを知っていたのは神だけだった。だから、私は、宣戦布告無しで、懲罰行動のかたちでポーランド問題を解決しようとしたのである。当時、数千の民族ドイツ人が殺され、120万の民族ドイツ人が難民と化していた。どうすべきであったのか?行動しなくてはならなかったのである。このために、開戦から4週間後に、私は、これまでの戦勝国の指導者が行なったことのないような寛大な講和条件を提起した。不幸なことにそれはうまくいかなかった。もしも、ポーランド問題について、第二次世界大戦の勃発を防ぐために、実際に行なったことを行なわなかった場合には、1944年に経験していることを、遅くとも1942年末には経験していたことであろう。」

 

Q:ヒトラーはイギリスに寛容すぎたのではないですか?

A:・・・これは総統の誤りでした。総統はいつもイデオロギーにもとづいて政策を追求していました。ファシストのイタリアとの同盟もそうでしたが、結局はイタリアの裏切りに終わりました。さらに、総統は北方ゲルマン的人種と、イギリス人も含む北方民族をいつも信用していました。総統が繰り返しイギリスに講和を申し出たのもそのためです。しかし、イギリスはこれを無愛想に拒み続けました。イギリスに上陸すれば、イギリスを戦争から離脱させることができたと思いますが、上陸しなかったのは、この重要な理由のためでした。イデオロギー的な理由から、総統はそうしませんでした。これはたしかに誤りでした。しかし、誰もが過ちをおかすものです。

総統はあるとき、「戦争を続けているために、ドイツ国民の安寧を目指して成し遂げなくてはならない仕事から、日々遠ざけられている」と話してくれました。

総統は国内政策とその計画のことを言っていたのです。総統は、国内政策を完遂できないままで、戦争に全力を傾注しなくてはならないことにひどく不満でした。平和が続いたのはわずか6年でしたが、その短い期間のあいだでも、大変革が成し遂げられていたのです。

 

Q:ダンケルクについてはどうお考えですか?

A:「アシカ」作戦として知られていたイギリス侵攻計画のことを知っていた背信的な将校たちが、海からのイギリス侵攻は軍事的に不可能であると総統に報告したのです。彼らは、政治的理由から侵攻を妨害するために、本当ではないことを知っていたにもかかわらず、そのような内容の報告書を作成したのです。戦後になって、この間の事情がすべて明らかとなりました。[ファビアン・フォン]シュラブレンドルフが、私の裁判でこのような内容の証言をしています。

 

Q:ヒトラーの政策、とくに対ソ政策に賛成していましたか?

A:対ソ戦についてですね。まず、1941年初頭のユーゴスラヴィアギリシアでのバルカン作戦時点で、われわれがソ連国境全体に10個師団しか配置していなかったのに対して、ソ連軍はわが国との国境地帯に247個師団を配備していたことを知っておかなくてはなりません。バルカン作戦が終わると、われわれはソ連との国境地帯にすみやかに170個師団を配備しました。ソ連軍は攻勢に出る準備をすでに整えていたのです。

緒戦でわが軍がソ連軍に対して勝利を収めたのは、ソ連軍が守備的な地点に駐屯しているのではなくて、攻勢に出るために前線近くに駐屯していたためです。このために、わが軍はすみやかにソ連軍を包囲することができました。ですから、戦争の最初の数週間で、わが軍は300万以上の捕虜と膨大な軍需物資を手に入れることができました。そのすべてが、攻勢に出るために、前線近くに配備されていたからです。

これが真相ですし、それを証明もできます。最近、長距離偵察機パイロットであったペムゼル氏と話す機会がありました。対ソ戦がはじまる前、彼はドン川付近にまで飛行して、国境地帯にソ連軍が多数集結していることを観察し、それを報告しています。

ソ連軍がヨーロッパに侵攻する準備をしていたことについては、対ソ戦での私自身の経験、ソ連軍捕虜の尋問から知っていました。ロシア人は、われわれがイギリスに進撃する機会を利用して、ヨーロッパを蹂躙しようとしていたのです。

 

Q:対ソ戦が1940年11月のヒトラーモロトフ会談ののちには不可避であると考えていましたか?

A:ソ連外務大臣モロトフダーダネルス海峡を要求しました。これは、トルコ領である外国の領土を引き渡してしまうことになります。ですから、モロトフは、答えることのできない挑発的な要求を突きつけてきたことになります。総統は、ソ連ルーマニア領を平時に奪ったことも知っていました。また、ソ連ユーゴスラヴィアベオグラードで反ドイツ蜂起を組織していたことも知っていました。ドイツとソ連の関係を引き裂いたのはロシア人なのです。

総統がソ連攻撃に傾き始めたのは、ドイツとヨーロッパに対するソ連の攻撃の準備が進んでいることについて、再三報告を受けたあとのことです。ですから、私は、総統がもともとはソ連攻撃を計画していなかったと確信しています。総統は、状況の変化に対応していたのです。

 

Q:ドイツ人はロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたのですか?

A:ナンセンスです!ロシア人は他の人々と同じように人間です。

われわれがロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたかどうかというあなたのご質問はナンセンスです。われわれはロシア人と良好な関係を築いていました。われわれが対処しなくてはならなかった唯一の例外は、ソ連の人民委員でした。彼らすべてがユダヤ人だったのです。人民委員たちは、機関銃を手にして前線の後ろに立ち、ソ連兵を戦闘に駆り出していました。われわれは彼らにすみやかに対処しました。命令にそっていたのです。この戦争は基本的生存のためのイデオロギー戦争であり、その中で、こうした政策は当然のこととされていたにすぎません。

ロシア人のことを野蛮なアジア系遊牧民とみなすような話もあり、兵士たちが下等人種についておしゃべりしていることもありましたが、「下等人種」という用語が公式に使われたことはありません。

 

Q:ロシア人たちは虐待されなければ、ドイツ人と戦わなかったでしょうか?

A:ウクライナ人やカフカース地方の人々はわれわれの側に立って、戦おうとしましたが、われわれはそれを活用できませんでした。十分な武器がなかったからです。戦争では、理論的にはこうすればよかったという点が多々ありますが、実際には、実行できないことも多いのです。

アラブ系の人々も、自分たちの解放を求めて、われわれに武器を要求しました。スペインの指導者フランコも、参戦の条件として武器を要求しましたが、われわれ自身にも武器は不足していたのです。

ドイツの軍需産業計画は、対ソ戦の進行まで見通していませんでした。われわれは3260両の戦車から始めました。それがすべてでした。しかし、ソ連軍は10000両を持っていたのです。当時、ドイツの戦車生産は月35両でした。想像できますか!月1000両という頂点に達したのはやっと1944年10月のことでした。ドイツの戦車生産は1941年の月35両から、1944年末の月1000両にまで上昇しました。これほどの相違があったのです。これこそ、われわれが世界戦争など軍事的に準備していなかった証拠です。

 

Q:ソ連軍がドイツに接近してきたとき、どこに勤務していましたか?

A:東プロイセンの総統本営ヴォルフスシャンツェの警護隊長でした。私の部隊の一部と一緒にいました。まだ組織中であり、準備が整っていませんでした。ソ連軍を押し戻すためのゴルダプ付近での反撃に参加しました。しかし、この作戦はわずか8日続いたにすぎませんでした。

 

Q:ドイツの民間人に対するソ連軍の虐殺行為についてはどうですか?

A:女性が殺され、足がばらばらとなり、切り刻まれて、胸も切断されている例を目撃しました。私自身がポンメルンで目撃したのです。

この事件のことをラジオで話したことがあります。詳しく報告するようにとの要請がゲッベルス博士からあり、彼はインタビューのためにラジオ放送チームを送ってきました。私が事件を目撃したのは、スタルガルト周辺地区です。

 

Q:ソ連軍の中の「アジア系」兵士についてはどうですか?

A:ひどいものでした。前線でこうした行為におよんだ兵士は、…アジア人、モンゴル人などでした。

 

Q:虐殺は意図的な政策の結果でしたか?

A:きわめて意図的でした。われわれの「階級」もしくはエリートを心理的に打ち壊そうとしたのです。

 

 

ルーズベルトと盗聴器(その4・完結)

 

Gary Kern, How “Uncle Joe” Bugged FDR 『どのようにスターリンルーズベルトを盗聴したのか』の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

At the Tsar’s Palace
1945年2月のヤルタ会談は、スターリンに対する誠意を証明する第二の機会をルーズベルトに与えた。それはソビエト領のクリミアで開催された。かつての皇帝の夏の住居であった、広々としたリヴァディア宮殿に、FDRのための特別な客室が用意された。建物は古かったけれども、隅々までの新しい調度品は、アメリカ代表団のあらゆる会話が聴取局へと送信されるかもしれないとの疑念を提起したはずだ。FBIによるモスクワ・アメリカ大使館の捜索で、前年、120個の隠しマイクが検出されており、その後も時々、家具や壁、そのほか目立たない場所から新たな装置が見つかった。大統領や側近は情報を与えられていたので、代表団はリヴァディア宮殿でのプライバシーを疑問視したことだろうと、人々は推測するかもしれない。だがルーズベルトはジョゼフ・E・デイビーズの精神のままであった。

 

英国の代表団は20キロ離れた、同様に設備が行き届いたヴォロンツォフ宮殿に腰を落ち着けた。物語はふたつのバージョンがある・・レモン果汁がこのジントニックと調和するだろうにとチャーチルが言ったか、または、レモン果汁がこのキャビアと調和するでしょうと娘のサラが口にした。翌日、起床したイギリス人は、レモンの木が庭園に育っていることに気が付いた。

 

スターリンは、ワシントンにもロンドンにも、彼を欺く機会を与えていなかった。FDRとチャーチルの、気前の良い数多くの親善の表明に満足せず、スターリンは米国務省と英外務省にスパイを持っていた。彼には雇われスパイでアメリカ代表団の一員、アルジャー・ヒスがいた。ブリットはヒスと弟のドナルド・ヒスはスパイであるとルーズベルトに警告したが、大統領は何もしなかった。スターリンはまた、大統領顧問であり、NKVDが自発的スパイと看做していたと言われるほどに「ロシア」に肯定的だった人物、ハリー・ホプキンスをも当てにすることができた。さらには、スターリンには、酷く患い・障害を持ち・準備不足で・臨床的に鬱だったかもしれず・見知らぬ土地にいる大統領、加えて、三人の中で最も軽視されていると強く意識しており不満を抱いていた英国首相が与えられた。それでも十分ではなかった(彼は更なる強みを欲した)ので、スターリンは盗聴器を置いた。

 

Eyewitness
テヘランでもヤルタでも、スターリンの通訳は、レニングラード出身の栗色の髪がなびく、整った身なりで礼儀正しい若者、ヴァレンティン・ベレジュコフだった。1998年3月、背すじが伸びて前かがみではあったけれども、白髪が風になびくベレジュコフは、スターリンについての会議で基調演説を行うため、カリフォルニア大学リバーサイド校にやって来た。私は観客席に座りながら、スターリンのFDRに対する盗聴についての疑問を解決する千載一遇の機会に気が付いた。数年前、私はテヘランでの監視についての記事をニューヨークのロシア語新聞で読んでいた。著者のセルゴ・ベリヤは、悪名高いソビエト公安の長官、ラヴレンチー・ベリヤの息子であると主張した。けれどもベリアの息子についての報告書が矛盾していたため、記事を信用しても良いのかどうか、私はわからなかった。万一知っている者がいるとすれば、それは、ビッグスリーの二会談の数々の写真・ほとんどのフィルム映像に姿が現れる、ベレジュコフだと私は推論した。

 

ほとんど完璧な英語によるベレジュコフの講演の後、私は立ち上がって彼に尋ねた。「ルーズベルト大統領はヤルタとテヘランで盗聴されたのでしょうか?」。少しの間、彼は静止し、考え、そうして昔の場面が思い浮かんだ時に急に喜色満面になった。「イエス、彼は盗聴された」彼は笑った。「そして話し手の名前は手書きされた」。

 

以後二日にわたる更なる質問(英語とロシア語で)によって、詳細が明らかになった。ヤルタでもテヘランでも、ベレジュコフは毎朝、諜報部から、アメリカ代表団の前夜の会話の写し一式を受け取った。それから彼は、その日の会議のためのスターリンの準備をなすリーダーとして、写しをスターリンと共有した。テヘランでは、その写しは英語で書かれていたので、ベレジュコフはスターリンに口頭で翻訳しなければならなかった。彼がそれを思い出したように、各項目には、ロシア語で手書きされた話し手の名前とともに空白の行があった。

 

“Ear-witness”
この記事の準備を支えたベレジュコフは、1998年9月に心臓手術を受け、同年11月に亡くなった。ちょうどその時、彼の秘密の知識は、同僚から予期せぬ裏書を得た。

 

1998年の終わり、CNNは冷戦時代に関する1200万ドルの連続番組の一回目を放送した。番組の初回には、テヘランでの盗聴に言及した1993年の記事の著者、セルゴ・ベリヤのインタビューが含まれていた。1924年生まれのベリアは、1953年末にスターリンの後継者らによって処刑された、恐ろしい秘密警察長官の息子であった。その後40年、セルゴは Sergei Gegechkori という偽名を使って暮らした。ソ連が崩壊した後、彼は思い切って実名に戻した。CNNのインタビューのほかに、彼は2001年に登場した Beria, My Father: Inside Stalin’s Kremlin という表題の本を執筆した。

 

ベリヤの盗聴の説明はベレジュコフのものと一致している。ベレジュコフのように、ベリヤはロシア語に加えて英語とドイツ語を知っていた。彼はまた父親やスターリンのようにグルジア語も知っていた。彼は若い頃、テヘランでNKVDの暗号事務員として働き、ドイツの組織からのメッセージをモスクワの施設へと伝えていた。テヘラン会談の前、人物に対する非凡な記憶力を持っていたスターリンは、モスクワに集められた諜報チームにセルゴ・ベリヤを加えて、バクー経由でテヘランへと派遣した。スパイ網が十分に確立されていたので、スターリンはFDRやチャーチルが提案した予定地を覆してテヘランを選択したようだ。ソビエト大使館では、スターリンは、賓客の監視に関わった各々と私的に面会し、そしてベリヤに特別な命令を与えた。スターリンが望んだドイツに対する第二戦線について、アメリカの支持を得たかったし、チャーチルは異なる意見を持っていると知っていたので、スターリンルーズベルトが考えていることを全て把握しなければならないとベリヤに述べた。スターリンは、常時盗聴するため、大統領の居住宿舎にベリアを割り当て、語られたことは何でも書き留めた。装置は既に仕掛けられていたとベリアは本に書いているけれども、装置の数や、彼が直接聞いたのか録音を聴いたのかについては語っていない。

 

ベリヤは毎朝午前6時に起き、盗み聞きした会話の要約を作成した。そうして午前8時にスターリンと会った。スターリンは語られた内容だけでなく、それがどのように語られたのかにも関心があった。アメリカ人のイントネーション、思案の長さ、語り手の口調をスターリンは知りたかった。ベリヤによると、スターリンは、すべての報告書を諜報チームから集めつつ、毎日の会議のために極めて慎重に準備をした。スターリンの机はいつも、機密書類、記録文書、質問のリスト、などが山のようになっていたことにベリヤは気付いた。だが会議では、スターリンは、退屈、無関心、時にはぼんやりしているように見えた。

 

ベレジュコフとベリヤの説明をまとめると、2人は異なる職務を行ったことが分かる。最初に、書き写されたものを一言一句そのままに読む。次に、彼が聞いたことの要約と個人的な印象を伝える。疑いなく他の諜報チームがその他の詳細を報告した。ルーズベルト担当の他のメンバーかもしれないし、その記録の特定部署、あるいは特定の時間帯だったかもしれない。このようにして、スターリンは会話を学習した。その多くは、あらゆる観点から、歯に衣を着せない、機密情報だったことはほぼ間違いない。彼はアメリカ大統領をピンで留め、検査し、虫眼鏡の下の標本のように分析した。

 

ベリヤは彼の本で、アメリカ代表団がテヘランで盗聴装置を発見できなかったことに誇りを持って言及する。不思議ではない。彼らがソビエト大使館の壁を探ることはとてもできなかった。けれどもFDRのスタッフが、おそらく聞かれているよと警告したので、ルーズベルトはその問題に気付かざるを得なかった。時々ベリヤは、FDRはマイクロフォンを介してスターリンに直接話しかけようとしていると考えたが、その方法はスターリンに疑心を引き起こしただけであった。「あなたはどう思う、我々が彼らの話を聞いていることを彼らは知っているだろうか」FDRはベリヤに話しかけた。セルゴは結論を出すことをためらった。「これは奇妙だ」スターリンは続けて言った。「彼らはすべてを、最も詳細に語っている」。会談後の12月20日スターリンは申し分のない皮肉とともにルーズベルトに手紙を書いた。「運命があなたをテヘランでもてなす機会を私に与えてくれたこと」に感謝した、と。

 

Yalta Refinements
ベレジュコフによると、ヤルタ会談ソ連領で開催され、より多数の人員を利用できたので、ソ連は第二の会談で技術的運用を改善することができた。そこではロシア語で記録が作成されたので、スターリンは朝食時にそれらを自分で取って読むことができた。過労、過食、過度に酒を飲んだ外交官達が居眠りする傍ら、外交官の会話を翻訳し・抽出する、NKVDの一部による夜通し・早朝の膨大な努力を想像することができよう。監視チームは、普段の食事よりもはるかに良い、豪華な宴会の食べ残しによって報いられた。確かに、彼らは軽々しく任務を引き受けなかった。失敗により罰せられるかもしれなかった。スターリンはいかなる失敗もないことを望んだ。

 

ベリヤのCNNインタビューは、ヤルタでは、FDRは屋外に出ても盗聴から逃れることができなかったことを明らかにした。付き添いが彼の車椅子を押し、チャーチルが傍に付き添っていた間、NKVDは遠くから聞いた。ベリヤは詳しく物語った。「我々は、聴くために50~100メートルの距離にマイクロフォンを向けるシステムを既に持っていたし、周囲に騒音はなく、すべてが静かだったので、これらの会話はすべて、とてもよく録音され、後ほど翻訳されて処理された」。

 

ヤルタでは、ベリヤ自身、テヘランよりも先進的なマイクを精力的に使用した。ルーズベルトチャーチルとが私的に会った時、FDRがチャーチルをさえぎって、それらは既に決定されていると言いながら、問題を議論することを拒否したことをベリヤは思い出した。スターリンは、盗聴された賓客の声の調子や抑揚につき、もはや気にかけていなかったとベリヤは付け加えた。スターリンは、彼が優位を保っており、戦後期にはビッグスリーの劣位の二人に指示することができると確信していた。

 

ベレジュコフは出来事を振り返り、彼が読んだうち、センセーショナルな内容を含んだ記録を思い出すことができなかった。それらは普通の外交的議論で満ちていた。主催のソ連についての多くの社交辞令を含んでいたことを彼は思いだした。川岸にある、由緒あるミッション・イン・ホテルを散策しながら、「おそらくアメリカ人は、彼らの部屋のマイクロフォンを薄々疑って、スターリンに聞かせたかったことを語った」とベレジュコフは示唆した。ベレジュコフは、盗聴がその独裁者に多くの利点をもたらしたとは思わなかった。「毎日の会談の数時間前に彼らが何を考えていたかを知ること・・どれほどの違いをもたらしうるだろうか?」。ベリヤは対照的に、同盟国が考えていたことや、個人的に、ないし半ば個人的に話していることを事前に知るのは明白な利点と考えた。

 

Potsdam
ベレジュコフは1945年のポツダムでの会談には出席しなかったので、さらにルーズベルトの後任も盗聴されたという可能性についてはコメントできなかった。だが盗聴の他に、どのようにその準備を理解することができようか?スターリンが都市を選び、デイビット・マカローが詳細な大統領の伝記で物語るように、ハリー・S・トルーマンが彼の宿泊施設に入る前に、ソビエト兵が敷地内を占拠してそこに住むすべての人々を追い払い、主人を殴りつけて珍しい本や手書きの本[印刷技術が発明される前の]を含んだ所有物をすべて取り除き、グランドピアノや薄暗く調和しない家具に置き換えた。トルーマンや他の者らは、その場所は「悪夢」のように見えると思った。そのような恐ろしい改装作業から、テヘランソビエト大使館でのFDRの宿舎や、ヤルタのリヴァディア宮殿での彼のスイートルームのように、カイザー通り2番地にマイクロフォンが注意深く置かれていたことは明らかだ。

 

セルゴ・ベリヤは確かにポツダムに行った、けれども彼は盗聴に関与していなかった。だが彼は「それは予定表の中にあった」と書いた。トルーマンは、前任者よりも用心深かったけれども、同じ罠に落ちた。

 

Hindsight and History
緻密な監視活動を通じて、スターリンは、彼の外交における対応者の機嫌・意向・態度を知った。彼らの要求と譲歩を把握した。彼らの強みと弱みを判断した。それに従って彼の戦略を設計した。彼らはスターリンを理解していなかったので、スターリンについて同じようにすることができなかった。会議場を管理することも、監視下に置くこともできなかったことは言うまでもない。おそらく、記録は依然としてロシア諜報部の保管庫に存在しており、いつの日か印刷されて現れることだろう。よって、歴史的に言えば、我々もまた、お人よしの大統領を観察し、彼がアンクルジョーにかけた優しい言葉を聞くことができよう。

 

外交は、うわべだけの友人との間で行われた場合でさえも、しばしばポーカーと比較される。ポーカーで、より勝利のチャンスを持っている人・・肌着の近くに彼のカードを持っている人や、鏡の前にカードを持っている人は、そのようにすることで彼は誠意を示していると信じているのだろうか?土地や博愛の贈り物を受け取るまで外国の同盟国を悩ませ恥をかかせることをスターリンが好んだことと同じように・・ルーズベルトは、騙されやすい密使のホプキンズやデイビーズのように、友人を苦しめ破壊することを好む人物に勝つことを望みつつ、彼のカードを見せることを力説した。ルーズベルトが愚かにも望んだように、そのステークス[賭け/区画する]は親善でも世界の調和でもなかったけれども、来るべき冷戦のための境界であった。

 

 

ルーズベルトと盗聴器(その3)

 

Gary Kern, How “Uncle Joe” Bugged FDR 『どのようにスターリンルーズベルトを盗聴したのか』の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Uncle Joe’s Guest

この転居を遂げるため、11月28日午後、シークレット・サービスは甚だしい茶番を演じた。ルーズベルトと同様に正装した捜査員のロバート・ホルムズを連れた、車輛、ジープ、オートバイの護衛をソビエト大使館へと走らせた一方、大統領は上機嫌で裏道を走り、人目を忍んで白人居留地に立ち入って通用口からソ連大使館内に運び込まれた。到着から15分以内・ルーズベルトが立ち上がるよりも先に、口説き落とした求婚者のようにスターリンが現われ、そうして三回の非公開会議のうちの初回が始まった。いみじくも会議はレーニンスターリン肖像画の下で行われた。ハリー・ホプキンス、ウィリアム・リーヒ提督、ロス・T・マッキンタイア提督などの幕僚の一部はルーズベルトとともにソ連大使館に滞在した。大使館から移動させられた Louis G. Dreyfus 公使とともに街に残った者がいた一方で、街の外のアミラーバード基地に滞在した者もいた。大使館の兵士達は何かを守っているように見せるため、テントにとどまった。チャーチルは自国の大使館にとどまり、私的な競馬賭博を終わらせた。

 

ソビエト大使館内のアメリカ人らは、随行している人々の、エプロンや白いコートで覆われた腰に大きな膨らみがあるとすぐに気が付いた。彼らは袖の下やスカーフの下からNKVDの制服がはみ出ていることにも気付いた。アメリカ人はお互いに目くばせをし、不格好な変装を見抜いたことについて彼ら自身を褒めた。威嚇するため、NKVDがそれらを検知できるようにしていたとは思っていなかった。レイリーの説明は、彼の警備員も英国の警備員をもはるかに凌駕する、3000名のNKVD士官が会議に出席したことを、多少の懸念とともに特筆する。制服やエプロン姿のソビエト軍に対して、ことによっては、大統領を保護する方法がないとレイリーは理解したに違いない。大統領のようにレイリーはNKVDを信頼せざるを得なかった。彼らが管轄を持っていた。

 

毎日ペルシャの通りを通って1マイルを走る恐怖を免れたルーズベルトは、部屋を占有させてもらい、シークレット・サービスを無効化し、スターリンは温かい抱擁へとFDRを引き込んだ。スターリンは、戦争が終わったのち、ロシアに戻したいとの名目で、信教の自由、私的所有権、より大きな民主主義をソビエト連邦に与えるつもりだ、とルーズベルトに告げた。信じられないほどの譲歩に喜んだルーズベルトは、スターリンが戦後のポーランド国境を描くことができるし、「ソビエト軍による再占領の直後ではないかもしれないが、いつか、国民の意志の表明」とともに、バルト[エストニアラトビアリトアニア]の支配を再び掌握できるであろう、と暗示した。スターリンが述べた「理解した」という言葉は、ルーズベルトには十分なものだった。

 

ハリマンは大統領に対する陰謀の存在を、今一つ信じ切れなかった。会議の後にモスクワに戻った彼は、ナチスがそれをでっちあげたのか、それともモロトフと彼自身[スターリン?]が陰謀に加担したのか、とモロトフに尋ねた。ユーモアのセンスがなかったモロトフは、実際のところ、陰謀の具体的な詳細は把握していなかったが、テヘランナチスの組織があることは分かっていたと答えた。ハリマンは、モロトフは不可能なことはできなかったと理解し、スターリンは単に市内を車で走る危険を冒したくなかったと推測した。彼は、監視が全体像の一部であったとは疑わなかったし、「ロシア人には」盗聴する理由がなかったと歴史家の Paul Mayle に語った。この問題についての彼の見解は、デイビーズの見解と同じだった。

 

レイリーは彼の著作で、会議の三か月後、山の中のベドウィン部族と一緒に住んでいた6人の落下傘兵を「ロシア人」が捕らえて処刑した、と物語る。そのような情報はNKVDだけから端を発したのかもしれない。レイリーは申し立てられた陰謀についての報告書をシークレット・サービスに提出しなかったし、シークレット・サービスが作成した会議の報告書には陰謀についての言及がない。英国の記録も同様にそのような言及はひとつもない。戦時内閣の合同情報委員会はのちにロンドンで問題を検討し、いわゆるビッグスリーに対するナチスの陰謀は「全くの出鱈目」だったと結論付けた。

 

The Illusive “Plot” Resurfaces
西側とは対照的にNKVDは陰謀の物語を維持し、20年後、宣伝活動の間、NKVDの跡を継いだKGBは、新聞でそれを宣伝し始めた。新たな装いで、FDRに対する陰謀と称されたものは、数多くの詳細な記述と実在の登場人物を積み上げた。とりわけ第二次大戦における伝説的人物の一人、オットー・スコルツェニー親衛隊中佐。KGBによって生み出された印刷物の中では、スコルツェニーは、一撃で戦況を好転させるため、テヘランビッグスリーに対する攻撃の先頭に立つようヒトラーから任命された人物であった。物語は拡大した・・占領下のウクライナドイツ国防軍大尉を装っていたNKVDのエース、ニコライ・クズネツォフのことをナチスは当てにしなかった。クズネツォフは大酒飲みでおしゃべりな、計画の断片をうっかり口に出した Ortel という親衛隊将校と仲良くなった。したがって、ソビエト連邦警察の警戒は、米英ソ三国の指導者達の生命の恩人であった。ご想像のとおり、スコルツェニーの回想録にはそのような計画の言及がなく、さらにソビエトの各種記事には、名前、場所、その他の特質において、それ自体に食い違いがある。

 

事実、スターリンとラヴレンチー・ベリヤに近い情報源(どちらもグルジア人)から内部情報を聞いたと主張するグルジア人亡命者は、ナチスの陰謀という着想の偽りを暴く。ルーズベルトを感動させて恩義の感情に付け込むため、スターリンは偽の暗殺の企てを思いつき、「暗殺者」が実際に逮捕されなければならないとの条件付きで、手はずを整えよとベリアに命じた、と Yuri Krotkov(仮名)は書いた。ソ連の対諜報機関から救助を知らされたルーズベルトは、陰謀を破たんさせた人物と会わせるよう頼んだ。ルーズベルトは、サラトフ市からのクラフチェンコという名前の大佐との面会を許された。FDRが誤ってクラフチェンコ大佐を「将軍」と呼んだとき、スターリンは陽気にクラフチェンコを昇進させた。逮捕の任務を果たした者達に何があったのか、クラフチェンコは語らなかった。

 

とはいえ、ナチスが連合国の指導者を攻撃する計画を立てることは、おそらくテヘラン会議であっても、(11月21日のラジオ放送に続いて)準備するのに一週間しかなくとも、完全に不可能ではなかった、との実体のない根拠が残る。しかしながら、そのようなナチスの計画が、スターリンルーズベルトに警告したような計画になることは完全に不可能であった。もし、ムッソリーニを山頂から羽毛かのように連れ出したオットー・スコルツェニーが、テヘランスターリンを暗殺しようと計画している(または何か行動しようとしている)とスターリンが考えたのであれば、彼は会議を延期して立ち去ったであろう。部下が街中に広がっていたとの話が本当であったとしても、スターリンは、ソビエト大使館を砲撃できるかもしれない6人の暗殺者が近くにいた街に踏み止まらなかったであろう。そのようなリスクを冒すような人物ではなかった。この点ではハリマンの直感は正しかった。

 

Stalwart Good Humor

テヘランでの公式会議で、FDRはスターリンに言い寄り続けた。のちに現われた雑誌記事によると。「会議を通じてルーズベルトは、彼自身の完璧な誠意をロシア人に請け合うため、スターリンの心と交わるため、スターリンの見解を理解するため、あらゆる努力をなした。ビッグスリーの間で相互に信頼の精神を築き上げることが、特定の契約よりも望ましいと彼には思われた。・・・彼の政策の眼目はスターリンを安心させることであり続けた」。

 

大統領は12月17日にアメリカに戻り、暗殺計画についてのスターリンの警告を全面的には信じなかったけれどもとにかく彼の助言に従ったとし、「その後はすべてがうまくいった」と記者団に述べた。FDRは彼の会議に関する詳報をクリスマスイブのためにとっておいた。それまでで最も広範囲に及ぶ全国的なラジオ放送で、ルーズベルトは、平和がすぐ手の届く所にあり、戦後、ビッグスリーの間には永続的な[解決しえない]問題は起こらないであろうと国民に請け合った。スターリンについて彼は述べた。

 

――もしアメリカ英語の幾分慣用的ではない口語表現を用いるならば、私はスターリン元帥と「意気投合した」と言ってよい。彼は冷酷な決断力・素晴らしい決断力とユーモアを兼ね備える人物だ。私は、スターリンはまさしくロシアの精神と魂を代表していると思うし、我々は、彼やロシア国民と、非常にうまくやっているところだと信じている。実にとても良く。――

 

もし暗殺の試みについての警告が真実でなかったとすれば、スターリンが欲したかもしれないものは何か、マスコミは尋ねなかった。けれども盗聴の可能性は内部者にはわかっていた。英国の将軍、ヘイスティングス・イスメイ卿は回想録で「もしマイクがすでに設置されていたならば」と怪しんだ。

 

 

ルーズベルトと盗聴器(その2)

 

Gary Kern, How “Uncle Joe” Bugged FDR 『どのようにスターリンルーズベルトを盗聴したのか』の翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

Stalin’s Acquaintance With Bugs
スターリンにとって、敵も味方も盗聴することは、欠かせない政治の一部だった。スターリン1920年代初頭から、専用回線で話している他の政治局員の密談を聞くため、クレムリンの彼の机の下に特別な電話を持っていた。ウラジーミル・レーニンが死の床に横たわり、死去した1924年までの4年間の党内闘争の間・・他のクレムリンの回線と同様に電話交換手が存在しなかったので、新式の vertushka 電話[クレムリン直通の内線電話システム]は安全だと信じて包み隠さず話していた全ての同志を、スターリンは盗聴することができた。スターリンは翌朝、彼らが夜間に考えたことを魔法のように知って、毎日彼らの裏をかき、最終的に大部分を射殺した・・のではない。


スターリンの特務機関であるNKVD、すなわち内務人民委員部は、ボリシェヴィキ党の全体主義統制を強化するため、あらゆる種類の機械的な目と耳を全国に施した。国境の閉鎖、国内用パスポート、報道の検閲、政治的粛清、強制労働収容所・・ソヴィエト体制のこれらの特徴はすべて、モスクワへの密使ですら認めていたように、1930~1940年代の一般常識であったけれども、デイビーズに似ていたFDRはそれらを無視した。彼は批判を望まなかった。ブリットやスタンドリー、もしくは例えばカチンの森でのソ連によるポーランド人将校の虐殺を気に掛けていたどんな人からの批判であっても。勝利に向けて統一された戦争努力を維持するため、戦後民主主義のために働くため、彼がアンクル・ジョー[Uncle Joe]と好んで呼んだヨシフ・スターリン["Joseph" Stalin]を、ルーズベルトは喜ばせたかった。1940年8月、メキシコにいたレフ・トロツキーの暗殺を命じ、最も親しい党の同志達を粛清し、妻を殺害したと広く信じられている人物と親しくなることが、ルーズベルトの第一の目的だった。トーマス・フレミングが The New Dealers' War: FDR and the War Within World War II で言及したように、チャーチルはかつて、スターリンと提携することは「人殺しと握手する」ことと同じになると述べた。これもルーズベルトスターリンに熱中する前の話だった。

 

Security Alarms
ルーズベルト大統領は、大統領専用機ダグラスDC-4でカイロからテヘランへと8時間かけて旅をし、冗談で「神聖な牛(神聖にして冒すべからず)」と呼ばれた。彼がカイロに来たのは、国民政府の指導者・蒋介石と、彼が冷たく扱った第一の友好国のウィンストン・チャーチルとの五日間の会議のためだった。カイロに滞在中、テヘランでの会談を成立させるため、彼はスターリンと連絡を取った。当然、各国政府は、国家元首(大統領、元帥、首相)のため、自国の大使公邸に滞在する計画を立てていた。そのような事柄は自国を離れる前に決定される。


戦時中、イランは占領された国だった。ソ連軍とイギリス軍が領地を分割する一方、アメリカ軍はその国を通じてソ連へのレンドリース物資の輸送を容易にした。イラン人は飢餓同然の状況にあったので不穏だったけれども、同盟国は情勢を掌握しており、この地域からのリスクはほとんどなかった。首都では占領軍は厳重なセキュリティを維持し、至る所にある検問所で文書を見せるよう、車両や歩行者に義務づけた。ソ連と英国の大使館はそれぞれ、街の中心にある塀に囲まれた公園の中に、背中合わせに建っていた。アメリカ大使館はそれよりも狭い、塀に囲まれた白人居留区の中にあり、わずか一マイル離れた場所にあった。三つの大使館はどれも武装警備員によって防備を固められた。会議の場所は安全だった。

 

それにもかかわらず、カイロに到着した1943年11月22日、FDRはテヘラン用の計画の変更を示唆し始めた。モスクワのスターリンに彼は書いた。

 ――我々が互いにあまりにも離れて宿泊したとすると、車での移動中や会議の際、我々三人全員が不必要な危険を冒すことになると私は忠告された。我々はどこに宿泊すべきだろうか?――

 

ルーズベルトに助言をした人物は定かでない。ある時点で英国大使館に泊まるよう招待したチャーチルかもしれない。いずれにせよ、翌日、1930年代のモスクワでの見せしめ裁判で悪名高い検事で、そのときは外務人民委員次席だったアンドレイ・ヴィシンスキーが、アメリカの駐エジプト大使、アレクサンダー・C・カークの別荘にいたルーズベルトを訪問した。敬意を表した後、ハリマンと通訳のボーレンに付き添われたヴィシンスキーは、テヘランにいる間、ソ連大使館に滞在するよう大統領を招待した。FDRは辞退した。訪問の後、ルーズベルトは、警備員のマイク・レイリーに、アメリカ大使館に宿泊する方がよいし「客の立場で望みうるものよりも自由がある」と述べた。

 

そうして大統領はレイリーをテヘランに派遣し、警備状況とテヘランに行くことができる列車のルートを調べた。彼の医者は高高度の飛行よりも列車の方が健康に良いだろうと考えた。

 

レイリーはイランへの低空飛行経路をテストし、ソ連の滑走路 Gale Morghe 空港に着陸し、ソ連の警備係に会った。後の回顧録でレイリーは担当者を Artikov 将軍と回想したが、NKVD(内務人民委員部)の輸送部門長で43歳の役人、Dmitry Arkadiev 将軍だった可能性が高い。レイリーは本当のNKVD長官と面会したことがなかったけれども、ラヴレンチー・ベリヤが居合わせており、彼は目立たなくしていた。Arkadievは直ちにレイリーをソビエト大使館へと連れていき、館内を案内する際に、前日ナチスの落下傘兵がこの地域に飛び込んだとNKVDは知ったけれども、まだ逮捕されていないと彼に話した。彼らの目的は恐ろしいものになるはずだ・・世界の指導者達の誘拐や暗殺、それか重要な軍事基地の破壊かもしれない。

 

テヘラン会議の正確な日付はまだ確定していなかったけれども、ナチスは見通しを知っていた。ドイツのラジオ放送が今月末のテヘランでのビッグスリーの会議を公表したと、11月22日、ニューヨーク・タイムズ特派員のジェームス・レストンがロンドンから報じた。ナチスが参加者の暗殺を企てていたとすれば、彼らがなぜ秘密会議を公表したのか理解に苦しむ。彼らはFDRとチャーチルとの大陸間の電話通話から会議について知ったのかもしれず、1942年3月にドイツ諜報部が技術的障害を突破した後は、通話は全て傍受された。

 

レイリーは英米家屋の査察を進めて、彼の得意分野・・防衛区域を広げて警備員を倍増した。百人の米兵があらゆる不測の事態に備えて大使館の敷地にテントを張った。ソ連・英国・米国の警備部門は、街の至る所でナチスのスパイの連絡網を探った。一方レイリーは、鉄道経路を評価するためイラクのバスラに飛び立った。

 

彼が戻ってすぐにナチスのスパイ、"フリッツ・メイヤー"が拘束されていると知った。いくばくかの説諭の後、マイヤーは、落下傘兵から接触を受けることを期待していたと認めた。けれどもこの情報もまた誤りだったように見える。なぜなら英国が、フランツ・マイヤーと彼の機能しないテヘランの連絡網を追い詰めたのは8月だった。それにもかかわらずレイリーはその陰謀を深刻に受け止めた。レイリーは飛行機でカイロの大統領の所に戻り、彼の不在時にはNKVDと協力するよう、部下に指示を残した。

 

彼は、飛行機が山々を抜けて低空で飛行できると実証したので、テヘランまで直接飛行するよう大統領に助言した。列車のルートは保安上の危険のみならず、不潔な臭気や寄生虫の問題もあると報告した。アメリカの土地建物は適切十分であり、大使館と大使館との間の移動は安全上の問題をもたらさないとレイリーは述べた。

 

Changing Places
他方で11月25日、スターリンは「我々はどこに滞在すべきだと思いますか?」と、簡潔ながらも暖かい提案とあわせてFDRの質問に回答した・・「11月28日の晩、私はテヘランであなたのお役に立てるようにするつもりです」。大統領が11月27日に到着する予定であることを知り、スターリンは計画を変更して26日に飛行機に乗った。このようにして、スターリンは落ち着く時間を得ただけでなく、ホストとして現れることもできた。

 

スターリンが到着した日、ソ連の代理公使が、ルーズベルトの個人使節の一人、パトリック・J・ハーリーに会いに来て、ソビエト大使館に大統領が滞在するよう、もう一度招待した。ハーリーはFDRの指図に従い、大統領は自国の大使館に滞在すると決めたと述べて、丁重かつ固く辞退した。けれども彼は提供された六部屋のスイートルームの視察に出かけた。その後ハーリーは、自国の邸宅に滞在するよりも間取りが広く、より快適安全であるとFDRに書いた。

 

綿密な策略は型通りのダンスのステップに差し掛かりつつあった。FDRとスターリンはどちらも、それぞれの理由から、アメリカ大統領がソ連大使館に滞在することを強く望んでいたけれども、二人とも熱望しているようには見せたくなかった。FDRは言い寄られる必要があった。スターリンは冷静にならねばならなかった。二人とも大統領の宿泊施設を変更するための客観的な理由が必要だった。ナチスの暗殺の脅威がこの要件を満足させた。けれどもダンスはおこなわれなかった・・それは大胆な足踏みと混乱の時間だった。

 

ルーズベルトは午後3時にイランに到着し、武装した護衛の下に米国大使館まで送られた。彼はかろうじてわずかな休息を取り、スターリン元帥と晩餐を共にできれば大変光栄であるとソ連大使館に伝えた。スターリンは十分に休養していたけれども、どんなに厳重な警備であろうとも外国の街に乗り入らないと決意していた。あまりにも疲れていると彼は返事した。FDRは次にチャーチルを招いたが、首相はカイロ会議の閉会式で長らく語ったことから喉を痛め、ディケンズの分厚い本を手にして早く就寝するつもりだった。FDRはスコッチ・ウイスキーで慰めた。FDRの車いすのために設置された昇降台によって貯蔵室が塞がれていたので、随員は彼をひどくうらやんだ。ふさわしいハイレベルの同伴に欠けていたので、FDRは新たな策略を考案した。

 

午後6時、ハリマンはモロトフに電話をかけて、11月25日の、スターリンの文書での招待に対する大統領の返答を示した。同様に提案してきたイギリスを動揺させたくないので、大統領はノーと言わざるを得ない、とハリマンは述べた。モロトフは、宿泊場所は当然大統領の選択であるが、「万一支障が生じた時のために」部屋を利用できるままにしておくと答えた。次にハリマンは、翌日午後に米国大使館で最初の会議を開催することを提案し、モロトフは隣室のスターリンと相談したうえで合意した。


ルーズベルトは、スターリンは「得やすい」との彼独自の理論を試しながら、彼自身は得難いふりをしていた。FDRは宿泊地が十分なものであると述べて、ペルシャ王からのゴリスタン宮殿に宿泊する勧めを断った。彼は地元の国家主席を称えることで事態を複雑にする必要がなかった。

 

そうしている間、NKVDはレイリーに連絡を取り、ナチスの計画を詳しく語った。38人の落下傘兵が着陸し、ソ連の警備員が6人を除いて捕えたと Arkadiev はレイリーに語った。レイリーは捕虜を一人も見なかったけれども、それでもやはり、最高の警備員でさえ、ビッグ・スリーを送る時や通りを通過する時に、狂信的な暗殺者の暴行を止められないかもしれないと心配した。


真夜中、モロトフは、会議場所についてのスターリンの承諾を取り消すため、ハリマンと、イギリスの駐ソ連大使・アーチボルド・クラーク・カーを緊急に呼び出した。二人の大使が到着した時、モロトフは「示威運動」があるかもしれず、それは「狙撃」であろうし、無実の見物人が傷つくかもしれないと語り、彼の解釈によるナチスの陰謀を示した。大量殺人は国際的な醜聞を引き起こす。モロトフは詳細を述べることを拒否したが、念のため、大統領のために準備された宿舎の見学にハリマンを連れて行った。この時までに、事実上、大統領を除いた全員が部屋を見ていた。翌日の会議の場所は不確かなままであった。

 

翌朝、ハリマンは役員会議を招集し、陰謀に基づく情報をFDRに提供した。細部の描写は大雑把だったけれども薄気味悪かった。もしこの話が真実であれば、移動の必要のゆえに、そしてアメリカの敷地内から、三人の指導者の生命が危険に晒されることになる。最終的な決定をしたレイリーは同意した。我が大使館よりも、英かソ連の大使館いずれかがより良いだろうと彼は述べた。けれどもイギリスの居住区もまた視察され、ソ連の宿泊施設よりも劣っていると思われたので、FDRには少なくとも面目を保つことができる理由があった。彼は独裁者と一緒に移動し、彼の考えをチャーチルと共有する不都合なしにスターリンと二人きりの時間を過ごす必要があった。そのときルーズベルトスターリンに近づくことができた。