Another View of Japan

歴史問題の反論に使える・・かもしれない、資料を集めるブログです。

Was Pearl Harbor Unavoidable?(前半)

 

パーシー・L・グリーブス氏、Was Pearl Harbor Unavoidable? の私訳です。

誤訳の責めは負いかねます、参考にとどめてください。

*初出かどうかはわかりませんが、本稿は、早くも1947年12月7日のシカゴ・トリビューン紙に掲載されていたようです。

December 7, 1947 - Was Pearl Harbor Unavoidable? | Chicago Tribune Archive

 

 

 

真珠湾を覚えていますか?もちろんですよね。アメリカ人が1941年12月7日を忘れることはないでしょう。我々の死傷者は3,435人であり、日本の死傷者は100人足らずでした。188機の飛行機を完全に喪失し、日本は29機を失った。誇り高い太平洋艦隊が粉砕されました。8隻の戦艦は役に立たなかった。日本は5隻の中型潜水艦を失った。それは我々の歴史の中で、軍事的にも、海軍としても、最大の惨事でした。

ですが、真珠湾の全てが一日で起こったとは限りません。その災害の種は、少なくとも、早くも1935年に蒔かれていました。一般にコミンテルンとして知られる、共産主義インターナショナルの第七回世界会議が開催された年です。

アメリカ共産党は、その時、政府をどのように牛耳るかを教えられた。我々は抗議しましたが、共産主義の脅威に眠っていて、それ以上は何もしませんでした。

コミンテルンはまた、ロシアの近隣諸国、ドイツと日本を弱体化させることを決議しました。ブリット元大使が語るように、ソ連は「ドイツと日本に対抗し、ソ連への支持を得るために、"公衆の戦線"を作り、反ファシスト運動を起こすよう、海外の共産主義者に命令した」。同じ会議で、中国における共産主義活動を支援することに合意した。日本は聞き逃さなかった。日本は行動した。

日本が最初にしたのは、中国北部に反共運動を吹き込むことでした。ハル国務長官は抗議した。共産主義反日活動の拡大に対抗するため、中国の協力を望んでいたと、我々の大使に日本は語った。日本はまた、ソビエトロシアの軍事力の大幅な増加について懸念を表明した。

日本の次の行動は、ドイツとの防共協定に調印することでした。この協定は、共産主義の干渉が、ドイツと日本国内の平和と福祉を危うくしただけではなく、「世界の普遍的な平和」を脅かしたと主張しました。

日本の中国北部の活動は、中国政府を憤慨させました。一事件が、日本の宣戦布告なき中国との戦争を引き起こすまで、摩擦は増加した。正当な権利に対する共産主義者の陰謀によって交戦が引き起こされたと、日本は主張した。ワシントンの当局者はそれを日本の侵略と見なした。

宣戦布告なき戦争は何年も続きました。1938年の秋までにドイツはもはや防共協定に満足できず、日本との軍事同盟を望んでいた。ドイツは強い圧力をかけた。

日本は困った状況に置かれました。日本の国民は、アメリカの国民と同じく、世界戦争に関与したくなかった。彼らの指導者は2つの派閥に分かれていた。戦争派は、枢軸に加わってロシアの脅威を取り除き、新たな地域を征服したいと考えました。有田外務大臣がその一人でした。平和派は、何とかして戦争を防止することを望んでいました。彼らは「民主主義」の勝利を予見しました。それでは、日本はどうあるべきか?このグループは平沼総理大臣に率いられました。

グルー大使は、ドイツとの軍事同盟を阻止しようと努力した。1939年4月19日には、防共協定は強化されるかもしれないが、同盟はないだろうと確信していた。そこで平和派は、枢軸との更なる政治的繋がりを妨げることに労力を傾けました。

両派は日本の安全保障を求めていました。戦争派は、英国とロシアの交渉を、そして中国の反日感情をアメリカが支持していると指摘した。彼らは日本の安全保障は枢軸に存すると主張した。平和派はそうではないと感じたが、戦争派を納得させるのは難しかった。アメリカから「歓迎のジェスチャー」を得ようと、内閣の許可がついに得られました。その結果、有田はルーズベルト大統領へのメモをグルーに手渡しました。それはワシントンへの、1939年5月18日の電報でした。

メモは、ヨーロッパに集まる戦雲について語り、そして文明が破壊されなかったことを思うと日米両国は共通の利益を有する、と述べました。すべての国が「世界の中に、自分の適切な場所」を持っていれば、真の世界平和が確立され、維持されるかもしれない、と続いた。彼らはこの考えが「日米間のより緊密な協力と、両国間のより深い相互理解の基礎」の可能性を作ることを期待した。それは明確ではなかったが、友好への努力だった。

その日の夜、グルーは、合衆国へ向かい出発することと、「ユジーン・ドゥーマンの有能な手腕に大使館を任せる。私は彼の判断力、分析能力を完全に信頼しており、政策や手続きに関する見解は私とよく一致している。」と伝える電報を打ちました。

5月22日、ドイツは待ちくたびれていました。ドイツは日本を含まない、イタリアとの軍事同盟に署名しました。