オットー・レーマー少将は語る(その2・完結)

 

この記事は 歴史的修正主義研究会 からの転載です。

(原文)An Interview With General Otto Ernst Remer

(引用元)オットー・レーマー少将は語る

 

 

Q:以前、ユダヤ人人民委員について話されていますね?

A:問題は、ドイツ軍やその他の国々の軍隊とは異なって、ソ連軍には、指揮官とともに、命令を発する権限を持つ政治人民委員がいたことです。ほとんどがユダヤ人でした。

例えば、[ウクライナの]リヴォフの東のタルナポリとゾロチェフで、軍事攻勢がすみやかな成功を収めたときの事例をあげておきます。私自身が経験したものです。

われわれはゾロチェフを占領し、2両の戦車が遅れて続いていました。敵の反撃があるのか、それともこのまま攻撃を続けるのかはっきりしていなかったので、わが軍は町外れで休息をとっていました。戦車の到着待っていたのです。この小さな町で、私は幼い子供たちが窓から放り出されているのを目にしました。また、通りに倒れた女性が棍棒で死ぬほど殴られているのを目にしました。彼らはユダヤ人でした。

私は[地元の]女性を呼びつけました。彼女は私の車にやってきて、「私たちがなぜ困難ことをしているのか教えてあげます」と言いました。

われわれは車で地元の刑務所に向かいました。囚人が散歩するための、壁で囲まれた区画がありました。そこには、死体がうずたかく積み上げられていました。まだ、血を流している死体もありました。

2時間ほど前、ソ連軍が撤退するときに、ソ連兵は、投獄されていた地元をウクライナ民族主義者たち全員を機関銃で銃殺したのです。

これをやらせたのがユダヤ人人民委員でした。だから、地元のウクライナ人たちがユダヤ人にポグロムを行なっていたのです。ウクライナ人は、ユダヤ人を見かければ、すぐに殺しました。われわれはこの当時、地元の事柄に影響を与えることがまったくできなかったにもかかわらず、このポグロムの件で非難されているのです。われわれが秩序を回復することができたのはかなりあとのことでした。

 

Q:ウクライナ人によるポグロムは、ドイツ人の名誉を傷つけるために意図的に行われたのですか?

A:いいえ、こうした反ユダヤ主義ポグロムは、人々の怒りの表現でした。彼らはユダヤ人を憎んでいたのです。

ポーランドでも、ポグロムがたびたび起りました。ご存知のとおり、戦後になってからも、ポーランドではユダヤ人に対するポグロムが起りました。東ヨーロッパでは、ユダヤ人たちはいつも上品な人々・良き商人と称してきましたが、彼らに対する人々の怒りは、筆舌に尽くしがたいものです。

 

Q:身近で見るヒトラーはどのような人物でしたか?

A:総統は完璧なホストでした。私は、ヴォルフスシャンツェの総統本営にいたとき、総統が、誰であろうとゲストをスケジュールどおりに出迎えることに特別な関心を支払っていることをたびたび目にしました。

総統は、鉄道の駅でゲストを出迎える前に、本営ではすべての準備が整っていることを確認しようとしていました。

総統は、絨毯と食器がマッチしているかどうかをチェックし、ゲストが快適にすごせるように誰もが配慮するように熱心に促していました。総統は、ゲストのことに心を砕いていたのです。

総統の建築家へルマン・ガイスラーが総統についての本を書いています。[『もう一人のヒトラー、回想』]。素晴らしい本であり、おすすめします。ガイスラーはとても優れた人物で、よく物まね、とくにロベルト・ライ[ドイツ労働戦線指導者]の物まねが上手でした。総統はこのことを知っていたので、ガイスラーにライの演説を真似するように求めました。ガイスラーはユーモアたっぷりに「総統、できません。そんなことをすれば、彼は私のことを収容所に送ってしまいます」と答えました。すると、総統は、「私が連れ戻してやるから」と楽しげにいいました。総統はこのような人物だったのです。そこで、ガイスラーはライの物まねをしました。[レーマーはライの物まねの真似をする。]総統は、目から涙があふれるほど大笑いしました。

 

Q:ヒトラーの恋愛生活はどうでしたか?

A:総統にはそんな時間はありませんでした。総統は、妻に割くような時間はないといつも言っていました。エファ・ブラウンは彼女なりの役目をよく果たしました。二人の関係を知っているものは誰もいませんでした。秘密が保たれていたのです。エファは、ゲストが多くいたときにも、うまく立ち回っていました。

総統が恋愛経験豊富だったとは思いません。首相になるために戦っている時期に、ゲリ・ラウバルという姪がいました。総統は彼女に十分な関心を向けることはできませんでしたが、彼女は総統のことを愛しており、そして自殺してしまいました。ゲリは、総統が本当に愛したたった一人の女性でした。

 

Q:ヒトラーには子供がいましたか?

A:ナンセンスです。総統は子供を望んでいませんでした。

総統は自分のことを国民の代表とみなしており、このイメージと矛盾してしまうようなことを私的生活でも拒んでいました。自分のことを政治家とみなしており、国民が自分に期待しているイメージに一致するようにいつも心がけていたのです。

 

Q:国民は自分たちの総統が子供を持つことを望まなかったのですか?

A:望んでいたかもしれませんが、そのためには、総統は結婚して、夫にならなくてはなりませんでした。しかし、総統は、そのような時間はないといつも言っていました。

総統が、数mのコンクリートで保護された新しいヴォルフスブルクの本営に移動したときにも、私は同行しました。総統が新しい寝室に入ったとき、そこには通常の兵士用のベッドが置かれていましたが、その上にはマットレスが二つ敷かれていました。これを目にすると、総統はそれとなく「兵士は二つのマットレスの上で眠るからか?」と尋ねました。副官が困惑の様子を見せると、総統は、「一つを片付けてくれ」と言いました。総統はこのような人物でした。ご自分のことにはとくに気にかけなかったのです。

総統は本営の周辺の防衛ラインを私費でまかなっていました。政府から1ペニーの給料も受け取ったことはありません。戦争末期まで、費用のかかる6kmの道路も含む防衛ラインを私費でまかなっていました。

総統は、1億部以上も売れた『わが闘争』からの印税によって、金持ちでした。しかし、政府の金は1ペニーも受け取っていません。

 

Q:レーマー将軍、あなたはドイツとソ連との協力を呼びかけてきましたね。そのことについてお話ください。

A:われわれドイツ人はNATO同盟を離脱すべきです。軍事的に自立すべきです。非核地帯を設置すべきです。ロシア人との理解を深めなくてはなりません。すなわち、ロシア人とのあいだで合理的な国境を定めなくてはなりません。そうすることができるのはロシア人だけです。この点ではアメリカ人は影響力を持っていません。

見返りとして、[ロシアの]原材料を購入し、ロシア人と協力して数百のプロジェクトを実行することを約束します。それによって、ドイツの失業問題も解決されます。イデオロギーとはまったく関係ありません。ロシア人は経済的に遅れているので、喜んでこの件に賛同するでしょうし、イデオロギーからも解放されるでしょう。

 

Q:フランス人はどのように反応するでしょうか?

A:フランスはわれわれと協力しなくてはならないでしょう。フランスはドイツよりも経済的には脆弱なので、西側ではドイツと交易しなくてはならないからです。ドイツにとっては、アメリカが死活を賭けたライバルなのです。

 

Q:独ソ同盟は戦争をもたらしませんか?

A:いいえ、逆です。われわれは戦争を防止するでしょう。ロシア人も戦争を望んでいません。ゴルバチョフ提案の意味はそこにあります。戦争を望んでいるのはアメリカです。

 

Q:アメリカは紛争を引き起こそうとしていませんか?

A:ドイツがロシアとの理解に達することができれば、アメリカにとってはそれで終わりです。

率直に言わせてください。アデナウアー[西ドイツの戦後最初の首相]の政府は戦時中のゲッベルスのスタッフすべてを受け入れて、ボン政府の役職に就けました。その結果、ゲッベルス博士の戦時中の反共産主義的世界観――戦時中には適切なものでした――が、現在まで続いているのです。彼らはすべてゲッベルス・チルドレンでした。…誰が今でも共産主義を信じているでしょうか?われわれは心から共産主義に反対しています。

 

Q:ユダヤ人はソ連の中でどのような役割を果たしているのでしょうか?

A:レーニンソ連指導部をまかなっていたのはユダヤ人でした。彼らは2億2000万ドルを使いました。この当時、ルーデンドルフ将軍も戦争を終わらせるためにレーニンに資金を提供していました。これは理解できることです。

この当時、ソ連の指導部の97%がユダヤ人でした。その後、スターリンが権力の座に着き、政治家たちは、ロシアの国益にかなった[非イデオロギー的]製作を追求しました。その中には、「大祖国戦争」[すなわち第二次世界大戦]もあり、スターリンはこれに勝利をおさめたのです。

スターリンは農民のような権力の周辺部にいた数百万の人々を殺しただけではなく、トロツキーも含むレーニンの支持者たち160万人も組織的に銃殺しました。その結果、今日、ロシアは反ユダヤ主義的な唯一の国、シオニストの影響力から解放されている唯一の国とみなされています。われわれドイツ人は、ワシントンとモスクワのライバル関係に感謝すべきです。漁夫の利を得なくてはなりません。

 

Q:第二次世界大戦中のソ連には、そのような種類のユダヤ人の影響がありましたか?

A:戦後、多くのユダヤ人がウラル地方に移送され、ポーランドユダヤ人は逃亡しました。ソ連軍は兵士を必要としており、パルチザンとして使われたユダヤ人もいました。しかし、ロシア人は、ユダヤ人が必要とされていないことを知っていました。ロシア人はユダヤ人と一緒にいても幸せではなかったので、彼らを移送しました。正確にはわかりませんが、戦時中のソ連には180万もしくは200万のユダヤ人がいたと思います。

 

Q:今日のソ連におけるユダヤ人の影響はどうですか?

A:少数のユダヤ人が存在していますが、彼らの影響力は劇的になくなっています。今日の最高会議では、4%以下がユダヤ人です。これに対して、[レーニンの時代には]97%でした。大きな変化が起こったのです。

 

Q:ソ連の専門職ではユダヤ人の影響力はどうですか?

A:あることはありますが、たいしたものではありません。政治的影響力はまったくありません。

 

Q:ロシア人と話したことがありますか?

A:はい、ソ連大使ヴァレンチン・ファリンと話したことがあります。ボンを訪問したときに、彼と会いました。もしくは、ケルンで広報秘書官とともに。彼らは私を歓迎してくれました。私たちは、このインタビューと同じように自由かつ率直に話をしました。政治生活においては、自分の敵と率直に話すのはごく当たり前のことです。

 

Q:ロシア人は本当に協力する姿勢を見せてくると考えているのですか?

A:今のところは、当てにできません。われわれが政治勢力ではないからです。政治的な力を持ったときに始めて、政治的要素として振舞えるからです。

私はパンフレットを執筆し、それをモスクワに送りました。その件についてソ連の大使館員と議論しました。彼ら全員が、もしすべてのドイツ人が私のように考えているのであれば、両国のあいだの政治的関係はもっとわかりやすいものとなるであろう、しかし、対処しなくてはならないのはボン政府であり、ボン政府はNATO同盟の一員、わが国の敵であると言っています。これが、今の状況です。

 

Q:あなたの団体の出版物が『ビスマルクのドイツ』と呼ばれているのはなぜですか?

A:ビスマルクが東方政策を追求し、ロシアとの「再保障」条約のおかげで、44年間の平和を享受できたからです。