What the World Rejected(その3)

 

Friedrich Stieve 著 What the World Rejected: Hitler's Peace Offers 1933-1939. からの翻訳です。

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

 

 

アドルフ・ヒトラーの考えと努力は、できる限り最良の折り合いを維持することを望んでいると証明することに向けられていたにもかかわらず、今や西欧諸国がかつての武力紛争の道へと従事しており、ドイツに対する新たな打撃を着実に準備していたことに疑惑の余地はなかった。数年にわたって彼はこの方向で数々の措置に取り掛かった。そのうちのいくつかはここで参照されるべきである。1935年6月18日、彼はイギリスと、ドイツ海軍はイギリス海軍の35%の能力だけを保有すべきと規定した海軍協定を取り決めた。第一次大戦前の見覚えのある日々に、極めて決定的な影響をイギリスとの関係に及ぼしたような、ドイツ国は海軍力に関して対抗する「意図も手段も必要性もない」と証明することを、これによってヒトラーは望んだ。

 

彼は、できる限りのあらゆる機会に、平和にやってゆきたいとの希望をフランスに保証した。彼はアルザス・ロレーヌについてのいかなる権利の主張も、平易な言葉で、繰り返し放棄した。ザール盆地地域が国民投票の結果、ドイツ国に復帰した1935年3月1日、彼は宣言した。

 

「自然な道理への復帰を見る、この公正な補償行為を通じて、ドイツとフランスの関係が永久に改善されたことを我々は期待する。それゆえ、我々が平和を望むように、偉大な隣国が、我々との平和を求める用意があり、平和を望んでいることを、我々は願わねばならない。欧州を打ちのめそうと脅かす困難に対抗して、二国の偉大な国民が協力し、協働することが可能でなければならない。」

 

ヒトラーは、西欧諸国の東側同盟国であるポーランドと、より良き理解に到達しようとの努力までなした。この国は1919年、数百万人のドイツ人を不法に編入し、それ以来、彼らを激しく抑圧してきたのであるが。1934年1月26日、彼はポーランドと不可侵条約を締結し、両国政府は「相互関係についてのあらゆる種類の問題を直接解決する」と同意した。

 

このように、彼はあらゆる方面に、平和を保つための決意と、かような方法でドイツを守るための努力を、敵対者に示した。けれどもロンドンとパリが攻撃のための準備をしているのを見たとき、彼はまたもや新たな防衛措置に取り掛からねばならなかった。先に見たように、敵国の陣営は、フランス・ロシア間の同盟を通じて劇的に拡大された。これに付言すると、二国はドイツ国の南にチェコスロバキアを通じた連絡線を確保しており、チェコスロバキアはロシアと条約を締結していて[訳注:ソ連チェコスロバキア相互援助条約のことと思われる]、ロシアは彼の国を、東から西へと架けられた橋の立場に置いた。ところがチェコスロバキアは、ビスマルクがヨーロッパの要塞と呼んだボヘミアおよびモラヴィアの高地を支配しており、この要塞はドイツ領へとずっと突き出ていた。こうしてドイツに対する脅威はまさしく圧倒的な程度を呈した。

 

アドルフ・ヒトラーの非凡な才能は、この危険を乗り切る方法を見つけた。クルト・シュシュニック政権の恐怖政治下で内戦に向かいつつあったドイツ=オーストリアの情勢は、その情勢を救おうと介入する機会とともに、どうしようもなく衰退する「自由国家」として暮らすことを戦勝国から宣告された南東の姉妹国を、ドイツ国に復帰するための機会をヒトラーに与えた。こうしてヒトラーがフランス・ロシア間の連絡線の辺りに取り掛かると、雑多な人種の国、チェコスロバキアが解体し始めた。チェコスロバキアは、ズデーテンが解放されスロバキアが分離するまで、多様な民族集団から人工的に寄せ集められてきたが、チェコ人自らドイツ国の保護を求めた。これにて敵の橋がアドルフ・ヒトラーの所有物になったと同時に、過去のある時から親善が約束されてきたイタリアとの直接の連絡が可能になった。

 

ヒトラーは自国の安全保障のための戦略的成功を収めていた一方、西欧諸国と平和的な合意に達しようと、彼は再び熱心に努力していた。英仏伊に承認されたズデーテン=ドイツの解放の直後、彼はネヴィル・チェンバレン英国首相とミュンヘンで合意した。その本文は次の通り。

 

「我々は、本日さらに会議を行い、両国および欧州にとって、英独関係の問題が第一に重要であるとの認識で一致した。

我々は、英独海軍協定と昨夜署名した協定とを、決して再び両国が戦争になることがないようにとの我々両国民の願いを象徴するものとみなす。

我々は、相違をもたらすかもしれない原因を取り除くための、そうしてヨーロッパの平和を保証するための、努力を継続すると決意した。

1938年9月30日。アドルフ・ヒトラーネヴィル・チェンバレン」。

 

二カ月後、ヒトラーの指示に従い、フォン・リッベントロップ外相はフランスと次の合意をなした。

「それぞれの政府の名において・指示によって行動している、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、独外務大臣、およびジョルジュ・ボネ、仏外務大臣は、1938年12月6日にパリで開催された会議で下記のとおり合意した。

1.ドイツ政府とフランス政府は、ヨーロッパにおける状況の安定化と一般的な平和の維持のため、ドイツとフランスとの平和的な善隣関係が、最も重要な要素の一つを構成しているという確信を完全に共有する。その結果、この方向で両国間の関係の発展を確実にするため、両国政府はあらゆる努力を尽くすつもりである。

2.両国政府は未解決の領土問題は存在しないと認め、現在存在する両国間の国境を最終的なものとして厳粛に認める。

3.両国政府は、他の列強とのありのままの特有な関係を残しておく一方、両国に関するあらゆる問題について、なお連絡を保ち、万一それらの問題についての両国間の連絡の進展が国際的な難題につながる場合には相互に相談すると決意した。

両政府の代表者が本宣言に署名した証として、本宣言は即座に発効する。

1938年12月6日、パリにおいて、それぞれフランス語とドイツ語、ふたつの原本を作成した。

ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ドイツ国外務大臣
ジョルジュ・ボネ、フランス外務大臣」。

 

すべての見積もりによれば、あらゆる主要国が参加する共同の再建のための方法ははっきりしていたし、平和を確保するための総統の努力はとうとう成功を収めるであろうと、人々は思ったはずだった。けれどもその反対が真実だった。チェンバレンは帰国するやいなや、新たに途方もないドイツ包囲の計画を立てて相当規模の再軍備を求めた。失ったチェコスロバキアの何倍もの価値を代用するため、イギリスは今や、ドイツ国包囲のリーダーシップをフランスから引き継いだ。彼の国はロシアとの交渉を開始し、ポーランドに保証を与え、ルーマニアギリシャ、トルコにも与えた。これらは火急の警鐘であった。

 

ちょうどこの時期、アドルフ・ヒトラーは、ポーランドとの摩擦の原因を全部取り除く仕事に専念した。この目的のため、1919年以来、耐え難いことに二つに引き裂かれたドイツ北東部・ドイツ自由都市ダンツィヒドイツ国への復帰と、分離された地域との連絡をもたらすポーランド回廊を通じた狭い通路という、まったく寛大な提案をヒトラーはなした。そのうえ25年の不可侵条約・その他の利益の展望をポーランドに与えたこの提案は、それにもかかわらずワルシャワで拒絶された。その点、ポーランドが、ロンドンによって作出された対独共同戦線の主要メンバーの一つを形成していたことを意識していたので、拒絶しえたのだと思われた。これがすべてではなかった!同じ意識でポーランドは攻撃的になり始め、ダンツィヒを脅迫し、ドイツに対して武器を取る準備をした。

 

こうして、その目的のために集められた国々による、ドイツ国に対する攻撃の瞬間が間近に迫った。平和の利益ために最後の非常な努力をしていたアドルフ・ヒトラーは、可能なものを救った。8月23日、リッベントロップは、ロシアとの不可侵条約をモスクワで締結することに成功した。2日後、ドイツ総統は自ら、最終かつ注目に値する提案をなした。「イギリスと協定を結ぶ」用意ができており、「どのような場合でも大英帝国の存在を守るのみならず、もし必要ならば、そのような支援が何処で求められたかに関係なしに、大英帝国のためのドイツの支援を保証するつもりである」。同時に、彼は「新たな政治状況と経済的要請に従って、合理的な武器の制限を受け入れる」用意ができていた。そして最後に、西側の問題には関心が無いし「西側の国境の修正は考えていない」と彼は再び保証した。


これに対する返答はイギリスとポーランドとの間で同じ日に署名された援助条約であり、避けることのできない戦争の発生をもたらした。そうしてワルシャワで、ドイツに対する戦時動員の決定が直ちになされ、ポーランド人は在ポーランドのドイツ人(しばしばおぞましい虐殺の犠牲になってきた)のみならず、ドイツ領のドイツ人にも激しい攻撃を始めた。