西安事件の密約と日中戦争(その2)

 

機械翻訳を利用した個人的な訳ですので誤訳によって生じた損害の責めは負いかねます。おおよその内容を把握するためのものとしてご利用ください。

Chiang Kai-shek’s “secret deal” at Xian and the start of the Sino-Japanese War

ティーブ・ツァン

 

 

翌日12月10日に開かれた会談で、張学良は、学生デモ隊と約束したように蒋介石を説得しようとした。蒋介石は、張の忠告を世間知らずと口汚く片付けたので、いらだっていた張の癇に障った。平和を乱し、デモによって政府の政策を妨害した学生たちを、必要ならば銃を用いて鎮圧すべきだ、と蒋介石は語ったと伝えられている(張學良口述自傳)。この日の夕方、蒋介石は、張に無常で乱暴だったことを悔やんだが、この感情的な非難の会談がどれほど大きな影響を有したのかにはまったく気が付かなかった(事略稿本:1936年12月10日)。これが、蒋を説得する唯一の方法は、彼を誘拐して政策の優先順位を逆転することに同意させることであると、張に決断させた。この劇的な口論よりも前に張が決断したという証拠はない。

 

国内統治の強化よりも前に、侵略的な日本に対して毅然とした態度で臨むよう、蒋介石に中国全土を指導させたいと張は望んだ(軍隊の福建省への再配置と彼自身の降格についての懸念もまた張学良の動機であったかどうかは、絶対的な確実性を持って確証ないし退けることはできない。けれども、もしこれが彼の第一の動機であったとすれば、蒋介石の釈放に同意した後、南京へと蒋介石に同行することを選択しなかったであろう。彼の共謀者である楊虎城はそうしなかったし、そうするように圧迫されなかったからである)。決断のあわただしさは、西安での部隊の配備やクーデターの実行にも反映された。張にはより大きくて精強な東北軍西安に移動させる時間がなかった。もっと早く反乱を起こすと決めていたなら、そうすることが理にかなっていただろう。その時の西安の治安は、張学良の長年の味方ではない、楊虎城の第十七路軍が握っていた(張は西安郊外に別の高射砲連隊を配置していた)。張には東北軍の護衛連隊が市内に一つだけあった(朱文原編:西安事變史料)(楊の兵数36,000に対し張の兵数はおよそ85,000に達した)。行動すると最終的に決意したとき、張は指導者としての役割と責任を引き受け、反乱の副指導者として務めるよう楊虎城を招いた。楊は蒋介石を逮捕するため展開することができた十分に大きな兵力を西安に持っていたけれども、張は自身の比較的少数の護衛隊を派遣した。

 

この重要な作戦において、楊は、張の護衛隊に参加するよう部下に命令しなかった。二人の有力な反逆者がお互いを信頼し合っていた可能性を完全に排除することはできないけれども、それはありそうにない。よりあり得そうな説明は、張は、殺傷するためではなく、ただ蒋介石を捕まえたかっただけなので、蒋の生命を楊の部隊に預けなかった、というものだ。張の計画は、反乱が失敗した場合に備えて一見もっともらしい否定論拠を与えたので、楊にとって都合が良かった。万一の場合、張にすべての責任を負わせて優勢な兵力を差し向ける選択肢があったので、楊は有利な立場のままだった。

 

張の部隊は、口論から48時間を経ていない12月12日の早朝、蒋介石西安の邸宅で捕らえようとした。蒋の小規模な護衛部隊が抵抗したので蒋介石は塀を乗り越えて逃げたが、暗闇の中で溝に落ちて腰を痛め、山腹に避難した。蒋は午前9時前に発見されて捕らわれた。

 

張学良と楊虎城は、蒋介石の最初の反応に面食らった。交渉を始めるどころか、彼らとの話し合いを頑なに拒否し、食事を辞退した。ショックの中、差し当たりの身の安全と同じくらいに、歴史における自らの位置について、蒋介石は考えているようだった。捕えられた山の中でも楊の司令部でも、蒋は、何よりも自分の威厳が傷つけられないことを主張した(蒋介石自身の事件の説明「西安半月记」は、自身を肯定的に伝えるために書かれたことが明らかだ。だが、蒋介石の、張と楊に対して正当かつ断固とした態度を取ったという主張は、1936年12月12日、楊司令部の守衛 Wang Zhiping により独立して追認された)。蒋介石は、自分は張と楊にとって大きな価値があるので、その場で処刑することはできない、と内心計算したに違いない。いずれにせよ蒋の非協力的態度は張と楊を困惑させた。蒋に強要するとの張の計画はうまくいかなかった。彼らは早速共産党に助言を求め、とりわけ、張が大いに感服していた周恩来にこの問題を前進させる助力を依頼した。

 

12月12日の正午頃、保安県の共産党指導部は電報で事件を知り、彼らは衝撃を受けながらも歓喜した。毛沢東は狂喜し、一方、朱徳将軍など、蒋介石の即時処刑が最善と考えた者もいた(张国焘:我的回忆)。結局、コミンテルンに指示を仰ぐ間は張と楊を味方に留め置かなければならないと決定し、毛沢東はモスクワへの電報を起草した。

 

支配的な地位ではなかったけれども最高指導者の一人として保安県に居合わせた張国トウは、彼の回顧録で、周恩来西安に派遣され12月13日に到着し、同日の夕方(スターリン自身によって起草された)コミンテルンからの返事が届いたと回想した(张国焘:我的回忆)。張国トウによると、スターリンはこの事件を、中国で内戦を起こして日本の侵略に対抗する能力を低下させるために日本が仕組んだものと考え、ソ連がこの罠に陥ってはならないとした。スターリンは、蒋介石こそ中国を抗日へと導くことができる唯一の人物であると考え、蒋介石を指導者として統一戦線を形成することで事件の解決を図るよう共産党に指示した。日本の軍国主義者たちがソ連に注意を向けることができないよう、蒋介石が、日本の侵略に中国を抵抗させることがソ連の利益になるとスターリンが考えていたことが今ではわかっているので、張国トウの説明には信憑性がある。

 

とはいえ中国の歴史家 Yang Kuisong は、張国トウの説明に対して異議を唱えてきた。蒋介石との協力による西安事件の平和的解決という重要な決定は、スターリンの電信での指示が届く前に共産党指導部によって下されたとYangは主張する。彼は、スターリンからの電信が実際に届いたのは3日後の12月16日のことで、その日は周恩来が実際に西安に着いた日であったとの根拠を示してきたけれども、Yangは手紙の日付を誤解していた(周恩来は12月17日に西安に到着したとYangは言う。実際は周は一日早く到着した)。また彼は、電信が解読できなかったこと、解読できたものは、主要な決定がなされた政治局会議の翌日、12月20日に受け取られたと示唆する。同年6月に設立されたばかりの保安県=モスクワ間の通信は数ヵ月間、当てにならなかったので、モスクワとの通信の困難が発生した可能性を排除できないと、別の情報源は確かめる(Kampen T:The Zunyi conference and further steps in Mao’s Rise to power. これに私の注意を引いてくれたKampen教授に感謝する。保安県とモスクワが直接通信網を構築したのが1936年6月であったことは Liu W によって確認された)。

 

これは、電信が共産党を「Uターン」させたと明確に示唆する Hans van de Ven の解釈と矛盾する。彼によると、毛沢東周恩来は、蒋介石を「人民法廷に持ち込む」との共産党の12月15日の立場を、「平和的解決と蒋介石の安全の確保」へと反転すると12月17日に決定した。この件について、毛沢東が保安県に物理的に滞在している一方、周恩来西安で張と楊に助言していた時、毛沢東周恩来が12月17日に共同決定を下して連携して行動することは、不可能ではないにせよ極めて困難であったはずだという現実によって van de Ven の解釈の信頼性は損なわれている。連携して行動するためには電信によって調整する必要があるけれども、電信は西安のはずれで張と楊によって管理されていた。Van de Venは、電信の調整が行われたことを示す証拠や、張と楊が、西安の電信設備を保安県との秘密通信に使用させたことを示す証拠を提供していない。共産党本部は、張と楊が監視していたこの機能を使用して周恩来に指示を伝達することができたし、そうしたに違いないけれども、毛沢東は、次に何をすべきか周恩来に意見を求めることができなかった。いずれにせよ、モスクワからの電信は、張学良の行為は抗日統一戦線の形成に有害であり、共産党はこの事件の平和的解決を追求すべきであると述べるにとどまった(コミンテルン執行委員会事務局から中国共産党中央委、1936年12月16日付電文。モスクワ、ロシア社会政治史料館、所蔵495/目録74/ファイル281/シート11。Jay Taylor がロシア文書局についての研究ノートを共有してくれたことに感謝する。彼のメモは電信を英語で複写している)。

 

Yangの解釈については、彼自身からも他の誰かからも、中国共産党が、長く待たれた、明らかに重要な、電信の再送を12月18日にモスクワに要求するまでなぜ2日もかかったのか、その電信は解読できなかったと主張した後の説明がない(共産党がどのようにこの問題を手渡したかに関するYangの解釈は、共産党がスポンサーの出版物の記録とほぼ同じである)。スターリンの返信が最初に受信される前、モスクワに催促状が数回送られているのであるから、それは電信局員による処理ミスや見落としであるはずがなかった。同様に、Yangは、共産党が、まずコミンテルンに指示を仰ぐと決定し、18日に指示の再送をスターリンに要求した後、12月19日にこの問題を裁決した理由を説明していない。もし原本が全く読めなかったというなら、なぜスターリンの電信の再送を待たず、共産党が12月19日に対応策を決定する必要があったのか、説得力のある理由を誰も説明していない(Yangの説明では、毛沢東が電信を送って3日後にスターリンの最初の返事が届いた。12月18日に請求を送信したのち、同じ電信を再送するのに3日以上かからないと想定するのが合理的だ。共産党が電信の再送を求めてから1日以内に行動したのなら、それには説得力のある理由がなければならない)。

 

モスクワからの電信による直接命令のもと、蒋介石に関する当初の判断(蒋介石を見せしめ裁判にかける)を、一週間が経たないうちに覆したにせよそうでなかったにせよ、スターリンが示唆し、あるいは望んだとおりに、毛沢東共産党指導部は行動した。実際のところ、スターリンの電信による最初の回答の主要部分が読めなかったとしても、ソ連共産党の見解は、中央委員会の公式機関であるプラウダ紙の12月14日の社説の中で明確に表明されていたのである(プラウダの社説は12月16日の電信で伝えられた基本姿勢と一致する)。

 

中国共産党がこの時期の全ての記録の無制限アクセスを許可しない限り、共産党がその方針を転換・変更する前に、スターリンの電信指示の最も重要な部分が首尾よく解読されたかどうかを疑問の余地なく証明することはできない。しかしながら、正確な日付を覚えていなかったとはいえ、張国トウの回想を否定しなければならぬ説得的な理由はない。彼が正しく思い出したように、周恩来西安到着とスターリン電信の受領は同じ日の出来事だった(張国トウは毛沢東との権力闘争に敗れ、回顧録を書いた時には共産党を離れており、利己的な下心があったかもしれないが、この事件の回想を意図的に歪めても何の役にも立たなかった)。

 

彼が物語った主な出来事の順序に違いをもたらさない2つの出来事が実際の3日前に起こったと述べたことを除けば、その他の回想に著しい誤りはない(Chen Yongfaも張国トウの事件説明の全般的な信頼性を検証し、基本的に正しいと結論付けた)。実際、張学良によると、西安で面会したとき周恩来スターリンの立場を知っており、 「スターリンは事件を承認しておらず、蒋介石が中国の指導者であり続けることを望んでいる」 と述べたという(張学良:Columbia interviews, vol. 39)。

 

共産党スターリンの指示に従ったかどうかという問題について、毛沢東は、国民党政権と日本との戦争を扇動することの重要性を認識したのではないかとの見方を John Garver は示す。これが共産党の姿勢の変化に寄与したかもしれないと。なきにしもあらず。代替であれ付加であれ、この2つは相互に排他的ではないので、殊にプラウダの社説と並べて読まれたとすれば、スターリンの電報における重要なメッセージは十分明確に伝わったという説明になるだろう。2日後に送られたスターリン電報の再送要求は、基本方針ではなく、平和的解決の基礎としての、スターリンが描いた具体的詳細があるかどうかを確かめるためだった(コミンテルン執行委員会事務局から中国共産党中央委、1936年12月16日付電文。モスクワ、ロシア社会政治史料館、所蔵495/目録74/ファイル281/シート11。解決の基礎となるべき4点は①抗日分子の幅広い組織を組み入れるための中国政府の再編②国民の民主的権利の保障③中国赤軍撲滅作戦の終結と政府軍との提携の樹立④中国の窮状に同情的な国々からの協力および支援の追求)。このため、共産党指導部は、詳細を伝えるスターリンの電信が再び受信される前であっても、当初の決定を覆えすことの確信を持っていた。スターリンの電信指示を全て受信する前に毛沢東が考えを変えたかどうかは別として、「モスクワが介入し、その介入が共産党の当初の急進的な姿勢の反転をもたらしたという事実は依然残る」(Garver J W:The Soviet Union and the Xi’an Incident)。